最終話 もう一度キスを

 カレンダーも空も、そろそろ夏休みだと告げていた。

 教室の隅には今朝から一学期末考査の日程表が張り出され、その前で生徒が何人かメモを取っている。

 机に伏せた悠人は放課後にメモしようと心に決め、天板に額を押し付けるようにして首を捻り窓へと視線をやる。

 開け放たれた窓からは暴力的な日差しと相反する涼しい風が穏やかに吹き込んでいた。

 えもいわれぬ夏の香りが悠人の鼻腔をくすぐる。

 普段なら試験の後に控える夏休みに心を躍らせるのだろうが、今は違った。

 リートの最期が脳裏から離れなかった。そして、無力感と自己嫌悪が悠人に『楽しい夏休み』を楽しませまいと強力に阻んだ。

 彼女に何もしてやれなかった。できたことといえば抱きしめる事だけだ。

 あの後すぐに来た自衛隊のヘリコプターに積み込まれる時でさえ、自分は何も出来ずただ見送ってしまった。

 今にして思えば、他に出来る事があった気がする。

 戦うことだって出来たのではないか。あの時、自分にしか出来なかった事がもっと他にあったのではないか。

 後悔。

 その言葉が本当に意味するものを、悠人は身を持って知った。

「悠人、まだ引きずってるのか?」

 智彦が声をかけてくる。一時は半ば八つ当たりのように彼を恨んだりもしたが、それが本当に八つ当たりだと気付いてからはそれもやめた。

「いや、もう吹っ切った」

 悠人はようやく身を起こす。汗ばんだワイシャツを持ち上げて胸の中に新鮮な風を送り込む。

「……なら、良いんだがな」

 悠人の顔を覗き込んでから溜息を吐くように言った。

「そうだ、面白い話をしてやる」

「何?」

「大戦中の話だ」

 彼はそう前置きして話しだす。

「アフリカで、ドイツ軍にイタリア軍から水が足りないから分けてくれ、という話が来た。同盟軍が困っているんじゃ仕方ない、とドイツ軍が水を持ってイタリア軍のいる陣地へ行ってみると……」

「イタリア軍は砂漠の真ん中でがんがんお湯を沸かしてパスタを茹でてた。だろ?」

 悠人が先回りすると、智彦は気まずそうに笑みを浮かべる。

 今回の件で、彼は彼なりに責任を感じているらしい。

 悠人にしてみれば、智彦が負い目を感じるところなどこれっぽっちもないし、自分は普段どおりに振舞っているつもりだった。

「変に気を使わないでくれ」

 智彦の気持ちもわからないでもないが、少しだけ鬱陶しく感じられた。

 そのせいか言葉尻がどうしても刺々しくなってしまう。

 他人の優しさや気遣いを素直に受けられない狭量さが、また腹立たしかった。

 智彦が溜息を吐く。

「まぁ、時間はかかるだろうな」

 他人事のような言葉に、また腹の虫が騒いだ。

「そんなに睨むなよ。俺だって斜にでも構えてなきゃやってられない。この件はみんなやるせない思いで一杯なんだ。後悔してるのは、お前だけじゃない」

 言われてみれば当然の事だった。

 悠人は居た堪れなくなって視線をそらす。

「一番間近にいたのはお前だからな。辛いのはわかる」

「でも、俺は何もできなかったんだぞ? 彼女のすぐそばにいたのに」

 自然と手に力が入り、爪が掌に食い込む。

「みんな何も出来なかったよ。お前も俺も、光や陽子姉さんも……彼女も」

 智彦は悠人の肩にそっと手を置く。

 二人とも意識的にリートという名前を避けているようだった。

「……なぁ、智彦」

 悠人は視線を上げる。智彦はそれを真正面から受け止める。

「何だ」

「彼女は幸せだったのか? 俺たちと過ごしたあの二週間は彼女にとって幸せだったのか?」

「少なくとも、お前といる事は幸せだったんだろう。でなけりゃ、死ぬまで戦ったりしない」

 智彦は言って、手近にあった椅子を引いて悠人の正面に腰を下ろす。

「俺は、彼女に何かしてやれたのか? 彼女が幸せだと感じる何かを、俺はちゃんとしてやれたんだろうか……」

「さぁな、そればっかりはわからん。お前に自覚がないとすりゃ、それこそ彼女にしかわからない」

 明るい教室の雰囲気とは対照的な、重苦しい沈黙が降り積もる。

 底抜けに明るく、清々しい夏の青空すら恨めしく思えた。

 智彦が視線を反らし、教室の入り口を見やった。

 騒がしかった教室が不意に静まる。それぞれの会話を打ち切らせてしまう何かが起きた。

 教室ではそういうことがたまにある。

 悠人は別段気にとめず窓の外を見ていた。

 沈黙はやがて小波のようなざわめきとなる。

「悠人、ちょっと……」

 今まで別の友達と話しこんでいた光が悠人の視界を遮るようにして呼びかける。

「何だよ」

「いいから、そっち」

 控えているつもりでほとんど控えられていない声で囁き、廊下を指差す。

 視線を上げると智彦は教室の入り口を凝視したままぴくりともしていない。

 彼の表情にはただ一言、信じられない。という言葉が張り付いていた。

 ようやく悠人は教室中の視線が自分を向いてることに気付く。

 悠人はようやく教室の入り口へと視線を向ける。

 そこに、彼女がいた。

 腰まである長いブロンドの髪。

 寒気すら感じる人形めいた造詣の顔。

 不敵に輝く蒼い瞳。

 白磁を思わせる白い肌。しかし、右腕だけは包帯が幾重にも巻かれていた。

誰もが息を呑む美少女が、白い夏物のセーラー服を着て教室の入り口に立っていた。

「……まさか」

 そう呟く声を待っていたように少女は教室に脚を踏み入れ、上履きの鈍い足音を教室に響かせながら悠人に近づく。

「久しぶりだな。三ヶ月ぶりか」

 どこか押し殺したような低い声。懐かしい声。

「せっかくの再会だというのにあまり嬉しくなさそうだな――」

 驚きのあまりに悠人はぽかんと口をあけたまま蒼い瞳を見つめていた。

 少女はそんな悠人の反応を明らかに楽しんでいた。

「――それとも、私のことなど忘れてしまったか?」

 悠人はぶんぶんと首を振る。

 率直な言葉も、口元に浮かべた不敵な笑みも。三ヶ月前と全く変わっていなかった。

 悠人を締め付けてきた後悔が、猛烈な勢いで溶けていく。

 喜び等という言葉では言い表せないこの感情を上手く言葉に出来なかった。

「リート……」

 やっと、口を出たのは彼女の名だった。

「どうして、ここに」

 次の言葉は疑問。

 リートは欧米人らしい仕草で肩をすくめる。

「契約の不履行だ」

 リートがヘリで運ばれた後、彼女と約束を交わしたと言った防衛省の男のことを思い出した。

「ユートを頼むと言ったのに、自分でやれと言われてここへ来る事になった。わざわざここで生活するのに必要なものを全て揃えてまでな……食えない男だ」

 吐き捨てるように言ったが、その声に全く嫌悪感はなかった。それどころか、悠人は彼女の声音にはっきりと自分と同じ喜びの色を感じ取った。

「勿論、私も向こうの条件を飲む必要があったが、それも大したことではない」

「それじゃ、つまり……」

「そうだ、一緒にいられる」

 一瞬手放しで喜びかけるが悠人は表情を曇らせ、視線を伏せる。

 彼女の右脚に、うっすらと傷跡が見えた。

「でも、俺はリートに何もしてやれない」

「私だってユートには何もしてやれない」

 一言一句聞き逃すまいといまや教室中が聞き耳を立てている。もしかすると廊下にもそんな耳があるかもしれない。

「だからユート。これから一緒に、互いに何をしてやれるのか、考えていかないか?」

 悠人は視線を上げる。

 凛とした顔にいたずらっぽい笑みが宿っていた。

「これから考える時間はたっぷりある。二人でゆっくり考えよう」

 悠人は彼女の手を取る。滑らかでしなやかな指を自分のそれと絡ませる。二度と離れないようにしっかりと。

 その温もりだけでリートは悠人の答えを理解した。

「リート」

 悠人は手を重ねたまま立ち上がる。リートは何かを期待するように彼の黒い瞳を見つめている。

「お帰り」

 そう言って悠人はわずかに身を屈め、

「ただいま」

 そう言ってリートは踵を持ち上げる。

 二人はどちらからともなく、静かに抱き合う。そして、飛び切り甘い声でリートが囁く。

クスビッテキスして

 二人はお互いのために、唇を重ねた。

 男子生徒のやっかみ、女子生徒の黄色い声。それらが一つになって教室中がどよめいた。

 カレンダーも空も、そろそろ夏休みだと告げていた。

 

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パンツァリート! 柏崎ちぇる信 @tschernobyl

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