7
それから――。
それからだった――。
始まったばかりの夏が。
高校野球最後の夏が。
涙を流す間もなく、呆気なく終わったのは。
全国大会、予選。結果は、初戦敗退。大差をつけられ、文字通りの大敗。過去の記録を見直しても、ここまでの成績はいまだかつてない。それ程の酷い試合だった。
監督も、マネージャーも、ベンチの奴らも、チームメイト達も……観客席の人間も、みんな、絶望的なものを見るように得点ボードを見ていた。
終った……。短すぎた……。
やっと始まった夏が、最後の夏が。たった、一回の試合で――。
血がにじむまで、俺は拳を握り締めて見ていた。
雨に叩かれ、チームメイトが声を上げながら涙を拭うマウンドを。ずっと離れたベンチから……。
こんな場所で終わるなんて思っていなかった。終らないはずだった。
相手校を甘く見ていたわけでもないし。勝ちか負けかのどちらかしかないことも、知っていた。
それでも。終わらない自信があった。終われない、強い思いがあった。なのに――。雨に濡れた得点ボードには、俺達のチームの完敗が刻まれている。負けたんだと、思い知らせる。
負けた。
そう、負けたのだ。全力を出さぬまま。負けたくない、勝つんだと、足掻く前に――。
何故負けたのか、そんなの、誰もが分かり切っていた。
チームの息があわなかったとか。相手の勢いに呑まれたとか。そんなんじゃない。
敗因は他でもない。
俺だったのだから――。
相手チームを抑える
試合中、相手チームが打ち返してきた弾をくらい、右肩を脱臼したのだ。
凄まじい速度で飛んできた球を避けることができずに、そのまま派手に転がった。
試合は直ぐに中断され。血相を変えた仲間達にベンチに担ぎこまれて控えていた救護班の人に処置を施され、アイシングを当てられたが。その後、俺が再びマウンドに戻ることはなかった。
汗が噴き出るくらいの鈍い痛みを堪えて、もう一度出させてくれと何度も訴えた俺だったが、監督や救護班の人達は首を横に振るだけ。
その肩ではもうこの試合では投げることはできないと、残酷な言葉を突き当てられた。
そしてそんな俺の代わりに出されたのは一つ下の後輩。
殆ど俺が一人占めしていたその場所に立って、予期せぬ事態に責任感じてガチガチになった後輩が満足に力を発揮できるはずもなく。チームメイト達も緊張や不安から動きは鈍くなり普段なら有り得ないミスが連発し始め、チーム全体があれよという間に崩れていき、回を重ねていくたびに点差は開いて、終いには目も背けたくなるような結果がそこに出来あがった。
俺の代わりに立った後輩や、同期の仲間達は、最後になるまで足掻き続け、観客席の人間が試合の途中で退場しても、諦めの溜め息を吐いても、それでも戦った。終わる前に涙を浮かべながら走っている奴もいた。
マネージャーも、補欠の奴らも、泣きながら最後まで声をグラウンドに届けた。
団結していた、そんな言葉で綺麗に纏める気はないが。
みんなが、一生懸命やっていた。
でも、俺だけは。
最後の最後まで。
声を張ることも、発することもできず、みんなが涙を流す中、一人だけ俯いて歯を食いしばっていた。
俺を気遣って違うと言ってくれた奴もいたし、あまりの悔しさにそうだと言い切った奴もいた。
何を言われても、これだけは変えようのない事実だった。
俺、ただ一人の所為で。
このチーム全員の夏は、幕を閉じたのだ。
◆◆◆
気がついたらまた此処に来ていた。
俺は。錆びた旧校舎の屋上の手すりを握って、前のめりになって下を眺めていた。
何も考えちゃいなかった、頭の中は真っ白……、いや、真っ黒だったのかもしれない。
自分でいうのもなんだが、この時、今までの人生で一番酷い顔をしていたと思う。
無念の完敗から数週間……。あれから色々あり過ぎて、俺は完全にぶっ壊れていた。
結局三年生の引退会も出ず、残りの夏休みの練習にも出席せず。チームメイトや木下達から送られたメールも殆ど無視して。無気力な日々を過ごした。
壊した肩の方はそこまで酷くはなく。監督が、続きは大学で思い切りやれ、と言って背中を押してくれたが。俺は先日その話を断った。
はっきり言って、どうでもよくなってしまったのだ。
あんな終り方して、よし、じゃあ切り替えて大学でも頑張ろう。なんて気は簡単には起こせなかった。
野球が嫌いになったんじゃない。
ただ、自分に絶望したのだ。
誰の為でもない、誰に強制されたことでもない、自分の為にやってきたこと……、自分が唯一自信を持てること、自分が好きで好きでたまらなかったこと。
最後だから、後悔の一滴も残さぬように全力を出し切ろうと思っていた。
それが、それがよ、あんな終り方して。あんな、酷すぎる終り方で。
自分を許せるはずがない。
一緒にやってきた仲間、後輩、そして応援してくれた奴ら、勿論みんなに悪いことをしたと思っている。
でもそれ以上に、俺は、あんな場所で終ってしまった自分がを許せなかった。
今更なにを言っても保身に聞こえてきそうで、だから誰にも、メールも返せなかったし、涙も見せられなかった。
過信していたわけじゃないが、投げることこそ俺の最大の取り得だと自負していたのだ。
その投げることすらも出来ずに、チームを敗北に引っ張った自分は……。本当にどうしようもないやつになってしまった、そう思った。
どんな励ましも慰めも、この時は届きはしなかった。
心の中に広がった泥みたいなものはどうもがいても振り払えなくて。
俺は残り少なくなった夏休み、誰にも構われたくなくて開けっぱなしの旧校舎の屋上に通い詰め、気が済むまで毎日のように手すり越しに立ってぼーっとやり過ごした。
負傷が原因で負けるなんて良くある話だろ、とか、お前のせいじゃない全員の力不足だったんだ、だから元気出せ、とか。ありきたりな言葉を沢山貰ったが、一つたりとも心には響かなかった。相手は考えて言ってくれたんだろうが、今直ぐに起き上がれる気力はなく。
これからどうしようとか、どう立ち直ろうとかも考えず、誰にも心配されず関わられずに、心の中の泥に、今はただ埋もれていたかった。
「また、来たんですね、先輩」
「日向……」
まともに会うのは文化祭の時以来。
「……なんでここに」
「音楽室から旧校舎の屋上見えるんですよ、先輩最近いつもここにいますよね、なにもしないで立ったままだから、みんな幽霊が出たって怖がってましたよ」
「は……そうかよ」
幽霊と間違えられても文句は言えないよな、今の俺は全てに置いて無気力なんだから。
手すりに背をつけて日向の方を向いてやる。
日向は、心配そうでもない、困ってもいない、いつもと変わらぬ表情で俺を見ていた。
何も言わないでいると、日向は俺の方に手を伸ばしてこう言った。
「行きましょう先輩。ここは暑いから、下に行ってなにか冷たいものでも飲みませんか」
あえて触れないようにしたのかもしれないが、そんな気遣いは嬉しくない。俺はその誘いを素っ気なく断る。
「行くなら一人でいけよ、俺は……いい」
「えー、先輩のいけず、行きましょうよ、ここにいたら日射病になっちゃいます」
「いいって言ってんだろ……一人にさせろよ」
これがいつもだったら……。
日向は、そうですか!わかりました!なんて言って離れていくはずなのに。
この日だけは違った、日向はその場に居座りしつこく俺に構ってきた。
「ね、先輩ってば」
「うるせぇな、一人にさせろって言ってんだろ」
遠まわしに追い払ってもなかなか帰らない日向にだんだん苛々してきて、俺は無意識に言葉を尖らせていく。
それでも日向は怯まなかった。
「先輩らしくない」
言い放たれた言葉に俺は日向を睨む。
「なんだよ……」
「いつまでも、そうしてるつもりですか」
日向は薄い笑みを貼りつけたまま近づいてくる。
「そこにいたって、なにもならないのに。わたしが何を言っても今は無駄なのかもしれませんが、……先輩。後ろじゃなくて、前を向いて下さい」
「……なに言ってんだよ」
「その方が先輩らしい。後ろばかり見ている先輩なんて先輩らしくない……そんな先輩、わたしは見ていられない」
「俺らしいってなんだよ、お前になにがわかんだよ」
いつまでも過去を悔やんでうだうだしていることが良いなんて勿論思っちゃいない。
日向の言葉は間違ってはいない、ここ数週間ずっとこんな調子で、誰からの言葉も受け入れず、いくら悔やんでも戻ることはできないあの瞬間ばかり思い返しては、なにも出来なかった自分に腹を立てて。
その繰り返しだ。
変わらない事実を思い返して、絶望して、これじゃあだだをこねている子供となんら変わらないのかもしれない。
自分がしていることは、無意味な甘えにすぎない。
そう頭の隅で自覚していても、今まで全てを投げ打って、必死にやってきたことだから、だからこそ。
簡単に納得することができない、割り切ることができない……。
あれは俺の、全てだったのだ。
その頑固な思いが、俺を大人にさせてはくれなかった。
「お前なんかになにがわかるってんだよ……!お前なんかに……なにも知らないお前なんかに!!笑ってんじゃねえ……!!」
日向の言葉を飲み込むこともできず、受け止めることもできず。
俺は奴に今の自分を全否定されたのだと思い込み。積み重なって抑えきれなくなった怒りを爆発させた。
初めて、日向に怒鳴った。
日向は一瞬だけ肩を揺らす。
俺に対しての隠しきれない恐怖と驚きが一瞬のうちに出たのだろう。
それを知ってもなお俺は、剥き出しにした怒りを納めることはできなかった。
「そうだよな……三回裏で引っ込んでそれから試合終るまでベンチ入りで、大勢にダセぇ姿見せつけて、チームメイト失望させて、自信もなにもかもなくなっちまった今の俺は笑われたって仕方ないよな?」
我を忘れて、長い間胸の奥で渦巻いてきた黒い感情を吐き出していく。
茫然として立ち尽くす、一つ下の後輩に向けて。
「そうやって言葉かけんのはさ、俺を見下してるってことか。それともなに?元気づけるふりしていい奴ぶりてぇの?なあ」
偽善者でも見るような目で、俺は口元を吊り上げる。
こんな言葉、一度だって日向に投げたことないのに。投げようと思ったこともないのに。
俺は容赦ない言葉を、次々と……。
「本当は心ん中で大笑いしてんだろ。あんだけ大口叩いて、たった一回の試合で負けて、過去のこと振り返ってばっかの往生際のわりぃ俺を!!」
日向の瞳が、暗い色に染まっていくのに気づいておきながら。
「いいよな優等生は、出来ることなんて数え切れないくらいある上に人気者なんだからよ。今までそつなくこなして、なんも苦労したことないんだろ?」
だからああいうこと言えるんだよな。
本気で苦しんだことがないから。
簡単に前を向けない状態の奴に前を向けって言えるんだよ。
「向けるかよ……お前には沢山あっても、俺にはあれしかなかったんだからよ!」
込み上げてくる感情が止まらない。
「ヘラヘラしながら軽い言葉吐くんじゃねぇよ!そんなの聞かされたって嬉しくないんだよ!!」
自分が自分ではないようにさえ思えた。
明らかにこれは、一方的な八つ当たりなのに。
俺は、止まらない。
今まで抱いてきた、日向が俺に纏わりつく理由についての疑心もあいまってか、暴走する感情は更に加速していった。
「だいたいお前なんなんだよ、俺みたいな冴えない奴何人かひっかけて、影でこそこそ遊んでんだろ?色んな奴とっかえひっかえして、おちょくるのを楽しんでるんだろ」
やめろ。
「そうやって、嘘並べて人の反応見るのがそんなに面白いか」
さっきの言葉も、あれも嘘か。
嘘で俺の機嫌をとろうとしたのか。
掴みどころのない奴だから、裏も表も俺には見極めることができなくて。もしかしたらいいように弄ばれているんじゃないか、けして口にしなかった本心が、凶暴な言葉に姿を変えて出された。
「最初に会った時からお前そうだったよな、嘘ばっかり。本心が全く読めない、いや、はなっから本心なんてなかったのか……、ちょっとはいい奴かもなんて思った時もあったけど、やっぱ俺、お前のこと信じらんねえよ……」
やめろ……。
「お前は本当のことなにも話さねえしな……、いつもはぐらかして、ふざけてばかりで、どこからどこまで信じていいのか、わかんねーよ」
止まれ……、それ以上言うな……。
「この間のあの話も、嘘だったんだろ」
今まで突っ立っていた日向が顔を上げて、震えた声で、そこで初めて否定の言葉を口にした。
「ちがい、ます」
「じゃあ証明して見せろよ、その幽霊ってのが本当にいるもんなのか」
「それは」
「できねーよな、どうせ嘘なんだからよ」
言うな。
やめろ……。
「お前も結局そういう類の奴と同じなんだな。ありもしないことを、さも体験したように話して、周りを混乱させる……」
「……先輩」
「人気者だしな、そりゃお前が話せばみんな信じるだろ、そんな話でも」
「ちがいます、先輩、きいて……」
「もう充分だろ、これ以上俺に付き纏うなよ、お前の嘘は、もう聞きたくない」
「きいて……」
「だから、もういいって――」
日向の瞳が今まで以上に見開かれ。
口が大きく開かれる。
「わたしの話を聞いて先輩――!!」
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