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 平井さんは俺の目の前に自分の手を差し出してあっさり言ってきたのだ。


「な……」


 自分の手に俺の手を重ねてみろと促され、俺は唖然としてしまった。

 視てみる?って……。そんなことして視えるとか思ってんのか。視せられるとか思ってんのか。そんな簡単に。


 平井さんを怪しむ俺の心は表情に出す前にもう彼女に読まれていた。


 分かっているだろ。絶対に俺がそんなこと有り得ないと思ったこと。


 だけど、怪しむと同時にふと思ったんだ。


 疑いまくっている俺にこんなにも堂々とした顔つきで手を差し伸べてくるのは、少しおかしくないか。


 嘘をついてデタラメを並べている奴だったら、曖昧に誤魔化すはずだ、俺が証拠を提供すればちゃかすはずだ。

 でも、平井さんは。

 そんな事をせずに、俺に証拠があるという余裕を見せつけている。

 しっかりとしてブレを感じさせない言葉と自信満々な瞳。


 平井さんが差し出す手と俺との間に、まるで人が絶対に触れることの出来ないような境界線があるような……気がした。


 ごくっと無意識に喉が鳴る。

 平井さんの手を取るか、否か。

 もしも平井さんの手を取ったら、俺は……どうなるんだろう。


 平井さんの言っていたあり得ないものを見ることができるようになるのか、自分がこれまで否定し続けて、断固信じようとしなかったものを。


 疑う気持ちと、興味半分。


 通常の俺だったら、からかわないでくれと適当にあしらっていたことだろう。


 でも今は違った。夜勤のペースにもすっかり慣れて、最早会話ぐらいしかする事がないバイトに俺は完全に退屈しきっていた。


 だから、少なからず心の奥底で刺激を求めていたのだ。

 会って間もない童顔巨乳の彼女の言葉をそっくりそのまま信じるのはなんだか癪だが、この際ならば自分の常識を覆したって別にいいんじゃないかと思った。


 見れるもんなら、見てみても損にはならないんじゃないかってさ。


 そう思って俺は平井さんの白い手に自分の手を重ねようとした。


 が――。


 どうしたことか、重ねようと出した俺の手は平井さんの手と触れることなく空を泳いでしまった。

 平井さんが咄嗟に手を引っ込めたからだった。


 えっ。と、唖然としていたら、クスクス笑われた。


「なんてねー」


 その瞬間はっ、とする。


 ああ……からかわれたんだな、俺。


「平井さんー、酷くないっすかー?」


 にしても凄い演技力だ。危うく全部信じかけた。


「だって袴田君、興味津々なんだもん」


 くそう。だからってハメるか!


 どこからどこまでが冗談だったのか。平井さんは言ってくれなかったが。俺は多分最初からなんだろうと思うことにした。


「大丈夫だよ。袴田君もそのうち嫌って程視えるようになるからさぁ」


 俺が悔しがっていると平井さんは凝りもせずにまた俺に不吉な冗談を投げかけてきた。


「またそんな」

「信じるか信じないかは袴田君次第だよ、まぁ深夜なんて暇かなにかどーんと起こるかのどっちかだから、自分のペースでやっていけば普通に続けていけるよ」


 最終的にはそんな言葉で括られてしまった。


 掴めないキャラだ……。



「木曜日はいよいよご対面だね、『ニコニコマートの守護神』によろしく言っといて」


 その“守護神”というのは竹中さんのことらしい。

 なんの理由があってそんな異名をつけられているのは知らないが、平井さんの言うとおり木曜日は初めて竹中さんと顔を合わせる日。


 あの噂の竹中さんと。


 今まで色々と話を聞いてはいたけど、どうも夜勤組の中では一番胡散臭さを感じる。

 さて一体これからどうなることやら……。


 いいや、面倒くさそうだと思ったら適当にあしらえば、今までだって自慢気に話を振ってきたりしたやつはそうやってかわしてきたし。ま、なるようになるだろう。


 店内のトイレで用を足して、軽く手を洗ってついでに顔も洗って、俺は洗面台の少し曇った鏡を見つめた。


「なっ……」


 顔を上げた瞬間、驚愕して口が勝手に開く。


 明け方の四時頃のことだった。

 俺が店内のトイレの鏡を見てそれに初めて気付いたのは。


「なんだよ、これ」


 俺の首筋から鎖骨の辺りに掛けて、ミミズ腫れよりももっと酷い、赤紫色をした引っかき痕のようなものが浮かび上がっていた。

 今まで何も感じなかったが、自分で見ても痛そうに見えた。

 なんでこんなのが。


 心当たり。……ないわけじゃないけど。いやいや……、でも。そんなことって、普通ありえないだろ。


 平井さんが言ったのと同じ位置に引っかき痕はある。


 彼女の言っていたことは冗談ではなかったらしい。


 でも、どこから、どこまでが本当だったんだ……。


 変だと感じる気持ちが徐々に恐怖に傾きつつあるのを心の隅で感じながら、俺は六日目のアルバイトを終えた。





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