7話 ハートオブアイアン -3
きつく目を閉じていたおかげで、瞼が痛んだ。
自分の吐息だけがやけに大きく響いて聞こえ、頭が妙に重かった。
息苦しい。
緊張の所為で呼吸を忘れていた頭脳が酸素を求めていた。
ようやく呼吸する事を思い出し、口の中に詰まった木端を吐き出して肺を空気で満たそうとする。しかし、多分に粉塵の舞ったそれを吸い込むことを喉が拒絶し、激しく咳き込んだ。
咳が収まるのを待って、悠人は埃をなるべく吸い込まないように浅く呼吸しながら瞼をこじ開け、身体を起こす。
彼の身体を庇うように廻された腕が衣擦れの音と共に滑り、トタンの上に落ちて耳障りな音を立てた。
何かを堪えるように唇を引き結び、きつく瞼を閉じたリートがそこにいた。
その姿はベッドでの姿と重なって見えたが、視線を動かすのと同時にそんな甘い感情は消し飛んだ。
右の袖がなく、腕は酷い火傷で赤黒く腫れ上がり水脹れが出来ていた。
灰緑色だった軍服も血で黒く汚れ、美しかった金髪も縺れ合い、埃と焼け焦げでくすんで見えた。
「リート!」
慌てて揺するが、彼女は反応しなかった。
自分を庇った所為だと直感的に悟った。
全身から力が抜けるという感覚を初めて感じるのと共に、取り返しのつかない事という言葉が具体的にどんな状態をさすのかも理解した。
「リート……大丈夫か? リート、リート」
祈るように名を呼びながら彼女の小さな身体を抱き起こす。
「ふ……」
リートの口からかすかな吐息が漏れる。
まだ息がある。
絶望一色だった悠人の心が一挙に晴れ渡る。だが、両手は相変わらず力なく垂れ下がっていた。それが、一度は晴れた悠人の心を再び曇天に戻す。
どうすれば良いのかわからなかった。
ブラックホークが頭上を旋回しながら高度を下げ始める。あたりに散った残骸が強烈なダウンウォッシュで次々吹き飛ばされ、すぐ脇にあったひしゃげたトタン板が音を立てて飛んで行った。悠人の顔にも砂飛礫が容赦なく吹き付ける。
悠人はリートの体を抱きながら、無遠慮にサーチライトを向けるブラックホークを見つめる事しか出来ないでいた。
ブラックホークは滑らかに着地し、ついさっき悠人が投げ出されたサイドドアから一人の男が姿を現す。
リートとよく似た軍服を纏った、金髪碧眼の男。悠人を投げ落とした張本人だった。
「身を挺して庇ったか、理解できんな」
男は感心したような呆れた声で言い、悠人の前に立った。
この男は一片の躊躇もなく自分を殺そうとした相手だ。
そう思うと自然と足がすくみ、リートを抱きかかえた手を離してしまいそうだった。
「劣等人種、その手をどけろ。我らのブリュンヒルデが汚れる」
漆黒の軍服はこの男が非情である事を雄弁に物語っていた。
抵抗すればどんな目に会うかわからない。
しかし、悠人は男の腰にホルスターがあるのを。そして、その中に拳銃が納まっていることを知っていた。
抵抗すれば、恐らく拳銃が何かの役割を果たすはずだ。
冷静に考えれば考えるほど自分に抵抗の余地はないように思える。
このまま手を離し、どこへなりとも逃げるのが一番利巧な判断じゃないのか。
悠人の頭脳が全会一致で逃げる事を選択しかけた時。リートがわが身を省みずに庇ってくれたことを思い出す。
満身創痍などという言葉では足りないほど傷付きながら、自分を助けようと最後の瞬間まで戦い続けたリートを放り出して逃げても良いのか。
そんな問いが胸から湧きおこり、可決されかけていた案件が棄却される。
戦う方法などわからない。だが、ここでリートを置いて逃げる事だけは違う。
あの男の前に立ちはだかってリートを守ろう。
奥歯を噛み締め、立ち上がろうとする。しかし、身体が言う事を聞かなかった。
上空で自分を突き落とした時の冷酷な目を、悠人はまだ忘れられずにいたからだ。
いくら心を奮い立たせても、身体は本能的な恐怖を感じ取り、その場から決して動こうとしない。
次こそは殺される。
否応無しに突きつけられる最悪の予想に手が震えた。
「さっさとしろ。わざわざ貴様らの言葉で言ってやってるのがわからんのか?」
男は言って拳銃を抜く。
昔のアニメで見たことのある銃だった。
今度こそ立ち上がろうとするが、やはり膝は動かず。ただ、リートの身体を抱きしめる事しか出来なかった。
「自分の物、とでも言いたいのか? 劣等人種は身の程というものを知らんようだな。尤も、その感情を全く理解できないというわけでもないが……」
呆れたといわんばかりの口調だった。口元には笑みすら浮かべていたが、それは愉快な時に浮かべる類の笑みではなかった。
「…………」
緊張のあまり心臓が不規則に跳ね回っていた、全身の血が引いて震えそうなほど寒いのに全身から汗が止まらなかった。
どうやって戦えばいい。何をすればリートを守れるのか。
そればかりに思考を傾けていた。
何度考えても逃げる以外の方法が見つからない。しかし、身体は動かない。
この恐怖をリートも感じたのだろうか。自分を救うために彼女もこの恐怖に耐えたのだろうか。
そう思うと彼女が一層愛しく思えた。そして、必死で戦った彼女に報いたいと強く願った。
不意に視界の隅に何かが見えた。取っ手の付いた長い棒。
武器。
悠人は相手に気付かれぬようにゆっくりとその棒へ手を伸ばす。拳銃の相手になるとは到底思えない。だが、少しでも相手への威嚇になるかもしれない。
気付かれない事を祈りながらゆっくりとてを伸ばす。
「……何をしている。そんなものへ手を伸ばしてどうするつもりだ?」
男の声が聞こえ、拳銃の撃鉄が起きる音も聞こえた。
くぐもったその音は死刑宣告と同義だった。
「時間切れだ」
銃口がしっかりと自分のほうを向くのを認識した。悠人は目をつぶる事すら忘れて弾丸の飛び出す穴を凝視した。
至近距離で撃たれた場合、撃たれたと認識するよりも早く死んでしまうと智彦が言っていたのを思い出した。
果たして本当なのか。
そんな馬鹿げた夢想に浸った刹那。視界が閉ざされた。それから鉄板で殴られたような強い痛みを覚えた。
掴んだシャベルの切っ先がわずかに抉れていた。しかし、弾着の衝撃までは殺しきれず悠人の額を思い切り叩いた形になってしまったが、弾丸が突き刺さるよりは軽傷のはずだ。
何はともあれ弾丸をはじく事に成功した事に深く息を吐く。その瞬間、肺が破裂した。
そう誤解してもおかしくないほどの、未体験の痛みだった。
「う、あ、あぁ……」
悲鳴を出す事すらままならない痛み、肺を握りつぶされているようで呼吸すらろくに出来ない。思わず胸を掻き毟るが、それがまた痛みを呼び起こす。
軍服を掴んだまま硬直している手を引き剥がし震える掌に視線を落とすが出血はない。
外傷ではないらしい。そう結論付けるのと同時に気を失う直前に聞いたごりん、という嫌な音のことを思い出した。
程度はわからないが肋骨を痛めたらしい。
「う、ぐ……」
唸り、浅く呼吸する。三度繰り返したところで呼吸するのが嫌になったが、しないわけにもいかない。
リートは手にしたシャベルを地面に突き立て、身体を起こす。
今まで感じていた痛みが今では懐かしかった。
「今日は驚く事ばかりだ。リート、何故そうまでして劣等人種に肩入れする?」
「他人を貶め、自ら難敵に立ち向かう事のない貴様にはわからないだろうな。ところで――」
一息にここまで言って、再び浅く息を吸う。
「――未来の指導者の機嫌を損ねるようなことを言って良いのか?」
男は想像通りといわんばかりに声を上げて笑う。
「はははっ、ウィリアムズにそう吹き込まれたのか? その認識は間違っているぞ。お前は指導者ではない。お前はただ我々の御旗になるだけだ」
言葉を切り、侮蔑の笑みをあからさまに浮かべて続ける。
「人間ですらないお前に我々が傅くと、まさか本気で考えていた訳ではないだろう?」
リートはきつく奥歯を噛み締める。痛みばかりが原因というわけでもなかった。
「ますます〝党〟への義理はなくなったな。私は少なくとも自分を買い叩こうとする相手の下へ行こうとは思わない」
「なるほど、お前を高く買ってくれそうなのがそこの少年というわけか……」
男は再び拳銃を悠人に向ける。リートは即座というには緩慢な動作で立ちはだかる。
「私は、彼を守る。そう決めた。撃つなら相応の覚悟をしろ」
彼女の背後では悠人が起き上がり、自分が生きていることが信じられないという表情をうかべていた。
シャベルの当たった部分が切れたのか、額から鼻筋にかけて赤い筋が伝っている。そして、一応状況を飲み込んだのか、弱々しい声を上げる。
「リート、もういい。もういいんだ……」
だが、リートはやめるどころかシャベルのハンドルと軸を握り締め、最期の突撃に備え始める。
「ユート、いくつか聞きたい」
ほとんど呼吸できないせいで、喉から漏れた声は掠れきっていた。
「ユートは私のどんな姿を見ても愛してくれるか?」
青ざめた悠人の顔に今までとは別種の緊張が走る。
これから何が起ころうとしているのか、わかってしまった。そして、自分にそれを止める手段はなく、彼女と共に戦う力がないということも。
現に、この場にへたり込んだまま立てないでいることが何よりの証拠だ。
「答えてくれ……」
「愛す。俺はリートを愛してる。どんな姿になってもそれは変わらない」
彼女はまさに彼のためにここまで戦ったのだ。悠人に嫌といえる筈が無かった。
ほとんど狂気と言っても良い愛情は戦う者に無限の力を与え、時にイデオロギーはもちろんテクノロジーすらも凌駕する。
「終わったら、抱きしめてくれ。私が、どんな状態でも」
それはほとんど恫喝だった。だとしても悠人は答えるつもりでいた。
陽子の言った言葉の意味を、今ようやく理解した。
悠人はリートの戦う意味になる事を決めた。
「わかった。だから……二人で生きよう。二人で帰ろう」
この状況でそれが叶うかどうか悠人はもちろんリートにもわからなかった。
全身の痛みを知っている分、リートはその可能性を低く見積もってすらいた。だが、応じずにはいられなかった。
それは、彼女の願いでもあったからだ。
「わかった。二人で帰ろう」
「美しい愛情だ。すばらしい。しかし――」
男はまるで感情の篭っていない声で告げる。
「目障りだ」
語尾が銃声に重なる。
悠人が息を呑む。
リートは踏み込み、シャベルを振り上げて弾丸を弾く。しかし、彼女はそのままねじ切れそうなほど頭を振ってよろめく。
安堵、後悔、相反するものが混じって男の表情が初めて歪む。
リートの身体が大きく仰け反り、そのまま倒れるかと思われた瞬間、たたらを踏んで持ちこたえる。そして、蒼い目をこれでもかと見開いて男をぎろりとねめつけた。
鉄兜の中から血が音も無く流れ出し、煤けた肌と縺れた金髪を赤黒く染める。
鉄兜の側面に弾丸が通り抜けた引き裂いたような孔が開いていた。
「ちっ」
男は表情を別に意味で歪ませ、舌打ちして距離を取りはじめる。
白兵距離を保て!
本能が吼える。
頸ごと頭脳を揺さぶられたおかげで視界がはっきりとしなかったが、とにかくその声に従う。
男が振り向きざまに発砲する。しかし、リートには既に避けるという発想は無かった。
進め。打ち倒せ。
その二つだけが彼女を支配していた。
リートは大きくシャベルを振りかぶり、打ち下ろす。
鈍い金属音がして、男が突っ伏すように倒れこむ。そのまま仰向けに転がりリートの胸に銃口を突きつける。
「大人しく従えば良いものを!」
男は癇癪を起したように叫び、引き金を引く。それよりも早く、リートのシャベルが轟音を立てて振りぬかれた。
拳銃を握り締めた右腕が傍らに落ちた。
痛みよりも恐怖が勝ったのか、それとも状況を理解できないのか、ぽかんとした表情で血を吹く腕を見つめていた。
「あ、あぁ……腕を……」
拾わなければ、と言おうとしたのだろうが口が動くだけで言葉にはならなかった。
リートは狙い済ましてシャベルの切っ先を男の胸に突き刺す。
返り血を物ともせず硬い地面を解すように何度も何度もシャベルを突き立てる。
「あがっ、ギャッ、ガッ、カッ、あ……」
悲鳴が次第に小さくなり、シャベルも泥をこねる様な音に変わっていく。
悠人を傷つけようとした罪はそれほどまでに重かった。
飯事だとしても確かに幸せだと感じた日常を破壊した罪はそれほどまでに重かった。
肩で息をしたリートは肉片と血溜りの中でようやく手を止める。
まだ終わっていない。
ここから先は野村との約束だ。
自分がどうなるか、などということは半ばどうでもよくなっていた。
ただ、野村との約束を果たす事で野村が約束を守ってくれる事を信じるだけだった。
ブラックホークがにわかにローターの回転を上げる。
ヘルメットとコックピットのガラスに阻まれてはいたが、慌てて逃げ出そうとしているのは明らかだった。
リートは駆け出す。
間に合わないと直感的に悟った。
ならどうする?
撃墜する。
火器は無い。しかし、武器ならある。
自問自答の間にブラックホークのローター音は最高潮に達し、ランディングギアが伸び、機体が地面から離れる。
これ以上の運動を拒絶しようとする肉体を無視し、全身のばねを使って右手に掲げたシャベルを振りかぶり、ちょうど柄つき手榴弾を投げるように手首を返しながらリリースする。
ついに右脚がめげ、リートは受身も取れずに崩れ落ちる。だが、視線はブラックホークからひと時も離さなかった。
トップヘビーのシャベルがいびつな回転を描き、離脱しようとホバリング旋回しているブラックホークへ迫る。
シャベルは急所ともいえるテールローターを打砕く。
細いテールローターがばらばらに弾け飛び、ブラックホークは一瞬で安定を失い、横転するようにして墜ちる。
地面に叩きつけられたメインローターは根元から折れ飛び、完全に揚力を失った機体は側面から無様に墜落し、地響きと熱風を撒き散らしながら爆発する。
中にはかなり燃料が残っていたらしく、グロテスクな火柱が高く立ち上り、空を焦がした。
終わった。
少なくとも約束は果たした。
リートは身体を起こそうと腕を付く。しかし、身体がぴくりとも動かなかった。
力を込めたはずの右腕は真っ赤に腫れ上がって、水疱からは血とも体液ともつかない物が染み出していた。
右脚の包帯は初めから深紅だったかのように染まり、磨き上げておいたブーツには傷が無数に走り、向う脛と脹脛に貫通した九ミリの穴が開いていた。
その穴からは止め処なく、音もなく血が溢れ、グラウンドが黙々と飲み込んでいた。
何故身体が動かないのか納得できた。
目に血が入ったのか、視界が赤くなり始める。
足が痛かった。
腕が痛かった。
目が痛かった。
頭が痛かった。
胸が痛かった。
もう、呻く体力すら残っていなかった。
火照っていた体が急に冷え、少し気持ちよかった。このまま眠ってしまいそうなほど。
少しだけ眠ってしまおう。もう危険は何もない。
リートが目を閉じようとした時、不意に熱を感じた。
優しい暖かさだった。こんなに暖かいものを彼女は一つしか知らなかった。
「ユート……無事だな」
かなり掠れた声だったが多分聞こえてるだろうと思った。
悠人が何か言ったが、よく聞き取ることが出来なかった。
それでも悠人の深刻な表情は見えた。リートはなけなしの力で笑みを浮かべて首を振る。
「心配しなくて良い。もう、終わった」
やはり聞こえていないのか、悠人が耳を唇に近づける。
リートは少しからかってやる事にした。
飛び切り甘く、嘘偽りの全くない声で告げた。
「
悠人の唇はやはり暖かかった。
身体が暖かい泥の中に沈んでいくようだった。深く沈んだ部分から溶けて消えていく。
悠人の腕に抱かれていると思うと心が落ち着いた。
わがままを言えばもう少しだけ今にも泣きだしそうな悠人の顔を眺めていたかった。だが、それは叶いそうもない。もう、どうしようもなくくたびれた。
ゆっくりと視界が闇に閉ざされ、全ての感覚が途切れた。
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