単の虫

単の虫【前編】

 ――少しだけ、皆に試してみて欲しいことがある。


 そんなに難しいことじゃない。時間も取らせたりしない。

 ただ、耳を澄ますだけ。目を閉じて、周りの“音”を感じてほしい。

 難しかったり、嫌だというのなら、想像してみるだけでもいい。


 私たちは、常に何かしらの“音”に囲まれて生活している。


 例えば――こうして語っている私の耳には、さっきからずっと扇風機の羽根の回る音が聞こえている。だって真夏だもの、流石に扇風機ぐらいないとやってられない。あとは……窓の外からは、十分に一度ぐらいは大型のトラックが通る音が聞こえてくる。


 先輩がズルズルとカップ麺をすする音だって、眠そうにあくびをする声だって。たまに書類を捲る音が妙に響いて聞こえる時だってある。足音はいつもペタペタと気の抜けた音だ。


 もしも今日が雨の日だったら、四六時中雨粒の音が聞こえたかもしれない。海沿いに住んでいる人だったら、波の音が部屋にまで届くのかも。空高くを飛んでいる飛行機の音だって聞こえるのだから、もう“音”というのはどこにだって溢れている。


 普段は気にしていないだけで、無数の音に囲まれているのだ。それぞれの人が、それぞれ興味のある音にだけ耳を傾けている。いつだって。いつまでも。けれど――


 その夏の一日は、たくさんの人が、たった一つの音に耳を傾けていた。

 それしか、耳を傾けるべき“音”がなかったから。

 全くの無音の中で、何度も浮かんでは消える音に。


 ほんの一分間。秒針が一周するまでの、短い間だけ。


 きっと長い長い歴史上、最初で最後の出来事。

 不思議なことが起きたと、人から人へ語り継がれる。

 これはそんな――特別な一日の、裏側にあったお話。






「――しずかさや、岩にしみ入る蝉の声~」


 今は八月の頭。少し早めに梅雨も明け、真夏日猛暑日真っ盛り。

 ふと頭に浮かんだ句を、口ずさんでみる。


「どうしたんね、急に芭蕉の句なんて詠んで」


 どうしたもこうしたも……。

 今が夏だから、という以外に理由なんてない。


「似合わんねぇ」

「べ、別にいいじゃないですか……!」


 夏の風物詩といえば沢山あるが、中でも代表的なのは蝉だ。


 シャワシャワと耳の表面のあたりをかき回すかのような音が。

 ジィ――――っと、鼓膜に直接突き刺さるかのような音が。

 さっきからずっと、私をさいなみ続けているのである。


 もう岩に染み入るものならば、どうぞ染み入ってもらいたい。

 そんな気持ちで句を口ずさんだのだった。


 初めて見たときは、染み入る声ってなんだと思っていたけど、今まさに頭に染み込んできそうなのである。さっきから、ずーっと、ずーーっと蝉の音が止まない。


 蝉は蝉で必死に生きているのだし、五月蠅いからと怒鳴ろうが止めてくれるはずもない。お構いなしで鳴き続けるだろう。もうお手上げなのだ。


「学校で習った記憶はあるんですけど、結局どういう意味なんですかね」

「そんなん、好きに解釈すりゃええじゃろ」


『誰かが本人に聞いてみたわけじゃあるまいし』と、さも興味のなさそうな様子。


 岩に染み入るぐらい蝉の声が煩かった、というのならわかるのだけれど……。それだとしずかかさやという部分が謎である。蝉の鳴き声があることで、かえって際立っているのだと言われても、その感性が私にはよく分からなかった。


「ただ、そういう昔からの“言葉”に関心を持つのは良いことよ。妖怪とこの世を繋ぐのは、形と、言葉の繋がり。言葉遊びだって馬鹿にできん。日本という国が粛々と紡いでいる歴史と文化。外国じゃあどうかは知らんけれど、ウチではこれが“しきたり”よ」


 ウチにはウチの、ヨソにはヨソのルールがある!

 そんなことを言う先輩だけれども、私には抗議したいことがあった。


「……この暑さを、扇風機と麦茶だけでしのいでるのもしきたりです?」


「んー……。まぁ、壊れたもんは仕方ない。もう業者が確認に来たんじゃけぇ、数日後には元通りよ。ちょっとの間ぐらい、これで過ごしてもええじゃろ」


 そんなことを言ったって、先輩は上下ジャージだし。

 そこまで辛くないのでしょうけど?


 私も一応は公務員としての自覚がありますし。

 そこまではっちゃけた服装をするわけにもいかないんです。


「……もう無理ぃぃぃ」


 扇風機があろうとも、室内全体の空気が暖かければ、送られてくるのは暖かい風。朝のうちはまだ耐えられたけれど、昼に近づくにつれ室内に日光が差し込んでくる。むしろこの状態でカップ麺を啜れる先輩が凄いのだけれど、私はそこまでついていける気がしない。


 申し訳ないけれど、外で少し涼んでこよう、と外に出たのだけれど――


「暑っつぅいいいぃぃ!」

「風は吹くじゃろうけど、日射しが強いけぇねぇ。ジメッとした不快感からは解放されるじゃろうけど、五十歩百歩ってところじゃろ」


 蝉の鳴き声もはっきりと聞こえてるし……。

 暑さと煩さで、このままじゃ気でも狂いそうだった。


 駅周辺ではないにしろ、ここだって市内の役所の一つ。こんなコンクリートジャングルでは、蝉も飛んできたところでとまる樹木もありはしないだろうに……。


「こんなの、虫だって生きていける環境じゃないよ……」


 あまりの暑さに、地面にひっくり返っている蝉までいた。

 生きているのだろうか。死んでいるのだろうか。


 幼少期、何だろうと近づいてみたら急に動き出した経験があるので、もう今の私にはあれを拾ってみようという感情は一切ない。


 これも自然の理なのだ、許しておくれと手を合わせていたのだけれど――先輩はまったく気にしない様子でひょいと拾い上げたのだった。


「先輩……虫が平気なんですね」

「そりゃあ、虫が怖くて妖怪相手の仕事ができるかっちゅう話よ」


 私だって、害の無い虫に対してはそこまで嫌悪感も感じないのだけれど……。それでも、素手で拾い上げようとは思わない。ましてや、手の中でジジジと鳴き始めだしたのだから、もっと無い。


 死んでなかった。これが所謂いわゆる、セミファイナルってやつなのか。


「ここらはまだ緑がある方じゃけぇねぇ。ただまぁ、嫁選びには向かんわ。生存競争は場所取りの段階で始まっとるっちゅうに。ホレ、もっと別の所に飛んでけ」


 そうしてポイっと投げるも――蝉は少しだけ旋回して、道路わきに伸びている金属製のポールにとまってしまった。そんな場所では、またすぐに落ちてしまうだろうに。


「鉄塔に 昇りて送る 恋の文 電波に乗りて 行き着く先は」


 ――――。


「先輩が詠むのもなんか意外ですね」

「やかましいわっ」


 季語はないけど何処かに出すものでもなし。適当に思ったことを呟いただけだと、先輩は言う。そんな簡単に言うけど、そんな芸当私にはできない。


「少し南に行っただけで、山があるんじゃけどねぇ。なんの拘りがあったんだか」


 広島市の南区には黄金山おうごんざん比治山ひじやまもある。黄金山は昔から夜景スポットとして(たぶん)有名だし、比治山は美術館や漫画図書館があったはずだ。


 どちらも春になると桜が綺麗で、小さいころは子供会で花見に行った憶えがある。


 ――なんて、どうでもいい話をしていると。

 誰もいないはずの怪し課の窓から、誰かがこちらへと呼びかけてくる。


「なんで誰もいないんだい……! 困るよ、緊急の用があるってのに!」

「あ、(元)課長……?」


 そうして――今回の“送り返し”を行うべき妖怪の話が舞い込んできたのだった。






「……なんだか蝉の鳴き声が五月蠅すぎません? まるで山の中にいるみたい――」


 訪れたのは、市役所から車で三十分程度の場所。ちょっと広めで、幾つかのエリアに分かれている公園だった。サイクリングやジョギングの為のコースもある、近隣のマンション住民がよく利用している綺麗な公園である。


 そこのアスレチック遊具のエリアに、妖怪はいた。――というより、あった。見れば人が腰かけられるぐらいの小さな岩が、広場の真ん中に幾つも設置されている。耳が割れそうな程に騒がしい蝉の鳴き声が、そこの岩の一つから響いているのだ。


 岩に染み入る蝉の声、どころか岩から滲み出ていた。


 見た目は完全に普通の岩で、特に五月蠅いこと以外は害がなさそう、というのが第一印象。ただ……先輩は、とても焦っている様子で小さく呟く。


「なんちゅうこった……」


「なんていう妖怪なんです?」

日明ひあかし……」


 鳴き声がするということは、蝉に関係していると思っていたけど。つまりは蝉の一種――ヒグラシの対みたいなネーミングだった。


「触りんさんなよ。……こいつはなかなかタチが悪い」

「タチが悪い? またまたぁ、ただの蝉の鳴き声がする岩じゃないですか。確かに気持ち悪いけど……そんなに危なそうには見えないですよ?」


 そんなことを言いつつも、先輩が言うのだから少しだけ距離を離す。

 口では威勢のいいことを言ったって、やっぱり妖怪というだけで怖い。


『かぁ~。これだから、まだまだヒヨッコなんよ』と、呆れたように言った先輩は、目の前の岩――日明しについて教えてくれた。


「……日明しは“あだ名”みたいなもんで、本来の名前は旱魃かんばつ。読み方を変えれば旱魃ひでりのかみ。つまりは妖怪だけども神様に近い。迂闊に近づいたらけぇね」


 ――神様。と、先輩は言った。

 耳を疑った。だってそうでしょう。


 こんなコンクリートジャングルのド真ん中に……神様が現れるだなんて。

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