6

 そりゃ誰だって驚くだろう。

 しんとした空間でいきなり、誰もいないのに、誰も触っていないのに、物が落ちれば。

 今夜はつくづく変なことが起こる。それとも俺がただ疲れているだけなのか。


 落ちたのは、真ん中の陳列棚のカップ麺だった。あの人影がいた場所とほぼ同じ位置。

 そう思うと物凄く嫌な予感がしたが、知らん顔するわけにもいかず俺はカップ麺を拾いに、カウンターから出た。

 陳列棚を調べてみたがこれといって変わった様子はなく、何故落ちてきたのか原因は全く分からなかった。

 ……気味が悪いな。

 恐る恐る落ちたカップ麺を拾い上げ、棚に戻そうとした。


「な……」


 ヌルッとした感触。

 驚いてカップ麺から手を離す。


 左手が。

 泥水みたいなもので汚れていた。

 なんでこんな……。

 どうなってんだ。カップ麺にどうして泥水なんか――。


「……あ゙……ぁ゙……あ゙……あ゙……」


 なんの前触れもなく耳元に響いた声に、俺の思考は停止した。

 声、と言うより。

 それは呻き声に近い。


 呻き声。


 苦痛を訴えかけるような、低く、か細い声。

 空耳とかそんなものじゃない、耳元で語り掛けるようなぼそぼそとした、けれどはっきりと人の声だと思えるような。

 でも普通の人間のものじゃ、ない。


 直感的にそう思った。


『あそこはガチでヤバい』

『やめとけ』

『マジでやばい』

『色んなものが出入りしてる』


『取り憑かれるか、視えるようになる』


 昼間見たネットの書き込み達が一瞬にしてフラッシュバックして。

 ガタガタと勝手に震え始めた俺の肩に、今度はべちょっと冷たい。


“なにか”が置かれた。


「――っ」


 目が醒めた。

 ハッとして辺りを見回すと、そこは店内ではなく、見慣れてしまった狭いバックルームだった。


 俺は丸椅子に座っていた。灰皿に置いたタバコが燃え尽きて灰になっている。

 それで今まで夢を見ていたことを知った。

 思わず安堵の溜め息が漏れる。

 額にはじっとりと汗が滲んでいた。

 どうやら俺はバックルームでタバコを吸った後、壁に凭れてつい眠ってしまったらしい。


 それで悪夢を見たのだ。


 額の汗を拭っても、あの気持ち悪い夢の記憶までは簡単に拭えなかった。鮮明に思い出せる。

 我ながら不気味な夢を見たもんだ。

 此処最近変なことが続けざまに起こるし、寝ても疲れはとれないしで少し精神的にきていたのかもしれない、だからなのだろう。

 やれやれ……、あんなホラー映画みたいな演出の夢を俺が見るなんて。

 変な夢の所為かなんだか両肩がどっしりと重い感じがして。俺は欠伸と一緒に大きく縦に伸びをした。

 勿論それだけですっきりすることはなかったが、だいぶ寝てしまった感があるし、そろそろいい加減竹中さんだって起きただろうから休憩の交代をしなければならない。


 この時の俺は、確かに嫌な思いこそしたものの、さして気にはしていなかった。あれが本当に夢だったのかどうか、防犯カメラに映っていたのがなんだったのか。

 このままで今日も終わると思っていたからだ。

 今日も訳が分からないまま、それでも無事に朝まで過ごせると思っていたからだ。


 けど、それは違った。

 今日は新人の俺が此処に勤めて一週間を迎える日。


 あれで終わるはずなんてなかったのだ。


 気だるさを訴える体を持ち上げようと俺は足腰に力を入れた。

 すると突然、痛いくらいの耳鳴りが俺を襲う。

 続いて殴られているんじゃないかと思うぐらいの激しい頭痛。

 ツー――。と切れない音が絶え間なく響いて、俺は次々に押し寄せる自分自身の変化に混乱する。


「な、んだ……っ、よ」


 やばい、眩暈までしてきた、心臓が何故か速く鳴って五月蝿い、耳鳴りが止まない、その二つの音がまるで俺には警告音のように聴こえた。

 隣にあるテレビの映像が大きくブレて、カラーだったのが一瞬にして白黒画面になった。


 え……。


 その明らかに普通じゃない現象に驚いて、俺はテレビを直視してしまった。

 見た瞬間。それから目が離せなくなった。

 だってテレビの画面には、あの真っ黒い人影が映っていたのだから。

 モニターに映し出された黒い人影はやはり真ん中の陳列棚に立っていて。

 向きは陳列棚ではなく、カメラを、こちらの方を向いていた。


 こちらを、俺の方を向いていた。

 また画面が激しくブレると、カメラが勝手にズームアップをして、人影がどんどん大きく映されていく。

 人影がズームアップされる度、はっきりとその姿が見えてくる。


 カメラの方を向いているのは、男の人だった、年は五十代ぐらい、濃い髭を口の周りに生やして、青白い顔で……、死人みたいに覇気のない表情。


 でも二つのぎょろりとした眼は俺の方を見つめていて、口は、絶えず何かを呟いているように動いている。


 怖い――。


 初めて純粋にそう思った。

 これは、生きている人間じゃない。

 普通じゃない、こんなのはおかしい。

 これは、夢か。

 これも夢なのか、まだ俺は眠っているのか。

 俺は兎に角醒めなければと、体のどこかに刺激を与えようと、手を動かそうとしたら。


 動かない……。……それだけじゃない、テレビのモニターから目が離せない。首が数ミリも動かない。

 体が、全く動かせない。


 おい、どうなってんだ。

 こちらを見つめる白い顔の男とブラウン管越しにがっちり目が合ってしまって、俺は目が離せなくなってしまった。

 目を逸らしたいのに逸らせない。

 喉がからからする。声も出せない。


 男の姿を映したテレビがまた全体的に歪み、砂嵐を起こし始めた。


 故障したみたいにノイズ音が鳴り響く。

 今度は何が……、そう思った時――。


 画面いっぱいに嘆き叫ぶ男の顔が出てきた。


『うぁ゙ああぁぁああぁぁああああああああああああ』


 男の泣き叫ぶような不気味な声が俺の鼓膜を叩く。


「ひッ――」


 体は動かなかったが、心臓が大きく飛び跳ねて、俺はいまだかつてない恐怖に瞳に涙の膜が張るのを感じた。

 俺の中で今まで保ってきた図太い精神が大きく崩れ、一気に破裂したのもその時。

 テレビは数秒男の顔を映し出すと再び砂嵐に戻った。


「あっ、ああ――」


 もう勘弁してくれ。

 やめてくれ。

 見たくない。聞きたくもない。

 もう嫌だ。

 誰か、助けてくれ。と言葉にしようとしても、口からはかすかすと息が出てくるだけで言葉になりやしなかった。


 それでも恐怖はまだ、終わらない。


 パニックを起こした俺を追い詰めるように。ツー。と鳴っていた耳鳴りは、キリキリキリ……。というまるでピアノ線を限界にまで張りつめたような不可思議な音に変わっていた。

 気持ち悪い。

 その音が脳を締め上げる錯覚に陥るくらい、しつこく響く。

 気持ち悪い。

 そして水音と一緒に、俺の右肩に小さな衝撃。

 何かが乗っかった。


 そこで気を失えばどれだけ幸せだったか。気を失うぐらい俺は言葉も出せずに驚いたが、意識はしっかり続いていた。

 肩に広がる冷たさに、絶対に見たくないと思ったが。

 這い上ってくる何かは次の瞬間俺の視界の内に入ってきてしまった。


 有り得ない色に変色した、爪。

 ふやけたようにぶくぶくに太く柔らかいこれは、指。

 俺の右肩には最早人のものとは思えない変わり果てた青白い濡れた手が乗っていた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る