7


「ひぁぁあっ!!」


 今まで出したこともない声が勝手に口から出てきた。

 パニックを起こし過ぎて動悸が激しくなり、俺は本当に泣く寸前だった。

 こんなこと現実じゃありえない。夢に決まってる。

 夢だって思っているのに、冷たくてヌルヌルした水浸しの指は俺の肩を掴んでくる。

 変色して腐った臭いを放つ爪が食い込む。


「ぁ、あああ゙、あ、あ゙」


 耳元で男の呻き声が聞こえる。

 日本語になっていない声。

 それでも苦痛や悲しみのような暗い感情を訴えているのが分かる。

 俺に、訴えかけている。

 俺に、その感情を共有させようとしている。


 やばい。

 やばい。

 やばい。


 やばい。


 やばい。


 息苦しい、意識が朦朧としてきた。

 怖い。


 もう、限界だ。


 これ以上、堪えられない――。


「……その人は。だめです」


 ふいに真横から響いたのは呻き声じゃない。

 さっきより幾分聞き取りやすい、凛とした声だった。


「……早く帰って下さい」


 竹中さん、だ。


「何度も言っていますでしょう。此処はあなたのような人が来る場所じゃないと」


 竹中さんの諭すような言葉に俺の右肩を痛いくらいに掴んでいた手の力が弱まる。


「あ゙、ああぁ、ゔ……」


 それでもまだ俺の耳元には苦しげな呻き声が纏わりついていた。俺の視界にギリギリ入らず、姿の見えない竹中さんは一歩こちらに歩み寄ってきたみたいで、靴の音が鼓膜を叩いた。


「…………それでも、帰らないと言うのなら」


 竹中さんがその先を言う前に、バックルーム全体、重苦しい雰囲気に包まれた。

 突き刺さりそうなぐらいの重圧感、竹中さんのいる真横から何かとてつもなく強烈なオーラとでも言えばいいのか、形容し難い強い力が流れ込んできて、バックルームをそのオーラがわっと包み込む。


 俺は眼球を必死に動かして、竹中さんが一体何をしようとしているのかを知ろうとした。

 歯を食いしばって思い切り首を伸ばそうとしてもやはりびくともしなかったが。突きつけられたナイフのように鋭いオーラを全身に感じた時。ねっとりと絡みつく気持ち悪さと、背筋をなぞるような悪寒が少しずつ引いていき、直ぐ真横に立っていた何かの気配が、霧みたいに薄れて。

 しばらくして消えた。

 首と体をまともに動かせるようになったのもほぼ同じ時だった。


 久しぶりに酸素を吸った気がした。

 だけど俺は全身汗塗れで、何が起こったのか分からないのと、今までに経験したことのないタイプの恐怖を体験したことによって、小動物みたいに体を震わせまくって丸椅子から崩れ落ちた。


 完全に腰が抜けてる、足に力が入らない。

 二十を過ぎた男がこんなになって、なんて情けないんだろうかと自分を客観的に見る余裕なんてない。

 どこもかしこも痙攣して動けなくなっている俺に、竹中さんは膝を折って俺に手を差し伸べてきた、立たせてくれようとしているのだろう。俺は出されてきた手に有り難く思いながら縋ろうと腕を伸ばして竹中さんを見上げ。


「――!」


 心臓をまた大きく飛び跳ねさせてしまった。

 竹中さん、いや。竹中さんの背後を見た所為で。


 屈んで俺に手を差し伸べる竹中さんの背後には、全く知らない、この場所に存在するはずがない、場違いとも思えるような者が存在していた。


 腕組みをして、どっしりと静かに構えこちらを見据えるように。

 鎧兜が竹中さんの真後ろに佇んでいた。


 それこそ、中学の時に見た歴史の教科書に載っていたのと同じ。武者とか、武士とか、そういう言葉も同時に思い出す。


 目の前にいる竹中さんとは違ってそいつは全体が少しだけ透けていたが、それでも存在感は凄かった、ビリビリと痺れるような威圧感、けれど決して攻撃的ではない。感じた鋭いオーラは、竹中さんのものではなく、竹中さんの後ろに立っている巨大な鎧兜から放たれたものだった。


 なんだ……こいつは。

 なんであんなのが竹中さんの背後にいるんだ。


 まだ夢を見ているんだと思っていた、だってこんな現実味のないことが立て続けに起きて、一体誰がこれを夢じゃないと思える。

 この奇妙な夢から俺はいつ目覚めることができるのか、荒い息を絶えず吐き出しながら茫然と竹中さんと竹中さんの背後にいる者を見ていると。

 俺の右肩に気持ち悪い程の冷たさがじわりと広がった。

 変なぬめりと、じめっとした布が肌に張り付く感触。


 ゆっくり首を傾けて、その違和感を突きとめるべく右肩に目をやり。

 言葉を失った。


 体中の血が一気に冷めて引いていくようだ。

 夢じゃない……。

 俺のユニフォーム、右肩の辺りには、濡れた手でがっちりと掴まれたような薄気味悪い手形があった。


 濡れた手形はくっきりと残っていて、俺に先程の出来事が夢じゃなく現実だったのだと思い知らせる。


 ぬるついて生臭い手に掴まれた、あれは現実。

 鼻から、口から取り込む酸素が脳に届いて、ヒリヒリと火傷のような頭痛を起こさせる。


 現実だ。これは。


 夢じゃない。全部――。


 右肩から小刻みに震えて、その震えが全身を包み込んだ時。俺は堪え切れずその場で激しく嘔吐した。

 情けない声を捻り出しながら、気持ち悪すぎて生理的に涙が出て視界が滲む。


 心臓が痛い、頭が痛い。


 現実なのに、信じられなくて、信じられないけどでもこれは現実で。


 受け入れられないけど、受け入れざるを得ないこの状況に俺は混乱して、もう訳が分からなくなるほど吐きまくった。


 きっとそれだけじゃないんだろう。今まで溜めに溜めまくっていた疲労がたった今限界に達したというのも含まれている気がした。


 まさかこれ程になるなんて……、爆発するまで気がつかなかった。


 いつまで経っても体中の震えが止まらない。今は夏だっていうのに異常なまでの寒気がどうしたって抜けない。

 あのまま竹中さんが現れなかったら、俺はどうなっていたんだ。


 死んでいた……?いや死ななくても、かなり良くないことが起こったはずだ。

 拭い去れない恐怖がそう暗示をかけさせる。


 げえげえと派手に胃液をぶちまける俺を、竹中さんは軽蔑することもなく、そのままの俺に手を貸してくれた時の表情のまま、俺が吐き終わるまでずっと何も言わずに背中を擦って介抱してくれて。それだけじゃなく、吐き終わって胃の中がからっぽになってふらふらな俺の代わりに、黙って掃除用具を持ってきて、床に飛び散った胃液を全部綺麗に処理してくれた。


 その様子をバックルームの隅っこの角でぼんやりしながら見ていたら、申し訳ないと思うと同時に、俺は竹中さんにとんでもない誤解をしていたのだと気がついた。


 この人は、人の驚く姿や慌てたり怖がったりする様を見て喜んだりする人じゃないって。

 雑巾とモップを使って一生懸命に床を掃除するその姿勢を真正面から見てそう思えた。


 ◆◆◆


 いつの間にか、竹中さんの背後に立っていた厳つい鎧兜は消えていた。

 そして俺は、少し前から度々感じていた疲労と、体験した恐怖にすっかり心身ともに参ってしまい、そのまま失神してしまった。


 次に目が醒めた時には、もう夜勤が終了する少し前で、竹中さんはストック用のユニフォームを布団代わりに羽織らせて、そのまま寝かせてくれたらしい。


 目が醒めても俺はあの時体験したことをもう夢だとは思えなかった。


 何故なら俺は、既に一般人が超えてはいけないラインを超えてしまったのだから。


 引き返すべき場所で引き返さずに、完全に身体の半分を浸からせてしまった。


 沢山の人の警告を無視し、進み続けてしまった俺に背負わされたペナルティは生易しいものじゃなく。少なくともこの夏中は俺をこれでもかという程苦しめることになる。


 夜勤を終えて、コンビニを出る時。

 俺も確かに視たんだ。


 ボロボロの服を纏った髪の長い女が、店の外側のガラスにへ張り付いて店内を覗いているのを。


 その日を境に、俺は有り得ないものが視えるようになってしまった。




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