3

 冷水で顔をバシャバシャと激しく洗って。

 トイレの鏡を覗き込む。

 顔色はそこまで悪くないけど、顔はサイテーだな。


「……」


 これで何度目だろう。

 あんなものを視たのは。

 西村の白い腕。それから、店内の隅にいた腹から下がない女。

 店員の女の子の脛を掴んで引き摺られていた男……。思い返すと吐きそうだ。

 最近……、本当に最近の話だ。

 俺は度々変なモノを視るようになった。


 きっかけは、時給目当てで始めたコンビニのアルバイト。

 そこが曰くつきだと警告されても、お構いなしに居座った結果、俺は潜在能力というのか、第六感というのか、『人ではない眼に見えない存在』を視る力を不本意にも得てしまった。


 最初こそ区別がつかず、すれ違って気付けなかったり、視界にちらつくという軽い程度だったが、最近じゃそういうものを視る回数が多くなって、しかも視るものにもレベルがあり、本当に生きている人間と見間違うようなものもいれば、死んだ時の状態をそのまま維持して現れるもの、全身ではなく何故か足や、腕、首だけといったパーツだけで出てくるものもいるから、見慣れていない俺には兎に角心臓に悪い。


 昔誰かが、幽霊見てみたいとか、霊感が欲しいとか言ってたけど。


 正直言っていいもんじゃない、ほんといいもんじゃない。


 二日前から判明したことだが、俺の住んでいるボロアパートの天井裏には何かが住んでいる。

 最初はネズミかなんかがいるのかと思ったが、丁度俺が視えるようになってからそれは存在を現した。それまではなんとも無かったが、俺が変なモノを目撃するようになってから、深夜に天井裏から物音がするようになった。


 ごろごろと何か転がっているような音だ。

 一体何が夜中に転がっているのか想像すると気味が悪くなるので深く詮索はしないことにしている。


 今まで住んでいて何もなかったのだ、あのコンビニにいる者よりかは無害なもの、……だと信じたい。


 それから時々、窓からおっさんがこっちを見ていることがあったり。

 俺の住むアパートは二階建て。

 窓からおっさんが俺の部屋を除くことはまずできない。

 出来るとしたらおっさんが電柱ぐらい背が高いか、壁をよじ登って窓辺にぶら下がってるかしかないが。そんなことは絶対になくて。

 おっさんは俺と数秒目が合うとどこかに消える。

 多分あのおっさんも、そういう類のものだ。


 カップラーメンを食っている時、テレビを眺めている時、朝起きた時、トイレから戻った時。

 何故か視線を感じて窓辺に目をやると、顔の四分の一だけをはみ出させて見知らぬおっさんが俺を見ていて。数秒目が合うと、顔をすーっと隠して消えていく。


 最初こそ飛び上がるくらいびっくりした、そりゃ今もかなりビビるが。

 それでも何もしてこないらしいので、あまり気にしないようにしている。

 鬱陶しい時はカーテン締めれば万事解決だしな。と……こんな具合に。


 俺の日常はあのコンビニのバイトを始めてからえらく一変してしまった。


「――マサ」

「うォッ!?」


 呼ばれて顔を上げれば、鏡に映った俺の直ぐ後ろに木下が立っていた。

 何時の間に来たんだ、音もしなかったぞ。


「いやマサがぼーっとしてただけだから」

「そ、そうかよ」

「ずっとトイレに籠ってるから。ウンコにしても長いし、どうしたかなーと思ってさ」

「べ、別に、顔洗ってただけだって、もう戻る」

「そっか……てか平気か?」

「ああ?」


 つっけんどんに返して木下を見上げれば、奴は俺の顔をじっと見つめて真顔になった。


 いつも四人の中でヘラヘラしている木下が珍しく、表情を真剣なものにしたから、なんだよいきなり、と言おうとすると木下は俺に訊ねてきた。


「本当なのか?」

「……んだよ」

「さっきのことさ」


 さっき、おれ達に言ったこと。

 木下の言葉に俺は口の代わりに目を見開いていく。


「やっぱり、本当なのか」

「なんで、お前……」

「わかったって?」


 木下はやれやれと肩を竦めた。


「おれも、最初は冗談だと思った。けど、マサは嘘を吐く時に必ず頭を無意識に掻いて、その後奥歯を数回噛む」


 それは俺ですら気付かずにやっている俺の癖。

 木下は、腐れ縁の中で一番繊細で、察しの良い奴だ。


「でも今日はそれが無かった、それに様子も相当変だった、何もないところずっと見てたり、たまに凄い顔してたし」

「そんなに凄い顔してたか」

「まあね」

「お前、信じるのか……、信じてくれんのかよ」

「マサが嘘ついてないことはもうわかってるよ、おれは」


 肩を軽く叩かれて、俺はなんだか力が抜けてしまった。

 それは小さな安心感。


 身についた変な力の所為で俺の精神は此処数日でかなり参っていた。不安が心に泥のように溜まって重たくなって、その溜まった不安を俺はどうにかしたくて、一人で抱えていたくなくて、恥じていても腹の奥底ではこの感情を誰でも良いから共有したくて。気がついたら目の前の木下に零していた。


 すらすらと、なんの躊躇いもなく、最初から最後まで。俺が体験した気の遠くなるようなぶっ飛んだ話を全部。俺は木下に話した。


 流石の木下も途中驚いたような顔をしてみせたが、何度も相槌を打って、俺に最後まで話させてくれた。


 この数週間、俺が今までの人生の中で断固として信じてこなかった目に見えない存在達が本当に実在して、俺の常識が全て引っ繰り返され、挙句、俺にもおかしな能力が目覚めてしまったことを。


「大変だったな」


 全ての話が終わったあと、木下は俺を気遣うようにそう言ってくれた。

 疑いの眼差しではない、本当にこいつは俺が体験したことを完全に信じてくれなくても、信じようとしてくれているのだろう。


「そのコンビニ、辞めたんだろ?」


 言われて俺は横に首を振る。


「まじか。辞めないの?」

「おう」

「そんなことがあってよく続けようと思うね」

「……」

「これ以上変なことに巻き込まれる前に、おれは早く辞めた方がいいと思う。おれはそういうの分からないけど、流石にマズイんじゃないか、幽霊まで視えるようになったんだろ」


 だったら、次はもっと恐ろしいことが起こるかもしれない。

 俺の身を案じるように木下は警告する。


「マサが意地っ張りなのは知っているけど、なにもそこまで意地張る必要はないよ。西村と同じとは言わないけど、無理に首を突っ込まない方が絶対に良い、もっと酷い目に遭うかもしれない」


 心配だと言いながら、木下は俺に辞めるよう説得してくれた。最もなことを次々に言ってくれる。

 けど。


「それでも俺……。もう少しだけそこでやってみようと思うんだ」


 俺の返答に木下は信じられないという顔をする。

 俺だって、こんなことを言って馬鹿みたいだと思っている。


「どうして」

「特に理由はない」

「そう……」

「そんな顔しないで笑えよ。昔はあんなに騒いでた俺が今じゃ幽霊が視えるようになっちまったんだぜ」


 滑稽というかなんというか。

 自分が視えてなかっただけなのに、あんなに傲慢に振る舞って。


「お笑いだろ」


 肉眼で確認できるものしか信じられなかった。信じてこなかった。

 自分が信じてならなかった世界に依存して、自分が信じたくないものは片っ端から否定していった。


 軽はずみに口にした心ない一言で、一体何人の人を傷付けただろう。

 俺が嘘吐きだと指差した人の中には、何人の人が嘘じゃない本当のことを述べていたんだろう。


「今度は俺が嘘吐きって呼ばれる番だ」


 西村と田中に話した時、全く信じて貰えなかった。

 俺が今までどんなふうに振る舞ってきたかを考えれば、当然の反応だとは思った。

 けどあいつらとは高校の時から馬鹿やってずっと一緒にいたのだ。

 簡単に冗談だろと言われて、正直少しだけ寂しい気持ちになったのは事実。

 あんな視たくもないものを視て、訴えても簡単にあしらわれるのってこんな気分だったんだな。


「今まで偏見もって視えてる奴らを馬鹿にしてた、罰なのかもな」

「罰って」

「面白いだろ」

「笑えないって」


 期待するような目で笑いかけても木下は心配そうな顔で俺を見てくる。

 そして暫く黙った後にハッとして口を開く。


「まさか…………、日向ひゅうがちゃんか」


 一層顔を険しくしてそう言った木下に、俺は即答した。


「違うよ」

「……違わないよ、マサ、お前……だから」

「木下が思ってるようなことは考えてない」

「まだ引きずってたのか?……確かに色々あったけど……。あれは……。マサが責任感じることじゃ……」

「違うって言ってるだろ」

「マサ、いいんだよそんなこと考えなくって、罰が当たったんじゃない、マサは自分に罰を与えたいだけなんじゃないのか?」

「だから……!」

「日向ちゃんのことがあるから、そのコンビニを辞められないんだろ――」


 そこまで言われて、俺は苛立ちを隠せなくなって、洗面台をぶっ叩いた。

 木下が、まるでエスパーみたいにほいほい俺の本音を言い当てるから。

 自分でも否定したい本音を。


 俺はどこまでいっても素直になれない捻くれ者だ。だから周りは俺を面倒臭い者と見なして寄りつかなくなるんだ。

 余計なプライドが、いつも周りを不幸にする。


「悪い……、木下は心配してくれたのにな」


 俺の所為で張り詰めてしまった空気を和らげようとするも、声が強張ってしまって逆に気まずくなりそうだ。


「おれのケー番。ちゃんと入ってるよな?」

「は?」


 それでも多分、木下は俺の心情を察してくれたんだろう、明るい声で俺の顔を上げさせる。


「マサが決めたらそう簡単には覆せないんだからさ……。なんかあったらいつでも電話しろな。力になるから……無理すんな」


 その言葉に深く俺は頷いた。

 ああ……、本当にこいつ、良い奴だ。


 トイレから戻って、また懐かしい話に花を咲かせたあと。

 俺はもう直ぐ迫って来るバイトの時間に合わせて木下らと別れた。

 それと、西村には別れ際に一応それとなく釘を刺しておいた。


 バイクに跨り、道路を走っていけば、たちまち賑やかな町並みは消え、電灯の少ない寂しい道に出る。


 さて――。


 今日は一体何が起こるのか。

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