♯2

 見える景色は、雲が動くぐらいのスピードでしか変化しないが、眼下の海は、雲は、確実に私に迫ってきている。最初は半光沢のプラスチックの表面のようだった濃紺の海が、徐々に荒い鑢をかけたようなディティールへと変わってきている。

 私が今、いったいどれくらいのスピードで落下しているのか知らないが、ほぼ地上と変わらない重力に引かれ、一切の空気抵抗を受けることの無い宇宙空間で加速し続けたならば、とっくの昔に音速ぐらい超えてそうだ。

 そんなベラボーな速度で落っこち続ける人間を、このゼルラとかいう人は、一体どうやって助けるつもりなのだろうか?

「親方! 空から女の子が!」と、どこぞの炭坑夫の少年にキャッチしてもらうのか?

 じゃ飛行機でキャッチを……残念ここは宇宙ですから。

 じゃ宇宙船とかで? いやいや、そんな便利な使い方ってきるもんなの宇宙船て。

 地上からヘリでくるとか? 下にクッションでも敷いておいてくれてるとか? いやいや、なんかこの人はこっちに向かってるとか言ってたし……。

 私には自分が助かるという、リアルなビジョンがまったく見えてこなかった。

 今の私の落下速度の前では、私の身体なんて生卵どころかシャボン玉みたいな脆さだろう。

 助かるには、誰かにそぉっと掴まえてもらって、ゆ~っくり減速してもらうしか無いように思える。

 むしろ幾通りもの死に様の方が脳裏を過っていた。海面にビタ~ンとか……。よく映画で見る大気圏突入でアヂャヂャヂャヂャヂャ~……とか。

『おい! おい聞いてるのか!? あんた!』

「は、はひ!」

 ゼルラ氏の声に、私は我に返った。

『あんた名前は? 名前はなんていうんだ?』

「ゆ、ユカリコ! 泉縁子……です」

『イズミ・ユカリコ? よしユカリコ。さっそくで悪いが、頼みがある』

 ほらおいでなすった。私は訊く前から絶対ロクな頼みじゃない気がしていた。

『悪いんだが、今のあんたの位置ではオレがあんたに追いついても助けられない。なんとか空力制御でピラーのそば、200メートルくらいまで近づいてくれないか?』

「クーリキセイギョ?? ピラァ!?」

『あ~、え~と、今はほぼ真空で移動のしようが無いが、これからあんたの落ちる先の大気は1分もしないうちにどんどん濃くなる。スカイダイビングの要領で、空気抵抗を使って軌道エレベーターの柱のそばまで来てほしいんだな』

 きっと数ある説明のなかでも、簡潔かつ分かりやすい説明だったのであろう。

 私は、落下しているうちに大分軌道エレベーターから離れてしまっていた。もう白く太い柱だったのが細く白い糸にしか見えないほどだ。ゼルラ氏はそこに戻って欲しいらしい。

 問題は、私がスカイダイビングなんてやったことないってことだ。

『あ~……………脚と背中を天空方向! 頭を地上方向にしてピラーの方を向け!』

「や、やってみます!!」

 私にはそう答えることしかできなかった。

 いつの間にか、微かにコォ~という風鳴りが聞こえ始めたような気がする。

 降下するにしたがって、大気が濃くなり始めたのだ。

 私はゼルラ氏に言われた体勢をとろうと試みたが、ジタバタとあがくだけで、明後日の方向に身体が回転するだけだった。

 空気を掻いて向きを変えようにも、まだまだ空気が薄すぎるのだ。

『それともう一つ、絶対に水平回転はするなよ。遠心力で頭に際限なく血が昇って死ぬぞ!』

「!!」

 そういうことはもっと早く言って欲しひ! 言われたそばから、ジタバタした勢いで回り出した身体の回転が、少しずつだが勝手に加速しだした。

 これがゼルラ氏が懸念してたことか!

 身体全体が竹トンボの羽と化して、この僅かな空気抵抗を回転速度に変えてしまっているのだ! このまま際限なく回転速度が上がり続ければ、遠心力で首がもげる!

「ひぃぃぃぃ~!」

 慌てて身体を逆方向にねじって、回転をストップさせようと試みる。

 ……幸い、手に負えない速度で回転する前に、なんとか回転を止めることができた。そしてその合間に、段々とこの状況下での姿勢制御に慣れてきはじめていた。……というか空気がそれを可能とするほどまでに濃くなってきているのだ。

 それにつれ、落下しているはずなのに、何故か下から身体が突き上げられているような感覚が私を襲う。これは一端加速しきった私の落下速度が、濃い大気層に突入したことにより、減速しはじめたことがもたらす感覚らしい。

 段々と、ヘルメット内に響く風鳴りが大きくなってきている。

 私はなんとか脚を宇宙に向け、頭をさっき昇って来たばかりの軌道エレベーターの白い柱へと向けた。じれったいほ程にゆっくりと、細い糸にしか見えなかった柱が、直径200メートルの太さを感じさせる程にまで近づいて行く。そして近づくにつれ、はっきりとしてきた柱表面のディティールに、私は自分の落下しているスピードを実感して戦慄した。

 いやディティールなんて見えやしないよ! 

 例えるなら、駅のホームで白線の外側に立って、通過する快速電車の5センチ横に顔を近づけて見たような気分だった。実際には100メートル以上離れているにも関わらずだ。

 それまでは現実感が無いのが怖かったのだけれど、今は超絶物理的に怖かった。

 航空障害灯の赤いランプが、猛スピードのために一本のライトセイバーみたいに繋がって見える。もし、その赤い光に触れたなら、私の身体は巨大なチェーンソーに触れたのと同じ結果になるだろう。

「たたたたたた助けて~っ! 早く~っ!!」

『パニくるな! もうすぐ着く!』

「ほんとにぃ!?」

 完全なるワラスガ状態で問い返す。

『ああ、ホントだ。だが……』

「わぁ~ん出たッ! 『だが』!!」

『……だが、あんたの落下スピードがちとはや過ぎる。このままじゃ、断熱圧縮で偉い熱さになるぞ! ……あと一分でそっちに追いつくから何とかそれまで耐えられないか!?』

「な、『何とか』……って何ですか!?」

『……悪いがその宇宙服の耐熱性能に頼る以外、何も思いつかない』

「そぉ~~~ん~~~ぬぁ~~~~!!!」

 ゼルラ氏の言ってる事への私の理解が正しければ、私が猛烈な速度で地上近くの空気が濃い層にぶつかることによって、目の前の空気がベラボ~に圧縮されて高熱になり、YOUは流れ星みたいに燃え尽きてしまうんじゃね? という事らしい。

 映画やらアニメでたまに見る〈大気圏再突入〉って奴だ。

 …………生身でやってるのは見た事ないけど……。

 ゼルラ氏の期待通りに、この宇宙服の耐熱性能が守ってくれる可能性は!?

 そう願うそばから、ヘルメット内に不穏極まりない警告ブザーと共に、赤いランプが点滅して私の顔を照らしだした。

〈現在、宇宙服ガ、危険レベルノ高熱状態ニタッシテイマス。コノママデハ身体ニ影響ガデル可能性ガアリマス。スミヤカニ対処シテクダサイ〉

 親切極まりない警告メッセージが、音声と共にフェイスプレートに投影されだした。

 サスガ素人用! どんな問題が起きているかを分かりやすく使用者に伝えてくれるつつも、その解決策については曖昧極まりないぜ!

 私に迫る危機は、それだけでは無かった。

 突然、巨大な塊が私の身体の横を通り過ぎたのだ。

「ひぃぃぃ!」

『どした!? ユカリコ!!』

「なんか落っこちてきたぁ!!」

 私のすぐそばを、大小様々なサイズと形の塊が通り過ぎ、あるいはただ漂っていた。

『そりゃ低軌道ステーションの壊れた破片だ! 避けろ!』

 言われなくたって避けますとも! 慌てて身をよじって迫る破片の幾つかを避ける。

 だが仮にそれらを回避したところでどうなるというのだろう。

 ついさっきまで細かい塵のようだった雲が、いつの間にか巨大な島のようだ。そしてその手前、私の下方、数キロ先では、私を追い越して落下した低軌道ステーションの破片が、縁をオレンジ色に輝かせ、盛大に燃え散っていた。

 もう大気圏突入時の断熱圧縮による超高熱現象がはじまっている!

 今、私は流れ星が生まれる瞬間を、この距離でこの眼で見てるのだ!!

 もうすぐ私自身がその流れ星へ仲間入りしますから!

「あわわわわわ!!……」

 確実なる死は、文字通り目前に迫っていた。







 ※ ※ ※

 ゼルラは事件発生の報を受けたその時、正直その要救助者は助からないだろうと思っていた。

 過去、様々な事件事故により、この軌道エレベーターでは少なくない犠牲者が出ている。それらの犠牲者は、大概、助かるチャンスも与えられないまま帰らぬ人となっているのだ。

 今回もどうせ自分が辿り着く前に結果は出ていることだろう、そうゼルラは思っていた。

 だが、この要救助者は違った。

 まず第一に、このユカリコという娘は、低軌道ステーションにデブリが命中した瞬間を生き延びた。秒速数キロで命中したデブリにより、低軌道ステーションの一部が崩落するような事故に間近であえば、普通はその時点で助からないものだ。

 第二に、彼女が落下しだした時、ゼルラの駆るヴァリスが低軌道ステーション下部のピラー上、頑張れば追いつくことが出来そうな位置にたまたまいたことだ。本当に追いつけるかはまだ分からないが。

 ともかく、この娘はこの時点でけっこうな強運の持ち主らしい。

 そして第三に、……これが最も重要なことだが、この娘はこの状況にあっても、なんだかんだ言いながらゼルラの指示に従い、助かる為の行動を放棄していないということだ。

 単に自分の置かれた絶望的状況がよく分かっていないだけかもしれないが。それでも大したものだ。普通ならパニックで話を聞くどころじゃ無くなるか、死を受け入れ、諦めてしまいそうなものだ。

 ゼルラは彼女を本気で助けたくなってきていた。

 だが、それももう無理かもしれない。

 人間が1G下で大気圏内を自由落下した場合、終端速度はだいたい時速200キロ程だといわれている。これが空気の密度と人間の体重が、重力で引っ張れる速度の限界なのだ。

 時速200キロ程であれば、ゼルラの駆るヴァリスによって追いつくことが充分可能な速度である。だが、その速度まで減速する過程が問題だった。

 高度420キロから落下しだした彼女は、真空故に一切の空気抵抗を受けることなく、1Gで引っ張られまくり、落下速度はマッハ二桁にまで達しようとしていた。

 人工衛星や、その他の流星に比べれば遥かに遅いスピードではあったかもしれないが、それでも高度100キロ以下の濃い大気にぶつかれば、下面の大気が圧縮され高熱となり、それはそれは盛大に燃え上がることだろう。これに対し、ゼルラに出来ることは何一つ無い。

 ピラー上を高速降下するヴァリスにも断熱圧縮による異常過熱が襲いかかる。

 サポートAIがしつこく警告してくるのをゼルラは無視した。幸いにもヴァリスには、接しているピラーに生じた熱を棄てる機能がある。今はまだ大丈夫だ。

 問題は彼女に追いついた後なのだが……。

 彼女のいる高度にまで追いついた時、ユカリコの位置はすでに高度100キロを切っていた。そこに見えたのは、幾つもの流れ星となった低軌道ステーションの残骸だけだった。

 ――やはり……無理だったか……。

 そもそもからして助けられるはずが無い話だったのだ。

 ゼルラに出来ることは、もう何も残って無いように思えた。

『……て~!!』

 ゼルラが諦めかけたその時、彼女の声が聞こえたような気がした。

 思わず流星の中を探す。見えるのは燃え盛る流星だけだ。

 ――お化けじゃないだろうな!?

 ゼルラは割と本気でそう思いながら、ヴァリスのサポートAI〈バッティ〉に、その流星の中からユカリコの姿を探させた。

『…………す~け~て~!!』

 空耳では無かった。その声は確かに聞こえた。ゼルラの駆るヴァリスのすぐそば、この大気圏突入中という、無線通信には最悪の条件の中でも、声が届くほど近くに彼女はいる。

「バッティ! 早く見つけ出しやがれ!」

 ゼルラに答えるように、サポートAIがユカリコの今いる位置を発見し、マークした。

 それは流れ星となって燃え盛る、低軌道ステーションの破片の一つだった。

 彼女はあろうことか、ステーションの外板だったものらしき残骸の上で這いつくばり、必死にこちらに向け手を振っていた。





 私の視界、周囲360度の下方から、眩いオレンジの光が溢れ、バーナーのように私をあぶっていた。空力過熱が生む炎だ。

 なんて綺麗なのかしら……まるで巨大な南国の花の上にいるような……。

 ――なんて感動している場合ではない。どっちかというと巨大なガスコンロの上のフライパンに乗っているようなものなのだ。

 熱い熱い熱い熱い熱い! …………だが生きている。サウナの超酷い奴にいるような気分だが、辛うじて耐えられていた、何故か。

 けれど、この状態も長くはもつまい。

 結局、私は流れ星への仲間入りを避けることは出来なかった。

 ヘルメットのフェイスプレートが汗と蒸気で曇りまくっている。

 私は咄嗟に一緒に落ちてきた大き目の残骸につかまり、それを盾にすることで、大気圏突入の高熱から身を守っていた。だが、その盾は、刻一刻と、端から高熱で燃え尽き、その面積を狭めていた。

 あと私に出来ることはといったら、ひたすらゼルラ氏の助けを待つことだけだ。

 すでに大気はその存在を盛大に主張していて、ヘルメット内には全ての音をかき消すようなゴオォォォォという風鳴りどころじゃない轟音が響き、それに合わせて私と私のしがみつく残骸を揺さぶる。

 濃い大気にぶつかることで、身体には猛烈な減速Gがかかり、私は掴まっているいる残骸に無様に這いつくばる意外の姿勢がとれなくなった。

 無理苦理首を捻り、青さを取り戻し始めた空を見上げた。すぐ傍を軌道エレベーターの柱の白い表面が猛烈な速度で昇っていくのが見える。その言葉が本当ならば、ゼルラ氏は、そこを伝って降りて来るという。

 私は声の限りに叫んだ。「たすけて~っ!」と。

 あと何秒この残骸はもつのだろう。この残骸が燃え尽きた瞬間、私もまた燃え尽きるのだ。それはどう考えても残り十数秒も残されていないだろう。

 今度こそもう駄目かも……そう諦めかけたその時、軌道エレベーターの柱の表面を、猛烈なスピードで降下してくる一筋の炎の塊を見つけた。

 私や燃え盛る残骸と同じように、それもまた空力過熱で前面に半球状の炎のバリアを張っているかのような状態であったが、その炎の塊は、まるで意思があるかのように他の残骸を追い越したかと思うと、私の真横で減速し、エレベーターの柱の上で並走しだした。

 あれがゼルラ氏?

 私はそちらに向け、這いつくばりながらなんとか片手を上げ、懸命に手を振った。

 並走する謎の物体、その前面を覆う炎のバリアの影に、私はその物体の正体を見ることができた。いや、見えただけで、それが何なのかはサッパリ分からないのだけれど……。

 それは一見、自動車……それもレーシングカーやバギーの類に見えた。

 前輪に対して後輪が異常に大きいタイヤが、四隅にむき出しでついている。それでエレベーターの柱に張り付くようにして走行しているようだ。

 四隅にタイヤがあるから何かしらの自動車だと思えたわけなのだけれど、そのタイヤの間の車体はまるで角ばらせた畳んだパイプ椅子だ。分厚くした紙飛行機のような三角形のパーツを中心に、幾つもの角ばったパーツが組み合わさった車体をしている。その自動車のような物に乗って、ゼルラ氏は私に追いついてきたということなのか!?

 ガクンと私が盾にしている残骸が揺れ、また縁の部分が崩壊し、燃え散りながら天空へと昇っていく。もう盾がもたない! 助けてくれるなら早く!

 今まさに盾が完全に崩壊するというその時、私の願いに答えるかのように、その自動車モドキは、僅かに加速し、一端私を追い越したかと思うと、その車体を沈みこませ、それを戻す反動で柱からジャンプした。

 同時に、今まで私の身を守ってくれていた低軌道ステーションの残骸が、とうとう砕けて散る。猛烈な断熱圧縮の炎が私の身をあぶろうとした瞬間、私は目を疑った。

 間一髪、私の前方にジャンプし、新たな盾となって私を守ってくれた自動車モドキが、眼前で、バシャリと形を変えたのだ……それも…………!!

「ろ…………………………ロ、ロボットォ!?」

 自動車モドキの前輪と後輪だったものが前後で閉じ合わさって脚部になり、その間のボディが変形、巨大な紙飛行機状パーツが頭部、その他が展開して上半身と椀部になっていた。

 私は、地球……というより地上、紺碧の海を背に、両手を広げた巨大な人型のロボットの腕の中へ飛び込んで行った。

 そして私の身体はその突然現れたロボットの椀部によって、巨大な胸の中に抱きとめられることとなった。

 ロボットというのは、厳密は自律的に動く機械のことを呼ぶらしいが、そんなことはどうでもいい。私はその時、確かに巨大な可変人型のロボットによって守られたのだ。

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