潮鬼と波狼【後編】
「冗談ですよね……?」
尋ねる声が震えていた。
こんなこと、普通に考えてあり得ない。
間違いなく、妖怪の仕業だ。
「冗談……?」
――まさか、ここまで酷いことになるなんて。
どうしよう。どうしよう……!?
先輩がいないと、妖怪を送り返す仕事もできない。……いや、何か手があったような? 先輩は『段取りが――』あれ、何割って言ってたんだっけ……?
「私の記憶もあやふやになり始めてる……?」
……怖い。得体のしれない恐怖が這い寄ってくる。誰に助けを求めればいいの。先輩にも頼れない。逆にこの場所から離れさせれば、治るかもしれない。……けど、そんな保証はどこにもないよね。
悪い予感ばかりがどんどんと大きくなってくる。先輩や私だけじゃない。今はこの辺りだけだけど、広がっていく可能性もゼロじゃない。広島の町がおかしくなるだなんて……そんなのは嫌だ。
「私が……私がなんとかしないと……!」
この調子だと、私もそう長くは
「……先輩を信じますからっ」
事前に先輩は何かを準備していたはず。何だった……?
思い出せ。思い出せ。頭の中にある記憶を、総動員してなんとかヒントを掴み上げようとする。最近見たものは、まだ記憶に残っているんだから。水面で見た満月のような影……。先輩とはお昼にどんな話をしたっけ。影の……じゃなくて月の話もしたはず。確か先輩は何か持ってたよね……。
『ひ・み・つ。必要な時以外は吹いたらいかん』
「――笛……。笛だっ……!」
先輩の持っていた笛――『いざという時に使う』とか言ってたけど、今がその時としか思えない。どこにあったっけ。……車だ。駐車場まで取りに行かないと!
全速力で土の階段を駆け上がり、駐車場に一台だけ停められていた車を開ける。そういえば鍵をかけていなかったんだっけ。不用心だな……でも助かった。
後部座席に置かれていたカバンの中から、乳白色の笛を取り出した。片手でなんとか持てるぐらいの大きさだけれど、そこまでは重くない。あとはこれを――どこで吹こう。やっぱり例の妖怪の近くの方がいいか。
急いで海の方へと戻るときに、“誰か”とすれ違う。
「……ごめんなさいっ! 持っていきますね!!」
――今抱えているものが、きっとこの人の物だった気がして。
「そ、それはうちのじゃろう! この――ドロボー!」
「だから謝っているじゃないですかっ!!」
……ええい。そんな言い合いをしている場合じゃない。影のあった岸まで逃げる。
誰かが後を追ってくる。……なんで私、追われているんだっけ?
この笛もどうしよう。もう吹いてしまおうか。
――走った。なんで走っているのかも、薄っすらとしか覚えていないけれど、自分が“今だ”と感じるところまで走った。ジャージのお姉さんがサンダルのままで追ってきているのが少し怖かったけど、ようやくたどり着いた。
「――ここだ。この笛を……どう吹けばいいんだろう」
いいや。笛の吹き方なんてどれも同じだろう。
法螺貝のように掲げて――思いっきりに吹いた。
すぅーーーー。
『ワォォォーーーン!!』
ボォーでもなく、ピィーでもなく。まるで遠吠えのような音だった。吹き終わった後も、余韻だけが長く残り。追いついた誰かさんも唖然としていた。
何が起きるのだろうかと、周りを確認するけども、何も起きない。『あれ……?おかしいな……』と焦っていると、腕を掴まれ、グイッと海から少し離れた方に力強く引き寄せられた。
「えっ――!?」
「……大きな波が来るけぇ、こっちに寄っとき」
「は、はい……」
なんだか良くその表情が少しカッコ良く見えて。服装はジャージにサンダルだったけど。少し変な、カッコ良い人だ。
『ワォォォーーーン!!』
そうして一分もしないうちに、その現象は起きた。
私の吹いた笛の音が、海の向こうからも響いてきたのだ。
地平線の向こうから、ゆっくりと、ゆっくりと何かがやってくる。海が少し“かさ”を増したようにも見えた。“誰か”が言ったように、大きな波が迫ってくる。バシャバシャと白泡を伴って、幾つもの波を率いてやってくる。
もともと潮が引いていたことも大きいだろう。波は岸へとたどり着くも、私達を飲み込むようなことはなかった。寄せては返す、
先程の、遠吠えのような笛の音があったからだろうか。高く跳ね返る白波は、幾つも幾つも並んで、どこか狼のようにも見える。
海中にあった満月のような大きな影が、途端に激しく揺れ始めた。白い波が次々と影に飛び込んでいくようにも見えて……。中ではいったい何が起きているのだろう。
――――。
それを眺めているうちに、だんだんと頭の中がはっきりとしてきて。黒い影が薄くなり、消えていったあたりで――私は隣に立っているのが先輩だということを思い出した。
「
「先輩……っ。大丈夫ですか!? 私のこと、憶えてますよね!?」
「……大丈夫よ。ぜーんぶ思い出した。送り返しも、あんたのおかげで何とか完了。今回はお手柄じゃったね」
先輩にそう優しく言われ。頭に手をやられたところで、限界が来た。
「うえぇぇぇ…………」
どうにも感情のコントロールができず、泣き出してしまった私を気遣ってか――帰りのドライブは、別段荒くもない静かな運転だった。
「……結局、あれって何だったんですか?」
「海のなかに黒い真ん丸な影を見たって言うとったじゃろ。それなら、今回の問題を起こしたのは、
うしおに……。『牛鬼……?』と青ざめる私のために、先輩がわざわざホワイトボードに書いてくれる。潮に鬼で潮鬼ね。
「鬼……!? あれが鬼だったんですか!?」
「いやいや、鬼とは言っても、ウミウシみたいなもんよ」
ウミウシみたいなもんよ、と言われても、ウミウシ自体にそんなに馴染みがないわけで。……あのカラフルなナメクジみたいなやつだよね?
「
名は体を表す。潮とついているからには、そういう力があっても不思議じゃない。というのは、この仕事について長いために理解ができるようになってきた。けれども、不可解な部分だって幾つも残っている。
「でも……なんでその妖怪が、記憶を消しちゃうような危ない妖怪なんですか?」
下手をすると全滅だったわけで。
ウミウシにそんな危険な力があるなんて、聞いたことが無いんですけど。
「ウミウシはなんの仲間か知っとるかいね」
「……なめくじ?」
「海水に浸かってたら干からびるじゃろうが」
即座に駄目だしを受けてしまった。もちろん、『カタツムリ』と言って呆れられたのは言わずもがな。もう。ウミウシってなんなのよ。
「……さっぱりです」
「はぁ……。生物の勉強もした方がええんじゃないかね」
悪かったですね、学が無くて。
化学畑だったけれど、生物についてはあまり詳しくないんです。
「……ウミウシは貝の仲間なんよ。そんで、貝の中には毒を持ってるのがおって、その毒も多種多彩。実際に記憶喪失を起こすやつもおる」
他にも麻痺性の毒だったり下痢性の毒だったり――酷いときには死に至るものもあったりすると聞いて、竦み上がってしまう。……今度から貝を食べられなくなるかも。
「貝っていうのは、とってもあやふやな生物で、貝殻を持っているものもおるし、持っとらんのもおる。……ちなみにクリオネも貝の仲間なんじゃけど――」
「知らなかった……」
どんどんと明かされる先輩の豆知識。
「一説によると、クリオネは灯油やガソリンの味がするとかなんとか……」
「
そもそもクリオネを食べようとする人がいることに驚きだ。
「とにかく、その境界線をあやふやにしてしまうのが、貝という生物というわけよ」
…………。
思っていた以上に奥深い貝の世界。先輩が言うには、『なにもかもが現実の生物と同様という訳にはいかないけれど、知っておいて損はない』とのことだった。
「最初はただ、忘れ物が多発しているだけかと思ってたのに……。蓋を開けてみたら、とんでもない妖怪がいたんですね……。やっぱり妖怪って怖い――」
「――それでも、何も怖い妖怪ばかりじゃないんよ。あんたも、何度か見たことがあるじゃろうけど」
人に害をなす妖怪がいれば、それを抑える妖怪もいる。
遥か昔、人の力だけでどうにもならない事態が起きた時、妖怪の力を借りるのが普通だった。妖怪と人との繋がりは、徐々に薄れてきてはいるものの、まだそこにあって。
「今もなお、そうやって支え合い続けている所はある。うちだってそうよ」
「今回の……海から来てくれた狼もそうなんですよね……?」
確か先輩が呟いていた。“はろう”という名前。
「――波狼は潮鬼とは逆で、境界を正してくれる妖怪じゃね。あの笛は、波浪を呼び出すためのもの。本当なら、もっとあれやこれやと用意して大掛かりな儀式をせんといけんのじゃけど、今日ばっかりはこれだけで足りたんよ」
他の日では駄目で、今日だからよかった?
今の季節なら――というのなら分かるけど、今日という日がなんなのか。
「今日ばっかりは……? なんで今日だったんですか?」
「朝に自分で言うとったじゃろう。今日は――うるう日だって」
――2月の末。四年に一度訪れる29の日。
「無いものを足して補う。本来あるべき流れに正す。それが
その
「潮鬼が海の妖怪だったのも都合がよかったんよ。
「
確かに、先輩がその名を呼んだ時。普通に自分の中で浮かんだのは
「ちなみにその昔――うるうは、うるふとも言われとった。ま、どこまでが繋がっとるかはうちにも分からんけど……名は体を表す。馬鹿にはできんよねぇ」
予想もしないところで、いろんなもの、ことが繋がっていて。
それは妖怪のことでもそうだけれど、身の回りのことでもきっと同じ。
「そういや、あれだけ『触ったらいけん』って言うとったのに……。よう、あの時笛を吹けたね。結果的にはあれで正しかったんじゃけれど」
「あぁ……それは……」
あの時はとにかく必死だったし。
それに先輩の準備していたものだからと、信用していたこともあったし。
それよりなにより――私だって。
「……すっかり忘れてたんですよねぇ。そのことを」
『ワォォォーーーーーーーォォン』
どこか遠くで、遠吠えが響く。
……そんなこんなで。
二人して苦笑いをして終わった、四年に一度の閏日なのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます