第6話 変化する日常
1
重い体を引きずってやっとの思いで自宅のオンボロアパートに帰ってきた俺は、かけ布団だけ押し入れから引っ張り出して死んだように眠った。
毎日ちゃんと睡眠だけはとっていたというのに、どういうわけか最近になって全く疲れが抜けきらない体を横たえて、数時間前に起きたあの出来事を整理する暇もなく、眠りの世界へ逃げ込んだ。
それから随分と長い間眠っていた。
携帯が数回程耳元で鳴っても起きずに俺は爆睡していて。
しっかり目が覚めたのは、三時過ぎ頃で、布団から這い出したのは四時前。
散々寝たのだから当たり前とも言えるが、起き上がった時そこまで体が重くなく、むしろさっぱりとした気分だったことに少し驚いた。
「……」
シャワー浴びよ……、それから飯……。
のたのたと体を動かして、俺はそのまま風呂場に直行し。シャワーを浴びた後に戸棚からカップ麺を出して遅すぎる朝食をとった。
ぞるぞると麺を啜って噛み砕くも。なんだか味気ない。
そりゃそうだ。
体のダルさは抜けても、精神面が優れないのだから。
目が覚めたらもしかしたら体験したことの全てを忘れるか、それとも夢だったんじゃないかと思えることを密かに期待していたが。
そんな都合の良いことは起こらず、俺はきっちりあの時のことを覚えていた。
男の呻き声も、リアルな感触も、なにもかも……。
絶えず苦痛を訴える声。ぴちゃぴちゃと次第に大きくなっていった水音。俺の肩を掴んできたぶよぶよの白い手。
どれも思い出すだけで吐き気がする。
まさか自分が……本当にそう思った。
そんなのはただの思い込みの激しい奴らの勘違いだと。
今までこれっぽっちも信じなかったというのに。
青山さんが言っていたことも、平井さんが教えてくれたことも、竹中さんの忠告も、全部どれ一つとして間違ってはいなかった。
真実だったのだ。あそこは、あのコンビニは、本当に曰く付きの場所、人じゃない者が寄りつく場所。
俺は自分がとんでもない場所でアルバイトをしていたことに遅まきながら気がつき、自分の中の揺るがない常識が覆されたことに大ショックを受けていた。
いたんだ。
マジで……霊とか、幽霊とか、いるんだ。
ネットで騒いでいた奴らの大半はでたらめを書いていたのかもしれない。けどあの中で語っていた奴の中には本当の話をしていた奴もいたんだろう。昨日までの俺ならそんなこと微塵も思いもしなかったが。今の俺には全て蔑ろにすることが出来ない話だった。
あんな思いして、全然なんとも思わない奴なんているわけがない。
もう気のせいだなんて思えない。
あそこは明らかにおかしい。
新人が一週間続くか続かないかで次々に辞めていく理由を、ここにきてやっと理解した。
みんな一週間以内にあのような不気味極まりない体験をしたのだ。
俺と同じ体験をしたかは定かではないが、恐らくそういうことなのだろう。
食物を欲しない胃に無理やりカップ麺と汁を押し込んで、俺は寝ている間に幾度もメールを受信していた携帯を開いた。
メールは全部で五件。
みんなバイト先の人達から送られてきたものだった。
―――――――――――――
【from】平井さん
【題名】無題
―――――――――――――
バイトおつかれ!(`・ω・´
)
昨日は何事もなかったかな?
一週間突破おめでう!
祝\(^o^)/祝
袴田くんがこれからも長続き
するようにわたし祈ってます
(゜v ゜*)
そうそう、竹中くんとはちゃ
んと喋れた?(笑)
―――――――――――――
祝って……。
全然おめでたくねぇです平井さん……。
―――――――――――――
【from】店長
【題名】大丈夫?
―――――――――――――
一週間普通にもっちゃったけ
ど、なにも無かった?
―――――――――――――
バーコード店長……。
残りの三通のうちの二通は青山さんと、長瀬さんからだった、内容は全部ほぼ同じ。
俺の安否を確かめるようなメールばかり。
何故そんなメールをみんなが送ってきたのか、俺がそれを疑問に思うことは無かった。
当然だ。俺の前にいた新人達はあのコンビニでの怪奇な出来事に恐れをなしてみんな逃げていったのだから。
破格の時給に釣られ、その本当の理由を知って、何人、何十人辞めていったんだろうか。
もうこれ以上関わりたくないと、関わってはいけないときっと思ったんだろうか。
少なくとも、それを今、俺が思っていた。
なんであんなところに勤めてしまったんだろうと、安易にあのコンビニをバイト先を選んでしまった一週間前の自分を恨んだ。
「どうしよう……、すげぇ辞めたい」
無責任だとは思うが。
そう呟かずにはいられなかった。
とんでもなく恐ろしい体験をさせられた後。終いにはあんなもの視てしまったんだから。
コンビニの外から、ガラスにべったりくっついて、店内を凝視する女。
髪は黒く長くてボサボサ。目は血走って見開かれ、服は汚く、裸足で、顔は人間とは思えない程白かった。
無論あいつは人間じゃない。人の姿をしてはいたが、他の人間には全く視えていないみたいだった。
俺は幻を見たわけじゃない、はっきりとこの目にあれは映った。
平井さんが言っていた店の中を覗く女は絶対あれのことだ。
硬くなっていく眉間を押さえながら俺は深い溜め息を吐く。
自分の中の何かがぼっきりと派手に折れたような、そんな心境。
そして、いまだどうにも理解し難い得体の知れないものへの恐怖に体の震えが止まらなかった。
残った一件のメールは、登録されていないアドレスから送られてきたもので。
俺はそれを開いて。あっ、と声を出した。
―――――――――――――
【from】****.@comodo.ne.jp
【題名】竹中です。
―――――――――――――
青山さんに聞いて送らせても
らいました。
お疲れ様です。
体の方は大丈夫ですか。
もし何かあったら知らせて下
さい。
それから、深夜の事。
袴田さんさえ良ければ、俺が
知っている事の全てを話そう
と思います。
―――――――――――――
そして竹中さんから送られてきたメールの最後には、今日の夕方、地元の駅前のコーヒー店で会いませんかという誘いが添えてあった。
俺が迷惑をかけたにも関わらず、竹中さんは俺の身を案じてくれているようだった。
俺、あんなに態度悪かったのに。真っ先にメールを送ってきてくれた。
知っていることの全てというのは、絶対あのコンビニのことだ。
俺は返信を打つ指を止める。
本当は今直ぐに店長に事情を説明して近々辞めさせて欲しいというメールを送ろうと思っていたのだ。
あのコンビニのことについては、これ以上触れてはいけない、引き返すなら今という瀬戸際に立っている気がするのだ。
知り合った人達には申し訳ないが俺はそんな訳の分からないことが何度も続いても平気でいられる程特別じゃない。
だから。
このまま深く詮索せずに離れよう、そう思ったのだが。
訳が分からないまま本当に終わらせてしまってもいいものかとも思うのだ。
あの時何が起こったのか俺は全く知らないが。
竹中さんは全てを話してくれると言っている。
だったら竹中さんの話を聞いてから、もう一度考えよう。辞めるか辞めないか決めるのはそれからにしよう。それに気持ちを整理し直して、自分にあの夜の事を納得させたかったのもある。
警告を無視した上に強情張って入ってきたのだ、さっさと居なくなるなんて、いくら何でも格好悪すぎだし。
俺は竹中さんへの返事を送信し、それから髪を適当に整え、私服に着替えて、自宅からそこまで遠くない駅前のコーヒー店に向かった。
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