2

 明け方――。

 俺は布団に潜ってオンボロアパートの汚い天井を眺めていた。

 瞼を半分閉じても一向に眠気はやって来ない。夜勤明けで疲れているというのに、一向に体が眠ろうとしないのだ。

 日向が屋上から飛び降りる夢は数日前から見なくなった。正確に言うと見ないようにした、が正しいのかも。


 あまりの恐怖と抵抗に、俺の眠りは極端に浅くなって、眠っていても常に意識が半分あるとでも言えばいいのか。少しの物音でも直ぐに起きることができる。こんな睡眠の取り方して、我ながら器用だとも思うが、勿論これでは気持ち的には眠った気にならない、というか、実質眠っていない。

 肉食獣を警戒する草食動物のようだ。

 深い眠りを恐れて、悪夢を恐れて、脳が熟睡しないように信号を送っている。ああ……だめだ。こんな生活続けていたら、また近いうちにぶっ倒れる……。


 やがて気持ちの悪いまどろみがやって来る、このまま眠りに落ちたいけど、そうすれば悪夢が待っている。悪夢への恐怖を紛らわせる為、俺は別のものへ意識を送った。

 天井の木目、それからシミ。

 最近こうしていて分かったことだが、板の木目とシミがなんだか人の泣き顔に見えてきた。

 これまで気がつかなかったけど。丁度それは、俺の布団の真上にあった。

 木目が目、シミが大きく開いた口。見れば見るほど情けない顔だ。

 俺も今こんな顔をしているのだろうか。

 ……。コチコチと音を立てる時計の針。静かだ……。

 時計に目をやって、もう一度天井に視線を戻した。




「お前の所為だ」


 脳内に響く太い声。天井の顔が喋った。



「殺したのはお前だ」


 こけしのように細い目で俺を睨む。


「お前が殺した、お前が、お前が……」


 真っ黒い口が同じ言葉を吐く。

 お前が殺した――。

 逃げられると思うな――。

 あいつは直ぐに此処に来るぞ――。

 お前を同じ目に遭わせに――。


 体が大きく跳ねあがって、気がついたら目が覚めていた。時計の針は三十分程進んでいた。

 恐る恐る天井を見る。上には今しがた見たのとは比べものにならない。人の顔に見えるだけのただの木目とシミ。汗ばんだ腕で額を拭う。俺は寝ぼけていたのか。

 布団から起き上がり、部屋全体を見回す。なんの変哲もない、汚いボロ屋。歩けばギシギシ言う床、油と焦げだらけのコンロ。ガムテープで補強してある窓ガラス。穴が開いた押し入れの戸。

 なにも、なにも変わりないはず。はずなんだ。

 なのに、どうして、俺の目はさっきからこんなにも泳ぐ。

 なにを探しているんだ。探している?……違う、そうじゃない。そうじゃない……。

 誰かが、どこかから、覗いている。そんな気がしてならないのだ。

 気のせいだ。

 そう思いたくても心臓の音は反対にどんどん速くなっていく。


「日向――、」


 風もないのに風鈴が音を立てた。


「お前なのか」


 息を止めて、覚悟した。

 体中を血の色に染めて、首の骨、脚の骨、腕の骨、なにもかもぐちゃぐちゃになった、奴が目の前に現れることを。


 ――次の瞬間。


 想像したことが起きる代わりに、予想もしていなかった衝撃が俺を真横から襲った。


 携帯がバイブと共に激しく枕元で鳴ったのだ。

 散々身構えて、心臓バクバク鳴らして。なんでよりにもよってこのタイミングでお前は鳴る!?

 お構いなしにピリピリ一定のリズムで鳴り続ける携帯を引っ掴んで乱暴に開く。もうこれでメルマガとかだったらいっその事へし折ってやろうか。


 情緒不安定が長く続いている所為か、俺のストレスも限界を迎えていて、着信が本当にメルマガだったら携帯は二秒後にはガラクタになっていたことだろう。


 だが、画面に太字で表示された馴染みのある名前に俺の頭は一度冷め。それでもまた一気に沸騰し。大きく息を吸い込んで通話ボタンを押して電波で繋がった相手に。


「ンッッッだよてめー!!ぶっ殺すぞ!!」


 開口一番最悪の台詞を浴びせた。

 朝の八時半。こんないきなりぶっ殺すぞなんて言われた日には、誰だって気分を害して電話を切りたくなるだろうが、俺に電話を掛けてきた相手はそれに怒るでもなく、笑い声をあっち側で上げている。

 この普通の笑いから、引き笑いへの変わり方。のほほんとした、天パ野郎の顔が浮かぶ。


「木下ァ……」

『あれ、マサ朝から不機嫌?』

「不機嫌もクソもねぇよ、今何時だと思ってんだ」

『何時って、……八時半、過ぎ?朝の、おはよ?』

「正解だよ。おやすみ」


 欠伸を一つして俺は電話を強引に切ろうとする。どうせこいつが電話する場合はくだらない世間話をする時がほとんどで、しかもどっかのおばちゃん並に長話ししたがるから、早めに切って損なことはない。俺の次の動作が読めたのか、木下は慌てて向こう側から俺を止める。


『おい、ちょちょ!待て待て!お待ちなさいって!!』

「んだよ」


 こちとら夜勤明けでくたくたなの。


『あ、そうだったのか、お疲れ。で、マサ、今日これから暇?』


 ねぇ人の話聞いてた、君。

 俺、夜勤明けなの。凄く眠たいの、眠れないけど。


『暇だったらこれからちょっと付き合って欲しいんだけど』

「暇じゃないから付き合えない」

『なんで?夜勤は終ったんだろ?』


 だからお前は……。

 ダメだ。A型の俺にAB型の奴の思考は全く読めん。


「悪いけど、俺家から一歩も出たくない」

『えー。フリーター辞めて遂にひきこもりになっちゃったの』

「お前今直ぐウチ来いよ。ぶん殴ってやっから」

『それよりマサが駅に来てよ』

「だーら……」


 出たくねんだよ……。

 俺完全に夜行性だし、ただでさえ不調なのに太陽の光浴びて街歩きたくねぇし。

 こうなったら木下がなんと言おうと俺は動かない、テコでもな。


 用件だけ聞くから、また今度にしてくれよ。そう言いかけたら。木下が釣り針を放ってきた。


『朝メシ奢るよ、テラマフィンのセット、あとアップルパイもつけてあげよう』


 …………。ふむ……。そうきたか。



 ◆◆◆


 こうして、俺はけして大きくない釣り針にまんまとかかり、一本釣りされてしまったわけだ。

 駅前で待ち合わせして、先程の約束通りファーストフード店で朝食を購入。

 で、これからなにをさせたいんだと面倒臭そうに問えば。木下は俺に切符を渡してきた。


「気分転換」


 いやいや、なに?切符って、電車?


「どこ行くんだよ」


 おい――。

 もう一度問えば、木下は俺の朝メシの紙袋を抱えたままさっさと改札を通ってホームに降りて行ってしまった。


「なんだよお前、急に呼び出して。どこに連れてくつもりだよ」


 出発して数分経つ電車。

 向かい合った座席に座り、車窓を少し開けて。どこか上機嫌な木下に俺は紙袋を寄越すように手を出した。


「食欲はあるんだ、良かった良かった」

「ハァ?」


 紙袋を静かに開封して、買ったばかりのマフィンの包みを俺の手に握らせて、木下は自分の分のアイスコーヒーをサイドテーブルに置いた。


「これさあ、たまに食べると美味しいよね」

「だよな、……ってそうじゃなくて」

「うん?」

「説明しろよ、順番があべこべだろ」


 木下は自分の髪の毛を指に巻いて弄びながら応える。


「いや、マサ、どうしたかなーって、あれから」


 いつも思うがこいつの喋り方は独特でなにかと倒置法が多い気がする。頭は俺達腐れ縁の中で断トツいいが、どっかネジがユルイ。


「なんか元気なさそうな気がしたから、電話したんだよね」


 だが、人の心の内は怖いぐらい的確に当てる。

 顔も見てないのにお前は一体何を感じ取ったと言うんだ。


「勘かな」


 勘にしたって当たり過ぎだろ。


「当たった?」


 ここで強がっても、こいつに嘘は通用しない。


「そっか、まあそうだと思ったよ、顔色もよくないしね……最近眠れてるの?」

「寝た気にはなれてないな」

「やっぱり、まだ視えてるんだ」

「まあ……」

「今はなにかいる?」

「……」


 俺は車両の一番後ろにある座席の方を見る。


 ウォークマンをつけて窓辺にもたれて、大口開けて寝ている大柄な男。

 男が頬をべったりとつけているその窓ガラス越しに、やせ細ってみすぼらしい姿の老婆が両手を張り付けた格好で男を下から眺めている。

 見ていたら、そいつは眼球をゆっくり動かし俺に目線を合わせてきた。半開きの口が僅かに動いてなにかをぼやいている。

 俺は直ぐさま顔ごと逸らして、そいつを見なかったことにした。


 その俺の動きだけで木下はだいたいのことを把握したのか、難しそうな顔をしてアイスコーヒーを飲んだ。


「どうにかして、それ無くならないかな」

「無理だろ、今のまんまじゃ」

「コンビニは辞める気ないの?」

「今のところな、……今辞めたら、きっとあいつが許さない」

「あいつって、日向ちゃん?」

「ああ……、あいつさ、最近俺の前に出てくるようになったんだ。なにも変わっちゃいない。死んだ時の姿のまま」


 流石の木下もそれには驚いたようで、言葉を失っていた。


「……ほんとうに?」

「ああ、俺、視たんだ……」


 この間の飲みの時には話さなかったこと。今までの出来事、立て続けに起こる事件、コンビニのこと、竹中さんのこと、日向のこと。全て俺は木下に話した。

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