5

 考えてみる。……とは言ったものの。

 出したい答えはほぼ決まっていた。


 自宅に帰るなり俺は畳まずにほったらかしにしていた布団に転がって携帯電話を握り締めたまま、天井をずっと見つめていた。

 ボタン一つでバーコード店長に繋がる。

 そうしたら、なんて言おうか。


 辞めさせて下さい。


 その一言で多分通じるとは思う、落胆した店長の溜め息が直ぐに聞こえてくることだろう。

 途方もない話だよ。竹中さんから聞いた話は。

 俺の踏み込むべき領域じゃないと感じた。

 というより、踏み込めない領域だって思えた。

 だって、やっぱり普通は誰も信じられないだろ?

 俺だってまだ夢を見ている気分だ。

 竹中さんの背後に時折姿を見せるあの巨大鎧兜とか。

 防犯カメラに映って嘆き叫んでいた男。

 窓ガラスに張り付く女。

 あんなものを、これから毎日視ろって……。

 そんなの絶対無理だ……。

 それでも携帯電話の通話ボタンを押せないのは、たった一週間で辞めることを恥じているのと、残る夜勤組の人達に申し訳ない気持ちが引っ掛かっているからだった。

 今まで点々と場所を変えてきたがこんな最短記録は他にはなかった。


 いや、そんなことはいいんだ、どうでも。

 今まで去っていった奴らと同じに思われたくないんだろう、俺は。

 そんな意地なんていらねぇだろ、と心の中で冷静に言う自分もいるが、このままさっさとトンずらするのはどうにも……。


 もやもやし過ぎて一行に決断ができない。

 辞めたいって言うのは簡単じゃないか、行きたくないと思っているところにわざわざ行こうとするなんておかしい。


 いやでも、責任感ってものがある。たかがバイトだって言ったってこんなに簡単に投げ出して良いわけない。ガキじゃねぇんだしな。

 竹中さんだって忠告してくれただろ、近付かない方が良いって、またえらいことに巻き込まれるかも。


 青山さんや平井さんとも打ち解けてきたっていうのに、こんな終わり方で本当にいいのか。

 葛藤したってなかなか答えは定まらない。

 あと一押しなのに、何かが俺を踏み留める。


 なんか苛々してきた。

 今日一日色んなことがあり過ぎて、疲れたのと、混乱してるのと、すっきりしないので俺は情報の消化不良を起こし。

 自棄になって隣にあった押し入れの襖を思い切り蹴飛ばした。


「なぁ――!?」


 それがいけなかった。

 勢い余って建て付けの悪かったボロい襖が外れかけ、その拍子に中にぎゅうぎゅうに詰め込んでいたガラクタや段ボールなんかが雪崩となって降ってきた。


 変な悲鳴を上げた俺は埃を被った雑誌やらなんやらに下敷きにされ、埃臭いのと痛いので盛大に咽まくった。最悪だ。もうどうにでもなれよ。くそったれ。


 前に妹と共に押しかけてきた母親にこれは酷過ぎる、時間がある時にきちんと整理しなさいと言われ放置した結果がこれだよ。


「あーあ……あー」


 一面の大惨事とはこのことの為にある言葉か。

 ズズランテープでまとめた雑誌や漫画本は雪崩の所為でぐちゃぐちゃにばらけて、段ボールの中身は豪快にぶちまけられた。

 埃は布団の上、俺の頭上で舞っている。

 妹が見たら多分、「ぷっ、ざまぁー」とか言いそうだ、ムカつく。

 嫌だと思っても掃除せざるを得ない状況。

 くっそー……。今日はなんて日だ。

 やる気が起きなくて、暫く呆然と胡坐をかいたままその惨状を見ていると。

 俺の携帯電話が鳴った。

 この着信パターンは、電話の方だ。

 画面を見てみたら俺がさっきまで電話をかけようか、かけまいかと悩んでいた相手。

『店長』、と表示されていた。

 片方の手で雑誌を掻き集め、片方の手で携帯を引っ掴んで俺は耳に当てた、通話ボタンを押して。

 返事をすれば妙にきょどったような店長の声が聞こえてきた。


『あ、ああ、袴田君?……大丈夫?』

「なにがすか」

『いや、ね。ほらメールの返信なかったから』


 あー。そう言えば返すの忘れてた……。

 つか、それだけで電話してきたのか、この人は。

 血相変えながら俺に電話しているバーコード店長の姿が目に浮かんだ。


『なにか嫌なことでもあったかなぁーってさ』

「……」


 どこかしゃきっとしていない店長だが、この時ばかりは勘が良いと思った。

“例の一週間目”だしね。

 店長も身構えていたんだろう。


「いえ……なにも」


 実は……、そう切り出そうか迷ったが俺は何事もなかったふうに話を進めようとした。

 すると。


『うそ』

「は?」

『その声の沈みようはなにかあるとみた』

「え」


 なんだ……、このバーコード店長、いきなりなに言って……。


『ははは、なんてねー。実は今朝の人から聞いたんだよ、袴田君帰る時顔が真っ青だったって……、それでさ』

「……」


 そういうことか。


『心配になってたんだよ、ねえ、本当になにもなかった?』

「……」

『あったんだね』


 俺は隠すことを断念した、嘘を吐いたって仕方ない。

 だいたいこの人はこんな対応をもう何十回もやってきたかもしれないんだ。

 事情聴取で誤魔化しきることなんてきっとできない。


『そっか、大変だったね……』


 話を聞き終えて店長はそうかそうかと俺を安心させるようにそう言った。

 俺は気になることを一つ店長に聞いた。


「店長も、視たことあるんですか……その」

『うん。夜勤の代理で入った時にたまに、それとごく稀に昼にもね……、あそこほんとに凄いんだ』

「そうですか……」


 店長は慣れた口調で返してきた、そうだもんな、一応この人店長だもんな。

 ビビってたら勤まらない。


『それで、どうする袴田君』

「え」

『別に無理することはないよ、正直な気持ちを聞かせて欲しいんだ』


 店長が何を訊こうとしているのかは直ぐに分かった。


『君が別に気にしないというのならそれでいいんだけど、その様子じゃそうは思ってないんだろう?嫌だと思ったら早い方がいいし……、それに、ずっと前に無理をしてアルバイトを続けた子がとても危ない目に遭ったことがあるんだよ、袴田君にはそんな危険な目に遭ってほしくないし、自分にはやっぱり合わないなと思ったら……』

「でも……」

『袴田君が決めても、僕も夜勤の人達も君を薄情者だとは絶対に言わないよ、大丈夫』


 俺はまた黙り込んだ。

 店長の言う通り、寧ろこのまま辞めた方が無駄に迷惑を掛けずに済むのかも、しれない。

 迷っていた答えがなんとなく決まりそうになった。


 その時、ぶちまけられた物を整理している片腕が段ボールの角にぶつかり。

 そいつが倒れて、またしても中身が布団の上に散った。


 ああー……振り出しに戻った……。

 携帯を肩と頭で挟んで俺は両手でその出されたガラクタと、なんかを掻き集めてもう一度しまおうとした。


 と――。その中からはらっと何かが落ちた。

 何かといえば、埃まみれで少し色あせた……。写真だ。こんな中に一枚だけ紛れ込んで。

 一体なんの写真だと手に取って捲ってみた俺は。


「――」


 それを見て思わず息を飲んだ。

 この、写真は……。


 途端に指先から写真を取った手が微かに震えて。

 全力疾走したみたいに大きく心臓が脈打ち、変な呼吸リズムになる。

 動揺――。

 何故今になってこの写真が、俺の前に。

 見たくなくて、でも捨てられなくて、封印したこの写真が。

 今の今まで存在すら忘れていた、この写真が。

 俺の前に出てきたというのは偶然なのか。それとも……。


 目が離せなくなって、一体どのくらいそうしていたんだろうか。

 頭だけがどこか別の場所に飛んでいってしまった俺を店長の声が引き戻す。


『――おーい、袴田君?』

「えっ、あ」


 いけない、完全に真っ白になっていた。


『どうしたの?』

「いえ……」


 なにも。と応えてみても。いつの間にか声まで掠れてしまっていて、明らかに何もないはずがないと証明していた。

 店長の心配そうな声がまた携帯越しに流される。


「店長」


 段ボールには戻さずに、一枚の写真を丁寧に布団の上に伏せた。

 聞こえないくらい小さな深呼吸をして、口を開く。


『ええっ!?』


 俺の返答に店長はやはり驚いて、音割れするぐらい声を張り上げた。

 五月蝿い。デカい声出すな。


『袴田君、続けるって……今言ったの?』

「はい」

『あのコンビニの夜勤続けるって!?』


 だから、そうだよ。何度も言わせんなハゲ……!とは流石に言えないが、俺は再びそうだと口にした。

 店長が唸り声を上げる。


『何を視たのか分からないけど、袴田君も今回のであの場所が人を選ぶ場所だって分かったはずだよ……それなのに』

「単に他でバイト先を探すのが面倒なだけです、どうせすぐ慣れますよ」

『本当にそれが理由なのかい?』


 黙り込むのは肯定とみなされる。

 急いで次の言葉を考えて口を動かした。


「そうです、それに怪我したわけじゃないですし、別に支障はないと思います、俺このまま続けたいです」

『……とは言っても……』


 今度は店長が黙り込む。


『立場上、僕は袴田君が辞めるのも続けるのも無理強いさせることはできないんだ』


 それでも自分のことを最優先に考えて欲しいと店長は言う。


『もし何か気に病んでいることや、後ろめたいものがあって無理に続けようとしているなら……』


 今日の店長は不気味な程に核心を突いてくる。

 と思っても俺が今頭の中で思い浮かべているものはけして店長に話せるようなものじゃない。

 言ったところでなにもならないし、言いたくもない。


 もう決めた。


 俺は一度決めたら、とことんまで進もうとする、例え誰に反対されようとも、馬鹿で愚かな猪突猛進タイプなんだ。


 愚かで、どうしようもなく馬鹿な。


『そう……君がそこまで言うのなら……。こっちも続けてくれると有難いんだけど、無理はしないようにね、袴田君は、普通の人なんだから』


 店長は予想外の返事を返してきた俺に心配そうに声を掛けて、電話を切った。

 通話終了と表示された携帯電話の画面を見つめて、静かにそれを閉じて。

 俺は小さく呟いた。


「偶然なんかじゃないんだろ」


 見ないようにと、無意識に布団の上に伏せていた写真を捲りもう一度それを見る。

 偶然なんかじゃない……。

 俺の身の回りで起こった不可解なこと……。

 全部、きっと。


 俺自身の――。


 逃げる訳にはいかない。

 俺に逃げる選択肢なんかない。

 だから、続ける。

 あの場所に留まり続ける。

 これから何があっても。

 ガラクタの中から出てきた一枚の写真を、俺は強く胸に押し付けて目を閉じた。

 自然と鼓動が速くなって、胸の中心が少しだけ痛んだ。

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