潮鬼と波狼
潮鬼と波狼【前編】
「最近、屋外で飼育されているワンちゃんについて、苦情が相次いでいるらしくて」
――まだ冬の寒さが抜けきっていない二月の下旬。
たまに訪れる寒さと、フライング気味の花粉とで厳しい時期。まだこたつを仕舞ってもいない“怪し課”の事務所で、未だ消費しきれていないミカンを剥きながら先輩と話す。
「ふーん……ワンちゃんねぇ。犬がどうしたって? あ、こっちも剥いとって」
「はいはい。……夜間の遠吠えが近隣住民の迷惑になってるって話ですよ。――って、なんでそっちを食べてるんですかぁっ!」
――妖怪返送担当課。表にはひっそりと『怪し課』と出ているけれども……。私が入ってから二年経った今となっても、誰一人としてそう呼んでいるところを見たことが無い。
いつでもどこでもジャージ姿の先輩と私の二人きり。実際に妖怪を送り返した仕事も年に二度か三度ぐらいで(それだけでも十分に凄いのだけれど)。殆どの時期は雑用と言わんばかりに、他の課のちょっとした仕事を代わりに片付ける部署となっていた。
「最近は月が明るいけぇね。気分でも
「そんな狼みたいな……」
頼りにするべき先輩はいつもこんな感じで。原因が分かっていようがいまいが、適当なことを言っては私を困らせる。……それでも、いざというときはシャンとして、しっかり仕事をしたりするんだけど。
「そもそも、ひと昔前だったらそんなのが普通だったわけで。最近の奴らが神経質過ぎるんよ。それに今じゃどこもマンション暮らし、アパート暮らし。昔みたいに庭のある家がそこらじゅうにあるわけでもなし」
どんどんとミカンの房を口に放り込んでは、愚痴めいたことを言っていた。……私が剥いたミカンなんですけど。仕方ないから、今剥いた奴を食べよ……。
「そういえば犬小屋なんて、あまり見なくなりましたね……」
「ただでさえ室内犬ブームみたいのがあって、外飼いされとるのも減ってきとるし。だとしても猫じゃあるまいし、朝昼しっかり遊んでやりゃあ夜には疲れて眠るもんなんじゃけぇ。もっと普段から構ってやりゃあええんじゃないかね」
お茶を啜りながら『そんなものなんですかねぇ』と相槌を打つ。
本当に体力が有り余ってるってだけなのかな。
「ほら、遠吠えって離れたところにいる仲間との連絡手段っていうじゃないですか」
「それの名残ってのもあるじゃろうけどねぇ……。まぁ、月ってのは大昔から神秘の象徴。あまり見えるような場所で寝かしとくのも良くない」
『そうなんですか?』『そりゃあそうよ』と。
「この世界に生きる生物にとって、月は無くてはならんもの。引力による潮の満ち引き、月の欠け具合は
これまた話のスケールが大きくなってきた。
――暦といえば、今日は2月の29日。
基本的に、四年に一度あるとされる
2月に一日だけ追加される特別な日。
「そういえば、今日は閏年ですけど――って、なにを磨いているんです?」
ミカンを食べ終わった先輩は、作業に戻っていた。
まぁ、作業といっても、白い布で何かを磨いているだけなんだけど。ちなみにこうして話している間は、ミカンを
「ん? んー……笛」
「……笛?」
先輩が『ほれ』と片手に掲げて、その笛を見せてくれた。
それはホイッスルのような小さなものでも、リコーダーやフルートのような真っ直ぐなものでもなく。どちらかというと、オカリナと
指で押さえる穴は無いみたい。
息を吹き込む穴と、抜ける穴があるだけだった。
「何に使うものなんです?」
「ひ・み・つ。必要な時以外は吹いたらいかん。触るのもダメ。然るべき場所、然るべき時に使うことで、意味を持つものなんじゃけぇ」
なんだか大層な宝物を独り占めするみたいに、『NOタッチ!』と言ってくる先輩だけども、正直言ってそれほど興味はない。
「何事も段取りが九割よ」
「はぁ……。まぁ触らないですけど……」
その“必要な時”なんて、先輩しか知らないのだろうし。私が吹くことなんて、まずあり得ない。……楽器なんて、なにもできないし。というより、得意なこと自体あんまりない。
唯一あるとすれば、走ることが好きだったけど、それももう……。
「――とにかく、犬の遠吠えなんて後にしとき。どーせ、いつの間にか収まっとるんじゃけぇ。その前に、他にもあったじゃろ、ええと……」
「南区――元宇品公園で忘れ物が頻出してる問題ですか?」
瀬戸内に大きく広がる広島の南部。有名な釣りスポットもいくつかあって。今回はそのうちの一つで、釣り竿の忘れ物が頻出している、という苦情が前に来ていた。
「そうそう、あっちの方が問題じゃろ。まったく、二月の終わりにもなろうかってのに……」
兎にも角にも、そっちの対策を優先させたい、というのが先輩の考えらしい。そんなこと言ったって、海岸の方では張り紙もしているようで。それにも関わらずの状況で、私たちがこれ以上何をするんだって話なんだけれど。
「冬の海……。それじゃあ、見に行ってみましょうか……」
――というわけで、いつもの様に。先輩の荒い運転に内蔵を揺さぶられながら、件の海岸に向かうことになったのだった。
「わぁ、おっきな船が泊まってますねぇ」
市内から南へと車を走らせると、二十分もしないうちに海が見えてくる。
「――宇品外貿第五バース。世界中からも客船が寄港してきよるし、瀬戸内を回るクルーズ船もよう出よる。向こうの方では多くの貨物船が出入りもするし、広島の中でも一際大きな流通港よ」
先輩が顎で指した先、トラックが並んでたり、コンテナが積まれている。
「波止場公園も含め、ここらはなんて呼ばれとるか――」
「もちろん知ってますよ。私も地元民ですから! “一万トンバース”ですよね!」
――遠くに見えるのは宮島。日本三景の一つであり、世界文化遺産でもある
もちろん、私も学生の頃に何度か来たことがあるわけで。
むしろ、正式な名前の方が知らなかった。……とは言えなかった。
「こっちも有名の釣り場じゃけども、問題になっとるのはもっと奥の方よ」
港入口との交差点を西へと曲がり――そのまま海岸沿いへ進んでいく。数分後、大きなホテルの横を通り抜け、そのまま真っ直ぐ行くと、山の中へと道が続いていた。
陽の光も差さないぐらいに鬱蒼とした原生林の中。
海岸へ降りるための駐車場は、その先に用意されている。
「――よし、気合を入れていこうかね」
「気合って……忘れ物対策をするだけでしょう?」
「それが……妖怪の仕業だったとしたら?」
「え゛……?」
最近はそういった妖怪がらみの問題も無かったし、すっかり他の課の迷惑問題処理係としての仕事だと思っていたのに。
「もちろん、今回もどんな妖怪か分かっているんですよね?」
「…………」
――あれ? 先輩?
「うーん……分からん! まー、見てみれば分かるじゃろ」
「またそんな適当なこと言ってぇ……」
万が一のことでもあったらどうするんだろう。
普段の先輩らしい、といえばらしいけど……。
なんだか、少し違和感があった。
「あ、先輩! 笛を忘れてますよ、笛を!」
駐車場に車を止めて降りたときも、なんだか抜けているように見えて。『別にええじゃろ。このまま置いとき』と、そのまま鞄ごと車に置いていったし。
……なんだか、心ここにあらず、というような。
前を歩く背中を見ていても、どこか不安ばかりが募っていた。
――山肌を埋め尽くすように伸びた原生林の中。灯台や大きなクスノキを見つけ、『そういえばそんなのもあったなぁ』と懐かしさに浸ったりもして。駐車場からそのまま斜面を削ってできたような階段を降りていく。
木々が途切れ、正面には小さい浜辺。
今日はなんだか、砂浜が前来た時よりも広く見える。潮が引いているから?
それでも、今は流木だったり発泡スチロールだったりが流れ着いたりしていて、お世辞にも綺麗とは言えないんだけれど。
砂浜の脇からは、ごつごつとした岩ばかりの磯になっている。この海岸も、海水浴場というよりは、釣りスポットとして有名なのは見ての通り。
「いっぱいありますね……。なんでこんな大きな物を忘れちゃうんだろ」
島の岸に沿って作られた石路を歩いてみるだけでも、簡単に抱えるのが大変になるぐらいの釣り竿が集まった。大漁だと最初は喜んでもみたけど、やっぱり違和感ばかりが強くなるばかり。
「単にうっかりというには、こりゃあ数が多すぎるわ。どうじゃろ……例えば、なにか大変なものを見て、慌てて逃げだした――とか」
「お、脅さないでくださいよ……」
『妖怪を見つけさえすれば、あとは簡単よ』と、磯の方をじっくりと眺めながら、ふらふらと歩いていく。私も、何か変なものが無いかとあちこちを探してみることにした。
――――。
海は穏やかで、波は殆どない。磯の方には小さなイソギンチャクだったり、ヤドカリがいたような記憶もあるけど、あれは小学校ぐらいのことだったか。だいたい訪れていたのは夏休みの間だったから、山の方ではカブトムシやクワガタがよくいたっけ。
フナムシがカサカサと這っているのを見て、よく『うわぁ……』ってなっていたけど、冬だからか、さっぱりといなくなっていた。
「なんだか……すごい静か……」
冬の海といえば、少しだけ荒れているような印象があっただけに、なんだか怖くなってくる。こういう時は先輩と離れずに行動して――と思った時には、いつの間にか先輩の姿が見えなくなっていた。
「先輩っ――……? 先輩? どこにいったんだろ……」
不安になり、歩く歩幅が自然と大きくなる。少しぼんやりとしていたせいで、思った以上に砂浜のところから離れてしまっていた。おまけに、岸壁にそってグネグネとしている道のせいで、見通しが悪いのも焦りに拍車をかける。
そんな中で、海の方を見る余裕もなかった――はずだったんだけれど。
「あれ……? なんだろう、あの影……」
大きな影、視界の端に入り込んだ。
入り込んで、それから私は目が離せなくなっていた。
魚にしては大きすぎる。というよりも、変にまん丸で。ゆらゆらと風に合わせて形を歪める様は、湖畔の月のよう。
……ざわりと嫌な予感が背筋を撫でた。妖怪だ。それも、なんだか良くないタイプの。でも……私はどうすればいい? 先輩じゃないと対処の仕方が分からない。知識も、道具も、何もない。
まずは先輩と合流するのが先っ……!
「せんぱ――いたっ!」
駐車場のある山の方へと戻る足取り。え、ちょっと待って。
なんで帰ろうとしてるの!?
離れたところから『先輩!』と声をかけても全く反応しないし、慌てて引き戻しにいく。
「先輩! いました! 妖怪が! いたんですよ!!」
「うん……? 妖怪、どこに? どんなのだったかね?」
「あっちの海の中に! あぁ、実際に姿は見えなかったんですけど、真ん丸くて大きな影が!!」
「海の中……真ん丸な影……うしお――」
うーん、と考え込む。考えて、考えて、それから顔を上げたかと思うと、辺りをキョロキョロと見渡してから、再び駐車場へ戻る階段に足を伸ばした。
「ちょ、ちょっと!! 先輩!? しっかりしてくださいって!」
うしお……?
それが妖怪に関係してるってこと……?
先輩がしゃきっとしないで、誰が妖怪を送り返すというのか。毎度毎度、大したことをしていないように見えてはいても、的確に対処してきたのは先輩ただ一人なのだから。先輩無くして、“怪し課”は成り立たない。だからこそ――
「先輩……? ええと……誰だったかいね?」
「――――っ!?」
――不意に涙が溢れそうになった。
先輩が……私のことまで忘れちゃった……?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます