4

「できれば何も起こらないで欲しいな……」


 切なる願いだ。

 真夏の蒸し暑い空気を全身に受けながら、俺は気を奮い立たせた。


 いけない。こんな気持ちでいたら。前にも竹中さんに教わった、気持ちが弱くなる程そういうものは寄ってきやすくなるのだと。


 むしろなんでもどんと来いという気持ちで構えているべきだろう。……と考えてはみるものの、やはりなんでもというのは無理だ、限度がある。


 数十メートルに一本という電灯に寂しさを感じながら、俺は何度目かのカーブを曲がる。


 視界の右側にチラつくのは鉄板で補強された白いガードレール。


 俺があのコンビニに来る前に、バイクの転落事故があったんだっけか……。

 確か転落した人は、死んだとか。

 店長が言ってた。

 あの場所は転落事故が絶えないらしい。なんでかなんて考えたくもないが、年に何件かは必ず起きる。

 だから毎回ああして真新しい鉄板が当てがわれている。

 ガードレールを修復するのが間に合わない程、頻繁に起きているという証拠だ。

 一瞬で通り過ぎるカーブだけど、俺はなんだか薄ら寒さを感じ、その場を曲がった。

 変なものを視そうな気がなんとなくしたんだ。


『日向ちゃんか……』


 木下の言葉が脳裏に蘇る。

 まったく……勘の良い奴だ。


 俺はバイクに乗りながら、気持ち悪いけど一人苦笑した。


 日向ひゅうが あおい――。


 その名前、懐かしい響き。

 久々に聞いた。

 久々に誰かに口にされた名。


 俺には、聞きたくない名でもあったが。


 記憶のどこかに封印して。

 脳の隅っこに追いやって。


 自分の中から抹消した、名――。


 それがつい最近。なにがそうさせたのかは分からないが、奥深くに埋めていたそれが掘り出され、俺の目の前に突き付けられた。

 俺が変なものを視るようになって直ぐのこと。今までずっと、忘れていたのに。

 違う、忘れたふりをしてきたのに。


 自分に忘れたと思い込ませてきたのに。

 どうして今になって。

 あんな写真。捨てておけば良かった。

 このことについて深く考えるのはやめよう。もう、終わったことなんだ。


 あいつと俺は、もともと不安定な関係だったんだ。


 俺は、あいつのこと、どうとも思っていなかった、わけだし。

 そうだよ――。

 どうも、なんとも思ってなかった相手のこと今更考えてなんになるんだ。


 もやもやした気持ちに強引にケリをつけて俺は運転に意識を集中させた。


 人通りは愚か、車通りも少ないお陰でバイクは夜道をぐんぐん進む。結構飛ばしているからあと五分もしないうちにコンビニに着くだろう。


 トンネルに差し掛かり半分程進んだ時。


 俺は目を細めてトンネルの出口の方を見た。

 なんだ、あれ。



 トンネルの出口付近になにかあるぞ。


 暗いオレンジの蛍光灯が光るトンネルの向こう、月の光でほんのり照らされた道路。

 そこに何か、何かが……。

 よくわからない物体がそこにあった。


 このまま走ったら轢きかねないので俺は少しずつバイクを徐行させた。


 首を前に突き出しながら、目を凝らして。



「え――!?」


 わかった。

 トンネルを出る一メートル程手前で、俺はそれがなんだか認識し。出口付近でバイクを停めた。


 猫だ――。


 道路に横たわっていたのは猫だった。

 けど、普通の猫じゃない。


 無造作に転がった赤い塊。


 月明かりを浴びて、てらてら光る不気味な。赤い体液……。


 四肢を投げ出した状態の猫の腹部は凹んで柘榴の実のように裂けていた、赤黒い血潮にまみれたピンク色の長い腸が飛び出て、そこら中に散乱している。

 開きっぱなしの口からは臓物のようなものがはみ出て、肛門からも糞とそれにまみれた肉塊が漏れていた。


 顔を顰めたくなる程の惨状とはまさにこのこと。


 ひでぇ……、轢かれたんだ……。


 ビー玉みたいな水晶体は虚空を見つめて動かない。

 赤く染まった小さな躯、ところどころに白が見えるから元は白猫だったんだろうか。


 飛び散った臓物の色が新鮮なことからして、この猫が轢かれたのは多分つい最近のことだろう、数時間前、もしかしたら数十分前かもしれない。


 猫がこうして轢かれた姿を見るのは初めてじゃない。初めてじゃないにしてもやはりショッキングなもので、とても見れたものじゃない。


 一体どこのどいつがこんなことを……。


「ナ゙ーオ゙」


 停めたバイクを再び走らせようとした時だ。

 背後から低くて薄気味悪い鳴き声が聞こえて、驚いて振り向いた。

 突然のことで心臓を鳴らす俺の視界に飛び込んできたのは一匹の猫。


 バイクの後輪の隣にちょこんと座った黒と茶色の汚い斑模様の。心臓も腸も飛び出していない、ちゃんと生きている猫だ。


 なんだよ……おどかすなよ。


 どこからやってきたのか、いつの間に現れたのか。

 斑模様のその猫は闇夜に溶ける躯とは真逆の黄色く光る二つの目で俺を見上げてもう一度鳴いた。


「ナ゙ァ゙ーオ」


 口を大きく開けて、威嚇というよりも、なんとなくだが恨めしげに俺を見上げていた感じがした。


 犯人はお前か。とでも言うように。猫は低い声でしつこく鳴き続け。

 人通りの少ない静まり返った道に、猫の不気味な声が何度も響き渡る。


 後ろには内臓の破裂した無残な白猫の死骸、目の前には狂ったように鳴き続ける斑模様の猫。


 俺は少し怖くなって、白猫の死骸を上手に避けて、今度こそバイクを走らせた。湿気を含んだ生暖かい風を受けながらスピードを上げた。


 離れてから何メートルかして後ろを振り向けば、あの斑模様の猫は、轢かれた猫の前に座って相変わらず俺をじっと見つめていた。


 それにゾッとして、慌てて首を正面に戻す。


 そこから早く遠ざかりたくて、俺はコンビニまで飛ばしまくった。


 暗い道路の先にやっとこさ眩い光を見つけて安堵する。着いた。


 此処が俺の勤め先。


 樹海に囲まれた淋しい県道に一軒だけ佇むコンビニ。


 このコンビニは建っている場所が場所なだけあって人間も人間以外のものも吸い寄せる。


 曰く付きのコンビニ。


 深夜帯は人間以外のものが出入りするのが最も多い時間帯で、俺はそれにビビりながらも此処でバイトを続けている。


 そんなワケありなコンビニでも、二十四時間フル営業のライトの明るさは俺に安心感を与えてくれた。


 中から店長と長瀬さんが軽く手を振ってくれて、それに俺も小さく会釈する。


 いつもの場所にバイクを停車させ、小さく溜め息を吐く。

 今日の相方は竹中さんだったっけ。あ、やっぱりそうだ、この紺色のセダンは竹中さんのだ。


 毎回思うが竹中さんは早い。

 俺だって今日は通常より早めに着いたわけだが、この人はいつも決まって勤務時間三十分前ぐらいに着いて、バックルームでくつろぐでもなく、一服するでもなく、まだ勤務中の人達やお客の邪魔にならないよう工夫しながら、店内の至る場所をくまなく掃除するのを日課としているらしい。


 一体何の為にと俺は思うが、特に理由はないらしく、店長曰くかなりの綺麗好きとのこと。


 陳列棚に埃なんてものが乗っていようものなら目付きを変えてはたきを持ってきて、出入り口付近に少しでも泥がついていようものなら無言でモップをかける程。


 ていうか綺麗好き通り越して、潔癖性なんじゃないか、それ。


 ……となると竹中さんもあの猫の死骸を見たんだろうか。

 あのグロテスク極まりない惨状を。


 腹から飛び出した細長い腸。

 口からはみ出た赤黒い内臓。


「うっぷ……」


 思い出したらなんだか吐き気がしてきた。


 流石の竹中さんも驚いただろうなぁ。でも実際どうなんだろうか、あのポーカーフェイスだ、あまり気にしてなかったかもしれない。


 それよりも意外と平井さんとかが騒ぎそうだ、女の子だしなぁ、見たら叫んじゃったりとかするんかな。可愛い声で、キャアア!なんて言ってたら、ちょっといい。


 青山さんは……、まあいいか……、次の日会うけど。


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