エピローグ

 一瞬だけ自分の記憶を疑いそうになるが、そんなはずはないと首を横に振る。  元気よくいぶきは学校に登校し、既に教室に居たネズミに挨拶を送る。

「おはようございますわ、幹彦さん!」

 しかし、彼はそれに対してやや他人行儀な口調で返した。

「ああ、おはよう。九地縄さん」

 喜色満面の笑みを浮かべていたいぶきは苗字で呼ばれ、怪訝な顔でネズミに問う。

「……え? あの、どうして名前で呼んでくださらないんですの?」

「ハハッ。おかしなこと言うね、九地縄さん。僕は君のこと、ずっと苗字で呼んでたでしょ? ねえ」

 いぶきが教室に来る前から、会話をしていたクラスメイトの吉田と末松に振ると、彼は二人とも頷いた。

「ネズミは元から九地縄さんのこと、苗字呼びだったぜ?」

「基本的にネズミ君、下の名前で呼ぶことないよね。それに九地縄さん、転入してきてまだ一週間も経ってないのに下の名前で呼ぶのは急すぎるよ」

 二人は知らないのだ。ネズミといぶきが過ごした時間を。

僅かな時の中で、彼らが共に紡いだ絆の糸を。

いぶきは狼狽うろたえてネズミを見つめるが、彼は不思議そうに彼女の視線に返すだけだった。

 あの三日間はいぶきの見た夢だったとでもいうのだろうか。


 もしも、あの時のことが夢であるならば自分はもう既にここにはいないのだ。

 気を取り戻して、なおもネズミに食い下がろうとするが、予鈴が鳴り、それと共に担任の四芦が教室に入って来る。

「み、皆さん、おはようございます! 今日も一緒に頑張りましょうね」

「はーい。先生が来たから皆座ってね。ほら、九地縄さんも」

 柏手を打ちながら、クラス委員長らしく、立ち歩いている生徒を自分の席へと座らせていく。

 言いたいことのあるいぶきだったが、聞いてもらえそうな雰囲気ではなく、大人しく席へと戻っていた。


 その後も、授業の合い間の休憩や昼休みの時間にネズミに話しかけようとするが、常に大勢の友人に囲まれている彼には話せる機会が見つからなかった。

 放課後にようやく、廊下の端で四芦と話し終えて、ちょうど別れたネズミを見つけることができた。

 すぐに駆け寄ろうとするいぶきだったが、寸でのところで四芦に飛び止められる。

「九地縄さん、ちょっといいかしら?」

「あの、今は……」

 あまりにも間が悪い申し出に断ろうと、口を開いた時、四芦の言葉に遮られる。

「根津君……いえ、ネズミ君のことでしょう?」

「え……?」

 普段の頼りない彼女とは違う、凍結した氷の結晶のような雰囲気と声にいぶきは戸惑った声を出す。

 駄目な教師の仮面を剥いだその下には同病を憐れむような女性の顔があった。

「あなたもネズミ君に助けてもらったことがあるようね」

 『あなたも』、という言葉を聞き、彼女もまた過去ネズミに救ってもらった経験がある人間なのだと理解する。

「……はい」

「それで彼に恋慕し、追いかけているってところ?」

 図星を突かれて沈黙するいぶき。四芦はその沈黙を肯定と捉えて、話を続けた。

「無駄よ。彼は助けた人間には何の興味も抱かないわ。どれだけ追い求めても彼は振り向かない。単なる隣人としてしか見てくれないの」

「そんな……」

 嘘だ、彼はそんな人間ではない。そう反論しようとするが、被せるように台詞が投げつけられる。

「人智を超えた理不尽を滅ぼすためだけに生きている狂人よ。……自分以外の人間なんて求めていないわ。忠告してあげる。彼に恋をするのは止めておきなさい」

 それだけ言うと、四芦は踵を返して去っていく。その背中にいぶきは自分と同じ悲哀を背負っているように感じた。

 彼女の背が見えなくなるまで立ち竦んでいたいぶきは、金縛りが解けたように歩き出す。

 四芦の言ったことはすべて間違っているとは思わなかった。けれど、同時にすべて正しいとも思わなかった。

 ネズミが向かった方へいぶきは走り出す。

 しかし、当然ながら彼の姿は見当たらなかった。

 彼はもう既に帰ってしまったのかもしれない。そう諦めかけた時、小さく聞き覚えのある鳴き声が鼓膜を掠めた。

 ――ヂュウ。

 鼠の、いや、ドブ太郎の鳴き声。確証はなかったが、いぶきには確信があった。

 鳴き声のする方に向かって走ると階段の踊り場にドブ太郎の姿を見つけた。

 ―ヂュウ。

 ドブ太郎は一鳴きすると、階段の上に駆けて行ってしまう。

「ま、待ってくださいまし」

 ドブ太郎を追っていぶきは駆けた。

階段を上り、次の踊り場を越え、そして屋上の扉の前までやって来る。

ドブ太郎が彼女を待つようにして、こちらを見ていた。そして、彼女が到着すると屋上の扉を爪でかりかりと引っ掻き始める。

「ドブ太郎……」

 いぶきは彼のその仕草に何か気付き、ドアノブを回して扉を押した。

 扉には鍵が掛かっておらず、簡単に開き、いぶきを中へと入れた。

 彼女の脇をドブ太郎が駆け抜け、屋上でフェンス越しに校庭を眺める少年の隣に行った。

 彼はドブ太郎の姿を認めると、僅かに驚いたように眉を上げた。

「お前、僕の命令なしでどこかへ……」

「幹彦さんっ!」

 いぶきは声を上げ、少年の名前を呼んだ。

 彼はゆっくりと振り返り、いぶきの姿を見据えた。その顔は先ほどよりも驚愕の色が濃く刻まれていた。

「お前が連れてきたのか……?」

 驚きようを見るに、どうやらドブ太郎がここまでいぶきを連れて来たのは彼の意志ではなく、ドブ太郎自身の意志だったようだ。

「幹彦さん。わたくし、貴方に行っておきたいことがありますの」

 ドブ太郎の優しさに感謝し、いぶきはネズミにそう言った。

「僕はないよ。理不尽から解放されたお前にもう興味なんてないんだ。勝手に学園生活を謳歌しなよ」

 酷く冷めた口調でネズミはいぶきを突き放す。

「もう僕に関わらないでよ。お前も邪神の懸念がなくなった今なら友達でも恋人でも好きに作れるでしょ?」

 心に突き刺さる彼の言葉を聞いても、いぶきは折れなかった。

「わたくしには幹彦さんしか居りませんわ」

「それは今だけだ。お前なら他にもっとまともな人間と付き合っていける」

「幹彦さんだってまともですわ!」

「僕は狂ってる!」

 吐き捨てるような叫びをいぶきへと、ぶつけて彼女を黙らせた。

「狂ってる! 歪んでる! 人として壊れてる!! ……まともじゃないんだ」

 ネズミは正確に己を理解していた。自分が世間一般の人間とは致命的なまでに価値観がずれてしまっていることを知っていた。

 何に置いても理不尽を破壊することしか頭になく、それでしか己を満たせない。

 どれだけ普通の振りをしようともそれだけは消しようがなかった。

「僕は死ぬか、殺させるまで一生理不尽に喰らい付き続ける。僕の傍に居続ければいつかは必ず破滅する。だから、もう近付かないで」

 これからは他人として接しろと、ネズミはいぶきに言う。

 せっかく人並みの幸福を得た彼女の人生を破壊するなど、彼には絶対に受け入れられない。

 彼女は何も答えを返さない。その無言を肯定として受け取り、ネズミは屋上から出て行こうとする。

「お断りいたしますわ」

「まだ……」

 分からないのか、と続けようとして振り向いた瞬間、彼は押し倒された。

 硬いコンクリートの上に背中を打ち付ける。痛みが走ったが、それ以上に驚愕が上回る。

 柔らかな唇がネズミの口に押し当てられていたからだ。

 数十秒の後、唇は離され、唾液が両者を繋ぐアーチを描いて途切れた。

「わたくしのことを侮っていますわね。わたくしは蛇よりもずっと執念深い女ですの。一度捕まえたら絶対に獲物は逃がしませんわ!」

 首の後ろに両手を回して、いぶきはネズミの身体を強く抱きしめた。それはさながら、鼠にとぐろを巻いて絡み付く蛇のように映る。

「……馬鹿じゃないの、お前」

「ええ。馬鹿ですわ。ご存知でしょう?」

「ここまで大馬鹿だったとはね。いつまで絡み付いていられるか、見物だよ」

「何なら呑み込んであげますわ。貴方のすべてを」

 貪欲にそう言い放ったいぶきに、ネズミは深い溜息を吐いた。

「それならせいぜい、お腹を壊さないようにすることだね」


 その後、満足するまでいぶきに抱き着かれたネズミは、ドブ太郎を彼女に渡す。そして、四芦に鍵を返却する必要があるからと先に強引に帰らせ、彼は一人屋上に残った。

 夕日の差し込むのを見上げた彼の後ろで、屋上の扉が開き、一人の女性がやって来る。

「あら? まだ根津君残っていたの? 部活動を行っていない生徒は下校の時刻よ」

「五年前のことに思いを馳せてたんですよ。犬神筋のお姉さんを助けた時のこととかをね」

 ネズミの言葉に頼りない新任教師の顔に罅が入る。

 震える声で四芦は彼に尋ねる。

「覚えて、いて……くれたの?」

「別に忘れてはいなかったよ。何せ、初めての理不尽狩りだったからね」

 ネズミの受肉能力は昔から強大だった訳ではない。最初の頃は十匹程度顕現するだけで許容量の限界に達していた。

 彼が膨大な量の鼠を受肉できるようになったのは、自分よりも強い超常の理不尽を喰らって成長してきたからだ。

「憑いている人間の感情に呼応して害を振り撒く化け物、犬神。初めてにして、当時の僕にとってはかなりの強敵だった。簡単に忘れられないよ」

「私の、ことも……?」

 今にも泣きそうな声でさらに問いを重ねる四芦にネズミは首を縦に動かす。

「犬神が暴走しないよう、誰に対しても距離をとって六歳上のお姉さん。確かあの時は、今の僕と同じ高校二年生だったっけ?」

「ええ、そうよ……ネズミ君はまだ十一歳だったわね」

 かつて、いぶきと同じようにネズミに救われた一人の少女。

 今では女性と言える年齢になった彼女は、五年前と違い、凍てつくような雰囲気は微塵も感じさせない明るい教師になっていた。

「私を助けた貴方は、その時のことを忘れたように私のことをただの隣人として扱うようになった。それが耐えられなくて私は県外の大学に進学したわ」

「そうだね。それも覚えてるよ」

 それからしばらくの間、互いにに無言の時間が過ぎた。

 夕日が沈み、急激に空が暗くなるとネズミは四芦の脇を通り、屋上の入口の前まで行く。

「暗いのでもう帰りますよ。四芦先生」

 顔を互いに背けたまま、ネズミはドアノブを握った。

 そこでようやく四芦が口を開く。

「もしも……もしも、あの時、彼女みたいに私がネズミ君の背中に泣き付いていたら、貴方は私の傍に居てくれたかしら?」

「……あいつは背中に泣き付いた訳じゃないですよ。僕を正面から捕まえに来ました。それに――いぶきは僕を最初から最後まで『ネズミ』とは呼びませんでした」

 ドアノブを回し、屋上の扉を開いて中へ入っていく。

 最後に彼は別れを告げた。

「……もう駄目な先生まで演じて僕と関わるのは止めた方がいいよ。さよなら、『リリ姉ねえ』」

 ネズミは振り向かず、階段を下りていく。

 後ろで彼女がどんな顔を浮かべているとしても振り返らない。

 その下の踊り場まで下りると、そこにはドブ太郎を頭に乗せたいぶきが待っていた。

 ネズミが来たことに気付き、主人を待っていた子犬のように喜色満面で飛び付いた。

「やっぱり、一緒に帰りたくてお待ちしておりましたの」

 彼はそんな彼女に呆れた笑顔を向けた。

「ハハッ。本当にしつこい女だよ、お前は」

 ――ヂュウ。

 灰色の一匹の鼠がそれに頷くように答えた。

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インカナルティオ 唐揚ちきん @mandara

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