3


「……え……?」


 半笑いのまま言葉を失う。

 平井さんの言ったことが不可解すぎて。


 なんのことを言っているのか訊こうとしたら。


 カウンター内に戻ってきた平井さんがいつの間にか俺の直ぐ近くにいた。


 直ぐ近くというと、どのくらいになるんだと思うかもしれないけど。


 本当に直ぐ近くだった。


「うえあ!?」


 何を血迷ったのか俺の腰辺りにぴったりくっついちゃって。

 平井さん、じっと俺の方を覗いている。

 ていうか腕に、む、むむむ、む、む、……む! 胸当たってるんですけど平井さん!?

 なに、なんですか。

 なんなんですか!?


「あのッ」


 大きな瞳を見開いて、じーっと。

 平井さんは動かない。

 俺、彫刻みたいになって動けない。


 だけど胸が、む、胸が!

 ぽふっと当たってるんだよ俺の右腕に……!平井さんんんん!!

 え、ほんとなにこれ。

 なにこれ、どうすればいいの?

 誘ってんの?

 だめだよいくらなんでも防犯カメラあるよ天井に!?


 てか柔らかいとか思っちゃってる俺死にたい!!


「ずっと気になってたんだけどさぁ」

「は、は……い?」


 漸く口を開いてくれた平井さんは、そのまま離れずに俺を上目遣いに見上げて訊ねてきた。


「袴田君、その首の爪痕。どうしたの」


 首、爪痕。

 言われてまた首筋がぞわっとする。

 あの時のことを思い出す。


 感じた強い視線に、意味不明な呼吸困難を起こしたこと。

 金縛りのように体が動かなくなって、声も出せないくらい苦しかったこと。


 平井さんは俺の首筋を舐めるように見ながら言うのだ。俺の首筋から鎖骨にかけて、爪を立てながら掴んで下ろしたような何本かの赤い痕があるのだと。

 そして。


「うわー……なんか、えっろ……!」


 聞き間違いでなければそんなことをぽろっと口走った。


 流石の俺もその言葉と、何故か恍惚とした平井さんの表情に鳥肌が立ち。慌てて無防備にくっついていた彼女を引き剥がして距離を取る。



「ちょ……。平井さん、いきなり何を……。どうしたの?」


 うろたえていると、彼女はふわふわした長い髪を指で絡めながら店の外の方と俺とを交互に見比べながら呟く。


「おかしいと思ったんだよねー、店の前うろうろしてるし、すごい顔しながらさっきっからそこにへ張り付いてるし……。この間竹中君に追い払って貰ったばっかりなのに」

「平井さん……?」

「袴田君、あの人に目つけられちゃったかもね」

「あの人……って」

「うん、そこの雑誌コーナーのガラス張りの角のとこ、ボロボロの服着た女の人……。たまにね、気に入った人が現れると悪さをしようとするの、自分の“モノ”にしたくて……」


 怖がらせようという感じじゃなく。平井さんはあるがままのことを淡々と話しているようだった。


 雑誌コーナーのガラス張りのところをただ見つめながら。


「あ、っと……。こんなことさらっと言っちゃって気持ち悪いよねー、ごめんね、やめよっか」

「……。あのさ、見えるの……?平井さん……」


 俺が少し訝しげな顔をして訊くと、平井さんはにっこり頷く。


「うん。わたしにはそこのガラス張りのところで袴田君のことずっと見てる血走った目をした女の人が視えるかな」


 でも発した言葉はけして笑顔にふさわしいというものではなかった。


「そう、なんだ……」

「んふ。その顔は信じてないね、袴田君」


 軽く受け流そうとしたら、一発で思考を見透かされて、内心焦る俺。

 こっちが否定する前に口を開く平井さん。


「いいんだよ、信じて欲しくて言ったわけじゃないから」


 ただ視えたものを言葉に表しただけ。


「袴田君は、そういうの信じない人なんでしょう?だったらそれでいいんだと思うよ。変に怖がり過ぎるより良いと思うから」

「どうして……。そう思う?」

「そう思ったから。多分あたりでしょう?」

「う」

「あたり?」


 沈黙は肯定――。


「いや、平井さん、俺確かにそういうのは信じられない方なんだけど、平井さんが嘘ついてるとかって思ってるわけじゃなくて、ね……その」


 なんだか気まずい空気になってしまう気がして、それを恐れてなんとなく口走ってしまったが。

 言ったあと馬鹿だなー。と思った。矛盾しすぎてフォローのつもりが逆に何が言いたいのかわからないみたいになってしまった。


 俺、ちょっと黙り込む。


「別に袴田君がどう思おうとわたし何も気にしないよ?いいのいいの、信じる人がいれば必ず信じない人もいるんだから」


 そんなもんでしょ、と平井さん。

 平井さんは、俺がどんな反応をしようが飄々としていて、なにも気にしていないといった様子だった。


「ただ……、一応注意だけしとこうと思って。此処は袴田君が思っている以上に、おかしいとこだから」


 普通の人間じゃ続けていられない。

 俺のように、時給に釣られて此処を訪れた人間は今までにごまんといた。みんな一週間やそこらで辞めるはずがないと口にしていたらしいが、ほぼ全員一週間以内かそれ以降に逃げるように辞めて言ったという。


「気味悪いこと言っておいてあれだけど、わたし袴田君に直ぐに辞めて欲しくないからさ、頑張って欲しいんだ」


 平井さんの言葉に嘘は潜んでいない。直感的にそう思った。

 この人は嘘をついていない。


 この人は……本当に。


「本当に……さ、視えてるの?そういうの……」


 半信半疑。

 そんな気持ちを抱えたままこんなことを訊くのは失礼だと思った。けど、訊かずにはいられなかった。


 興味本位ってのもあったんだと思う。


 平井さんがなんて言葉を返してくるかっていう。


「じゃあ、視てみる?」



 返ってきたのは予想より遙かにズレた応えだった。


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