ドール・メイカー

ガジュマル

第1話


 花曇りのぼんやりとした日差しをうけながら、私は公園のベンチに腰掛けていた。

 日曜の昼下がり、人影はまばらだった。

 目の前には追いかけっこをしながら歓声をあげる子供たちや、散歩をしている老夫婦の姿がみえる。

 花壇には小さな花々が咲きみだれ、公園のまわりには葉桜が一列にならんでいた。

 時おり、わずかに残った桜の花びらが吹きわたる風にあおられ、ゆらゆらと空中に舞っている。

 私はゆっくりとした動作でポケットから煙草をとりだして口にくわえた。

 左手でジッポを覆って煙草に火をつけた。

 ジッポオイルの微かな匂いを感じながら、上へ向かって煙をふきだす。

 春の空へと、紫煙の流れがとけていく。

「座ってもよろしいですかな」

 ふいに声をかけられ、首をめぐらせてみると一人の老人が立っていた。

 背の高い老人は、少々太りぎみの体に白のシャツとグリーンのカーディガン、下にはジーンズというずいぶん若々しい装いだった。

 歳とはつりあわない格好をしていたが、老人の白髭をたたえた風貌にそれは不思議と似合っている。

 老人の隣には白い大きな帽子をかぶった女性がいた。

 帽子にさえぎられて顔は見えなかったが、まっすぐにのびた黒髪の間から白い小さな顎と薄い唇がのぞいている。

 足に障害を持っているのか、彼女は老人に支えられて立っていた。

「どうぞ」

 ベンチの端の方へと場所を変えて腰を下ろす。

 老人はわずかに頭を下げると、帽子の女性をベンチにそっとかけさせた。彼はほっと息をつくと、ハンカチで額の汗をぬぐいながらベンチに座った。

「いいお天気ですな」

 空を見上げて、老人がぽつりと言った。

「そうですね」

 私は投げやりな返事をしつつ老人の顔を見た。

 老人の顔には細長い無数の皺が刻まれている。

 太く力強い線で形づくられた容貌は皺の一本一本が集まり、老人の顔を親しみやすいものにしていた。

 写真でみたことのある、晩年のアーネスト・ヘミングウェイに似ている。

「散歩ですか」

「まあ、そんなところです」

 老人の返事を聞きながら、私は口にくわえた煙草を深くすいこんだ。

 私は公園へ来る前に会っていた女のことを考えていた。

 数時間前、女の住んでいるマンションの一室で、私と彼女はテーブルをはさんで向かい合って座っていた。

 薄化粧をした女は私にむかって一方的に話している。

 青ざめた女の口からは、私に対する侮蔑の言葉がもれている。

 私は黙りこみ、彼女の際限のない言葉の羅列を聞いていた。

 彼女の神経質そうな青白い顔が次第にひきゆがんでいく。

 全てがうんざりだった。

 そらぞらしい会話や彼女の無意識に媚る仕草、習慣と化したセックス、それにはっきりとしない自分がたまらなく嫌だった。

 外面をとりつくろうとして子供じみたポーズをつけたがっている自分に辟易した。

 そしてなにより、そんな自分を外から冷静に眺めているもう一人の自分を嫌悪した。

 私は全てのものから逃れるようにして彼女の部屋を出てきた。

 煙草の煙を外にむかって吐きだす。

 よどんだ思いが、公園の風景の中に消えていく。

 私は急にするどい痛みを感じて、みぞおちの上あたりをさすった。

 会社での仕事の疲れがでたのだろうか、どうにも体の調子が悪いようだ。針で突き刺されるかのように、胃がキリキリと痛む。

「大丈夫ですか。ずいぶん顔色が悪いようだが……」

 隣の老人が私の顔をのぞきこんで言った。

 どこか遠い場所から聞こえてくる声のようだ。

 大気を撫で、桜の花びらが螺旋を描いて降ってくる。

 暗闇にそまっていく視界の隅に、老人の隣にいた女性の顔がみえた。

 大きな黒い瞳が私をみている。

 彼女の唇に微かな笑みがうかぶのを見とどけ、私は漆黒の闇へとすべり落ちていった。



 薄暗い部屋のなかで目が覚めた。

 ベットの上で上半身を起こす。

 家具はほとんどなく、シンプルな内装の部屋だった。

 どうやら自分の住んでいる、汚い社宅のマンションではないようだ。

 病院という感じじゃないな。

 そう考えていると、右奥の方にあるドアが開いた。

 出てきたのは先ほどの老人だった。

 彼は大きめのゆったりとしたグレーのセーターに着替えていた。

「起きたようですな」

「ここはどこなんですか。私はいったい?」

「突然あなたが倒れましてね。知りあいに腕のいい医者がいたんで、車に乗ってそいつの家へ行ったんですよ。まぁ、命には別状ないということでした」

「そうですか。どうもご迷惑をかけてすみませんでした」

 老人はベットのそばに立ちながら静かな口調で喋っている。

「過労によるものではないかと奴は言ってました。とにかく今は、うまいものを食べて力をつけることですな」

「はぁ」

 窓の方へ目をむけると、外はすでに暗くなっていた。

 夜空にはレモンの形をした月がぼんやりと浮かんでる。

「どうです。これも何かのご縁ですし、一緒に食事でもいかがですか」

「いえ。これ以上は」

「なに、娘との二人暮らしですから気遣いは無用です」

 老人はそう言って笑った。見た人間を安心させてしまう不思議な笑みだ。

 結局、私は老人におしきられて夕食の招待を受けることにした。


 通された場所はごく普通のキッチンだった。

 中は広々としていて清潔だった。モデルルームのいやみな潔癖さではなく、長年住むうちに培われてきた清潔感が伝わってくる。

 テーブルには三つ座席があり、一つの椅子には女性がかけていた。公園で老人の隣

にいた女性だ。

「まぁ、気楽にかけてください」

 老人に席をすすめられ、私は椅子にこしかけた。私の目の前に女性がいて、右手の方に老人が座る形になった。

 彼女はふせ目がちに首を傾げており、長い黒髪は肩からこぼれて胸の方へとながれている。

 彼女は目を閉じ、深い眠りの中にでも沈みこんでいる様子だった。

「鱒なんですが、魚でかまいませんかな」

「ええ、大好きです」

「そうですか。それじゃあいただきましょう」

 老人は私のグラスにビールをつぐと、彼女と自分のグラスにもなみなみとついだ。

 老人がすぐに食べ始めたので、私もビールを一口飲んだ。胃のことが気にかかったが、冷えたビールは心地好く体にひろがった。


 何気ない会話が進む中、私は彼女のことが気になった。

 数十分経つというのに、目の前にいる彼女はグラスをとるでもなく両手を膝にそろえたまま座っている。

 まるで彼女のまわりの空気が固形化して、その場に閉じこめられてしまったような雰囲気だ。

 何か病気を患っているのだろうか?

 彼女の白い肌を見ているうちに、ふとそんな考えが頭をかすめた。

 さらに時間が経ち、だんだんとアルコールがまわっていくにしたがって、老人との会話は気安いものになっていった。

 老人は故郷のことや彼の唯一の趣味である釣りのことを語り、私は仕事上の話や今までに旅行した外国での出来事を語った。

 ボールにあった大量のサラダがなくなりだしたころ、老人はスコッチを戸棚からとりだしてきた。

「ストレートでやりますか。それともロックの方が好みですかな」

 老人が手に取ったショットグラスを向けて訊ねる。

「いいえ、私はこれで」

 私は目の前にある冷えたトマトジュースを持ち上げてこたえた。

 老人は小さなため息をついて、ショットグラスを一つだけ手にとって椅子にすわった。

 老人は左手の人差指をボトルの口にそえると、ゆっくりとした動作でグラスに暗い琥珀色をした液体をそそぐ。

「彼女が娘さんなんですか」

 私の質問に、スコッチの瓶を置きながら老人は静かに笑った。

「ええ、娘のミナです」

「さっきから気になっていたんですが、彼女は眠っているのでは?」

「いいえ、眠っているわけではありません。彼女は私たちの会話に耳をかたむけていますよ」

「何故座ったままなんですか」

「あなたはどう思います?」

 手の中のスコッチに視線を向けたまま、老人はかるく挑むような調子で私に問い返した。

 ショットグラスを手に持ち、しばらくのあいだ香りを楽しんだあと、老人は酒をグラスの半分ほどまで飲みほした。

 ミナとよばれた女性を見つめながら私は考えた。

 彼女は最初にみた時と寸分もかわらずに座っている。

 年齢は二十歳前後だろうか。

 くせがない長くのびた黒髪、白い肌、細くひかれた眉、薄い唇、華奢な体。

 何かがひっかかっていた。

 彼女はその答えを私に教えているはずなのに、答えは私の手の中をあざ笑いながらすりぬけていく。

 わずかに気分が苛立つ。

 ふと、昔よく聞いていた曲のフレーズを耳にして、誰の歌だったのかどうしても思い出せない時のようなはがゆさだ。

「彼女は人間じゃないんですよ」

 老人が言った。

 私がなんと返答していいか迷っていると、老人は楽しそうに笑った。たぶん、私が口を半開きにして間抜けな顔をしていたせいだろう。

「まだ話していませんでしたが、私は人形作りを仕事にしてましてね。彼女は私の作品なんですよ」

 老人は話かけながら椅子から立ち上がり、彼女の後へとまわった。

 そして左手を彼女の顎のにさし入れると、ゆっくりとした動作で持ち上げはじめた。

 うつむいた彼女の顔があがってくるにしたがって、長いまつげをたたえた目蓋がひらいていく。

 彼女の濡れた黒い瞳が私にむけられる。

 彼女の黒い瞳……その底のみえない深い湖をのぞきこむと、瞳の奥底にある漆黒の闇が私をみかえしていた。

 彼女は人間ではなかった。

 外観は確かに人の姿をしていたが、その両眼にはめこまれた瞳が人間のそれでないことを物語っている。

「人形ですか」

 私の言葉に老人はかるくうなずいて答えた。

「私の大切な人形であり、そして私の愛するただ一人の娘です」

 老人は笑っていたが、言葉の中にはゆるぎない愛情がこもっていた。

 もしも老人ではなく別の人間がそう語ったとしたら、私は彼のことをたんなる偏執狂だと思ったかもしれない。

 また、人形が彼女でなく、ごく一般的な人形だったら同じように考えたことだろう。

 しかし老人の語る言葉が彼女にむけられたとき、私はすんなりとその言葉をうけとめることができた。


「それでは私のコレクションでもお見せしましょうか」

「はぁ」

 彼女のことをもっと知りたかったが、私は老人に招かれてキッチンをあとにした。

 通された所は一階の奥にある部屋だった。

 老人は重厚な木製の扉をあけると、どうぞと言ってやわらかな間接照明でつつまれた部屋に私を通した。

 空調がきいているのか、室内はひんやりとした空気で満たされている。

 私はしばらくの間、部屋の中で呆然と立ちつくしていた。部屋にならべられた人形のあまりの数の多さにである。室内には、小さな博物館と言っても大げさではないほどの数の人形が展示されていたのだ。

 掌にのせることができるぐらいの大きさから人間大のものまで、いろんな国のさまざま形をした人形が室内に所せましと置かれている。

 老人はお気に入りの人形の前にくるとそのつど立ち止まり、その人形の歴史や、手に入れた時のいきさつを話してくれた。

 老人の口からは、人形ひとつひとつに対する想いがゆっくりとした口調で語られている。

 それがコレクター特有の自慢話でなかったせいか、私はさほど興味のなかった人形の話を熱心に聞きいった。

「そしてこのコレクションの中で、もっとも気に入っている人形が彼女です」

 老人が一つの人形の肩を抱いた。

 見ると、赤を基調にしたドレスをまとった一体のアンティックドールが凝った造りの椅子に腰掛けていた。

 ゆるやかにウェーブのかかったブロンドにつつまれ、ほっそりとした少女の顔がみえている。

 その人形は、キッチンに残してきた老人の作ったという人形のミナとは別の意味で美しかった。

 愛らしい小さな口元には、不思議なアルカイック・スマイルが浮かんでいる。

 暗い青をたたえた瞳はどこか哀しげだった。

「ロングフェイスのジュモーと呼ばれている人形です。今から百年以上も昔の人形なんですよ」

 老人の、酔いで少しだけ鼻にかかった声がした。

「哀しそうな眼をしてますね」

「ええ、それでこの人形にはトリステ…哀しみという別名がついてましてね」

 老人は節くれだった手で人形の頭をなでながら言った。肩にかかっているくすんだ色をした金髪が、老人の手の動きにあわせて揺れる。

「若いころから人形作りの道に入られたんですか」

 私は人形から視線をふりきるようにして老人に質問した。

「この子に出会って、私は人形作りに入ったんです。それまでは貿易関係の小さな会社を経営していたんですが、ある日、仕事のつながりで小さなパーティーに出席しましてね。そこで人形作りをしているという方に会ったんですよ。以来、親しくなって、彼の家へ遊びにいったんですが……この子とは、その時に出会ったんです」

 急に言葉をきると、老人はアンティックドールを見つめたまま黙りこんだ。

 昔の記憶に入りこんでしまったのか、人形を通して老人はどこか遠い場所をみているようだった。

 柱時計の時間を刻む音だけが耳にとどいている。

 遠い過去の記憶を現在に呼びもどす音だ。

「おや、もうこんな時間になってしまった」

 老人の視線をおって柱時計をみると、既に十一時を数分まわったところだった。

「もう時刻も遅くなってしまったし、どうです。今夜は私の家に泊まっていきませんかな。明日の朝、始発でここを出るようにしては」

 今から近くの駅へ走っても、終電に間に合うのは完全に無理だった。私は覚悟をきめ、老人の家に泊まることにした。


 暗い部屋の中、私はベットの上で起きたまま横になっていた。

 ときおり、どこかの飼犬の遠吠えが聞こえるぐらいで、閑静な住宅街に位置しているこのあたりは静寂に包まれている。

 隣室の友人の声やテレビの音、社宅の前をはしる幹線道路から聞こえる車の騒音を聞きながら寝ている私にとっては、その静けさがかえって睡眠の邪魔していた。

 じっとしていると、耳鳴りがしてくる。まるで頭の中に蜂が数匹とびまわっているみたいだ。

 起き上がってベッドに取り付けられている明りをつけた。シンプルな客室の片隅が、あたたかな光で満たされる。

 私は麻のジャケットにあるポケットから文庫本を取り出した。

 倉橋由美子の怪奇掌編だ。

 本はくり返し読まれているため、隅の部分が所々すりきれて丸くなっていた。

 枕許に置かれてあったバーボンをナイトキャップ用に一口飲みほすと、適当にページをめくり文庫本を読みはじめた。

 数分後、酒が効いてきたのかだんだんと目蓋がさがりはじめ、私は本を胸にかかえたまま浅いねむりについた。

 夢の中で、人形作りの老人が出てきた。

 どうやら夕暮れ時のようで、沈む夕日が大気を紅に染めていた。

 滔々と流れる川を背中に、地べたに腰をおろした老人はミナを両腕に抱いている。

 ミナは老人に一糸まとわぬ姿で抱えられていた。

 夢の中にでてきた彼女には手足がなく、淡いピンク色をした断面がのぞいている。

 優美な線で形作られた手足は老人のまわりに散らばっていた。

 おもむろに節くれだった手でミナの細い左腕をつかむと、老人はミナの肩にとりつけ始めた。

 ミナの体を老人が丁寧に組みあげると、あたりは夕闇につつまれていた。

 やがて、すべてのものに穏やかな闇が訪れ、私は深い眠りにつこうとしていた。

 暗い意識の奥底へと体が埋没してゆく。

 いつしか私は熟睡していた。

 数時間も経ったのだろうか、ある時、私はなぜか眠りから強制的にひき戻された。

 一定の間隔をおいて、私の頬を何者かが叩いているのだ。

 誰かが指先で私をつついているのだろうか?

 寝起きの緩慢とした意識の中で、私はそんなことを考えていた。

 重い目蓋を持ち上げ、薄目をあけてみる。

 ぼんやりと、ピンク色をした物体が霞んでみえた。

 ぼやけた視界が次第に鮮明になっていくと、私の顔のすぐ近くに、二十センチぐらいのピエロが立っているのが分かった。

 ピエロはピンクのストライプの入った派手な帽子と衣装をつけ、首を少し傾けて私の顔をみていた。

 白と赤で化粧されたクラウンの顔の中、縫いつけられた銀色の涙が光っている。

 老人がいたずらで置いたのかと考えたが、すぐにそんなはずはないと自問自答した。

 そんな稚気のある人物とは思えない。

 老人はこの家に住んでいる人間は自分だけだと言っていた。

 そうすると一体誰がやったのだろう?

 思いをめぐらしているうちに考えるのが面倒になり、さっきは何かしら勘違いしたのだろうと結論づけ、私は再び眠りにつこうとした。

 その瞬間、クラウンが頭を逆の方へカタンと傾けた。

 続いてピョンと小さくジャンプしてライトの下へ飛びのる。

 クラウンの右半身が明りに照らしだされる。

 綿のつまった右手をスイッチにかけ、クラウンは布地に縫いつけられているはずの唇をつり上げると、ぎこちない笑みを私に向けた。

 カチッという音がして、室内が暗闇につつまれる。

 私は急激に眠りから覚め、ベットのうえで上半身を起こした。胸の上にあった文庫本がベットの上にすべり落ちる。

 部屋の中に気配らしきものが感じられた。

 何かが闇の中でうごめいているのだ。

 小さく、多数の何者かが。

 壁を叩く音や小さな足音、さらには微かな忍び笑いまで聞こえてくる。

「誰だ」

 声をかけてみたが、答えるものは誰もいなかった。

 かわりに、ベッドの上に複数の何物かが飛び乗りった。

 スプリングが短い間隔ではずんでいる。

 ふいに、月の蒼い光が部屋の中を照らした。

 彼らだった。

 雲間からもれた月光のもと、人形たちが部屋いっぱいにひしめいているのがみてとれた。

 彼らはそれぞれ自分勝手に動きまわっていたが、私が彼らに気づいたのを知ると、視線を私に向けて動きを止めた。

 月光を反射させ、無数の小さな瞳が私をみつめている。

 ふと、手前の人形の群れが動きだし、ベット近くの床の姿がのぞいた。それにあわせて他の人形たちも動きだし、扉までの床板があらわになる。

 人形たちがいっせいに扉へ体を向けると、扉が静かに開いた。

 入ってきたのは、老人が最後に紹介してくれた人形のトリステだった。

 優雅な赤いドレスをなびかせ、彼女は私の方へと氷の上をすべるような足取りで歩いてきた。

 人形が動いているという怪異な現象を目の前にしているのに、不思議と恐れの感情はわきあがってこなかった。

 久しぶりに飲んだアルコールのせいなのか、それともまだ夢の続きを見ているのではという心持のせいか、私はむしろ、この状況を第三者的な興味をもって見守っていた。

 トリステはベッドの近くで歩みを止めた。

 彼女の青い瞳が私をまっすぐに見つめている。

 なめらかな動きで首をめぐらすと、彼女は右腕を軽くあげた。

 すると、後方に控えていた兵士が出てきた。

 大きさが十数センチ程度の小さな人形だ。

 中世風の白い衣装を身につけ、腰には儀礼用の宝剣を帯びている。

 人形は私に対してうやうやしく一礼すると、向き直ってトリステにも頭をさげた。

 そして剣を抜きはなち、人形たちへ向かって小鳥のさえずりに似た掛け声をだした。

 ザッ、ザッ、と規則正しい靴音がきこえてくる。

 整列した軍隊の行進だ。赤と黒の服を身につけた兵隊たちが、足並みをそろえて行進してくる。

 彼らは頭の上に何か巨大なものを乗せていた。

 月の光が、次第にその姿を浮かびあがらせていく。

 ミナだった。

 夢の中に出てきたミナと同じく、彼女は衣服を身につけていなかった。

 隊列はベッドの前で止まった。

 すると、壁際にうずくまっていた巨大なテディベアが軽々とミナを持ち上げた。

 テディベアはベッドの横まで歩いてくると、ミナの体を静かに横たわらせた。

 全裸のミナが私の隣に体を横たえている。

 トリステは安心したようすで私を一瞥すると、くるりと背をむけて扉の方へと歩みはじめた。

 彼女の後をあわてて兵士が追い、その後姿を兵隊たちが追って行進し始めた。

 隊列の後には踊ったり跳ねたりしている人形の行列が続いている。

 最後の人形が出ていくと、扉がゆっくりと動き出した。

 扉の下のあたりで、クラウンが必死になって扉を押している。

 扉が閉まる寸前、クラウンはすばやく体をすべりこませると、私の方へ二・三度右手をふってくれた。

 ガチャッと音をたてて扉が閉まる。

 室内に静寂が戻ってきた。

 しばらくの間、私は惚けた面持ちで扉をみていた。

 私は視線を隣にいるミナにむけた。

 手をさしのべて、彼女の頬にさわった。

 暖かくも冷たくもない、柔らかな感触が掌から伝う。

 彼女は間違いなくそこにいた。

 私は指を動かして、額にかかった前髪をかきわけてやった。

 それにしても本当に人形なのだろうか。彼女の姿を見ていると、そんな疑念が再び頭を持ち上げてくる。

 だが……、と私は思い直す。

 今夜は特別な夜なのだ。

 今夜は、人形たちの動きだす春の夜なのだから。

 私はそっとミナの唇へ口づけした。

 柔らかく、わずかに濡れた唇。

 ゆっくりと唇を離して彼女を見つめる。

 あたりには月の蒼い光が満ちていて、織りなす光と影がミナの体の曲線を描きだしている。

 その張りつめた胸やほっそりとした腰、細長く伸びた手足を私は記憶の中に焼きつけておこうと見つめていた。

 意識の奥底にある、閉ざされた禁忌の扉が開いていく。

 ゆっくりと、確実に、そして少しの逡巡もみせずに。

「起きろ。ミナ」

 顔を近づけ、私はミナの耳元で囁いた。

 私の声に、ミナの目蓋が開く。

 彼女の瞳をみつめながら、私はもう二度と元の場所へは戻れないと頭の片隅で感じた。

 私の体を、彼女の腕がやさしく包みこむ。

 春のおぼろ月夜のもと、私はミナを抱いた。

 夜明けにはまだ遠く、いつしか犬の鳴き声は止んでいた。


 数カ月後、私は現在の職場をなんとか円満に退社することができると、すぐさま人形作りの老人の家へ押しかけて、弟子にしてほしいと嘆願した。

 老人は私の急な申し出に対して、唇にいつもの笑みを浮かべて右手を突き出すと、二つ返事で了承してくれた。

 それからの数年は人形作りの知識を覚えることに終始し、季節はまたたく間に過ぎ去っていった。

 老人との生活は楽しいものだった。

 暇ができた晩には酒を酌み交わし、人形についての話を明け方近くまで語り合い、忙しい時には不眠不休で人形の制作にうちこんだ。

 なんとか世間に認められる才能が見出せはじめた頃、老人は私が身寄りのない孤児ということもあって、私を養子として迎えてくれた。

 老人が死んだのはそれから数日後の事だった。

 私が作品の出品に関する打ち合わせを終わり、今では長年住み慣れた我が家のようになった老人の家へやってくると、老人は庭にだした椅子の上で静かに亡くなっていた。

 庭に咲いている桜が老人の体に花びらを散らし、老人は奇蹟を生みだす指を体の上でくんでいる。

 顔に苦悶の表情はなく、その口元にはおだやかな微笑みをたたえていた。

 老人の葬式は、本人の遺言にしたがってささやかに行なわれた。

 私は喪服をつけたミナとトリステを隣に座らせておいた。老人が愛した彼女たちには、どうしても出席してほしいと思ったからだ。

 挨拶をしながら、人々はミナに好奇の視線を向けていた。

 無事に喪主をつとめあげ、残りの色々な雑務をすませると、あわただしい生活はやがて元の平穏な状態へもどっていった。

 そして老人の一周忌が近づいてきた春の夜。

 私がベットの上でまどろみ始めたころにミナがやってきた。

 彼女は黒のショーツとレースの刺繍の入ったキャミソールをつけていた。

 薄いキャミソールを透して、形よくはりつめた乳房がのぞいている。

 ミナは私の上にかがみこむと唇を軽く重ねた。

「どうしたんだ」

 ミナに訊ねると、彼女が細い両手で私の腕を引いた。どうやらどこかへ連れていこうとしているようだ。

 私は立ち上がると、夜着のままミナにひかれて部屋を出た。

 部屋をでると、春とはいえ冷たい空気が体を震わせる。

 廊下を通り、一階の人形を集めた部屋にやってきた。

「ここに入るのか?」

 ミナが肯く。

 私はこんな夜中に何があるんだと胸のうちでつぶやく。

 明朝は九時には家を出なければならないというのに。

 そんな私に構わず、ミナは部屋の奥へと歩いていった。

 部屋の明りをつけるかどうか迷ったが結局やめることにした。

 彼女が明りを嫌うからだ。

 部屋の奥まった場所にミナは立っていた。

 その場所がどこなのかは、思い出さなくてもすぐにわかる。

 トリステのいる場所だ。

 欠伸を噛みころしながらミナの所へ歩きはじめる。

「トリステがどうかしたのか」

 首を横にふってミナが答える。

 私はミナが見ている人形をみた。

 それはトリステではなかった。

 ミナはトリステの隣にある人形を見ていたのだ。

 私の目に映ったのは、老人の姿をした人形だった。

 老人は死に顔にあった笑みをみせ、椅子に深々と腰掛けていた。

 お気に入りのパイプをくわえて煙草を吸う仕草をしている。

「お久しぶりです」

 老人に声をかけると、彼は重々しく肯きかえしてくれた。

 彼の右手はトリステの左手に重ねられている。

 私は二人のその姿に軽い嫉妬を覚えが、すぐにその思いは消えた。

 あと十数年経てば、私も彼らの世界に入っていけるのだから。

 そう思うと幸せな気分になれた。

「なぁ、ミナ」

 ミナに笑いかけると、彼女も恥ずかしげに笑い返してくれた。

 ミナが膨らみはじめた腹部に手を置いた。

 私はその上に右手を重ねながら、近頃いつも考えていることを再び思い浮かべるのだった。

 生まれてくる子供には良い相手を見つけてやらねばと。


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