第三話 『生命』

 邪神・ヤルダバオートが自らの復活を予告した日。

 ネズミたち二人は学校を休んで、山へと繰り出していた。とはいえ、登山を目的として来た訳ではない。

 邪神の顕現により、被害が出るのを少しでも抑えるための策だった。

 街の中で邪神が受肉すれば、昨日の遊園地の比ではない被害が出てしまう。今度こそ、死傷者が発生するのは目に見えていた。

 故にいぶきの提案で九地縄家が所有する私有地の山へとやって来たのだ。

 大きなリュックサックを背負ったいぶきが軽快に山へと登っていく脇で、昨日の疲れが癒えきっていないネズミがナップザックを担ぎ、息を切らしている。

「幹彦さん。頑張ってくださいまし。もう少しで頂上にあるロッジに到着ですわ」

「もう体力ゲージ振り切っちゃってるよ、僕。はあ、それにしても本当にいぶきってお嬢様だったんだね。自分ちの山持ってるとか」

「九地縄家は由緒正しい旧家らしいですわ。……わたくしと結婚してくだされば、行く行くはこの山も付いてきますわよ?」

「ハハッ。大した嫁入り道具だね」

 道中、そんな会話をしながらもどうにか頂上にあるロッジまで辿り着いた。

 いぶきによれば、夏場に避暑地として使っていたらしい山小屋だが、去年まで管理していてくれた管理人が亡くなったそうなので、今のところは管理人を募集しているとのことだ。

「鍵はどうするの?」

「御父様の書斎から拝借致しましたわ」

 自慢げにロッジの鍵を見せびらかすと、ネズミは冷たい視線を向けて彼女に言う。

「いつだったか、人のことを泥棒みたいに言ってたくせに……」

「ね、ねずみ小僧は褒め言葉ですから。開きましたわよ」

 ロッジの中は去年まで管理させていたので、特に荒れている様子はなかった。ただ少し清潔感には欠け、埃っぽい臭いが鼻腔を掠かすめる。

「さあ、幹彦さん! これから何をするかはもう分かっていますわね?」

 荷物を降ろしたいぶきは、バーベキュー用のセットを取り出して、ほくほくとした顔を見せる。随分大きなリュックを背負っていたと思えば、そんなものを持ってきたらしい。

「馬鹿じゃないの、お前……やらないよ? バーベキューなんて」

 ネズミはかなり本気で呆れたトーンの声を出す。いぶきは少しだけ悲しそうにバーベキューセットをリュックの中に戻した。

 出会って三日目のネズミだが、いぶきは刹那主義的なところのあり、数時間後には人智を超えた存在と対峙するという時まで人生を楽しもうとする悪癖があることを知った。

 本人からすればいつだって本気なのかもしれないが、流石にこんな時まで遊びに付き合える余裕はネズミにはなかった。

「くすん……幹彦さんは酷いですわ」

「『くすん』なんて声に出す奴初めて見たよ。バーベキューは時間掛かるし、いつあの盲目蛇野郎がこんにちはしてくるか分からないから駄目」

 しかしながら、思い詰めていた昨日よりは遥かにいいと思い直して、バーベキュー以外でやりたいことを尋ねた。

「何か他にやりたいことはない? そこまで時間が掛からないことなら、何でも付き合ってあげるよ」

 ネズミの言葉にきらりといぶきの瞳が光る。加えて、口元にも怪しく歪んだ。

「……何でもいいんですのね?」

「えっ、何その含みのある言い方。あと、何で迫って来るの?」

 ギラギラした輝きに満ちた目の彼女は、じりじりとネズミに詰め寄る。

 押されるように後退るネズミと追い詰めていくいぶき。奇しくもそれは、二日前の放課後と真逆の構図だった。

 邪神にも堂々と啖呵を切る彼も、謎の圧力には気圧されているようで後ろも見ずに下がっていく。

「ちょっと怖いよ。何なんなの? そんなに僕の発言に食い付くところあった? って、あ!」

 そして、唐突に何かに引っ掛かって後ろに倒れた。

 後頭部と背中に衝撃が来るかと思ったが、後ろには柔らかい感触に包まれ、衝撃は吸収された。

 顔を横に動かすと、白いシーツの掛かったベッドが視界に映る。どうやら知らない内に寝室まで来ていたようだ。

「ハハッ。寝室にまで追い詰めるなんて……なあっ!?」

 いぶきの方に向き直ると、上着を脱ぎ始めていた。突然のストリップを始めた彼女に着いて行けず、大口を開いて呆然とする。

「……何でもいいんでしたわよね」

 下着姿になったいぶきは雪のように白い肌を惜しみなく、ネズミに見せつける。

 フリルの付いた花の刺繍のある白いブラジャーとショーツ。女性的な凹凸おうとつには欠けるものの、その隙間のお腹から腰に掛けてのラインは色気を放っていた。

「わたくし、生きている間に絶対に体験したいことが一つだけありましたの」

 肌をそこまで露わにしたところで、ようやく異性に見られる羞恥を感じ、両手で胸元を隠す。しかし、それがかえってより官能的な雰囲気を上昇させる。

「セックスがしたかったの? 流石、チンパンちゃん。随分とスケベなんだね」

 初心な少年のように驚いていた彼だが、すぐにいつもの調子に戻ると両手を枕にして、いぶきを眺めた。口元には皮肉気な笑みすら浮いている。

「いいえ、違いますわ。わたくしが死ぬ前にしてみたかったこと。それは殿方に恋をすることですの」

 恥かしそうに、しかし同時に真摯に語る物言いにネズミは笑うのを止めた。

「だから、わたくしは残り僅かな時間で高校に編入致しました。そこでもし、殿方に一方的でいいから恋をしたかったんですの。……笑ってくださっても構いませんわ」

 ネズミは茶々を入れない。この吐露した想いが、彼女にとって何よりも大切なことだと伝わって来たからだ。

 無言でただただ、彼女が言い終えるまで耳を傾ける。

「たった二日程度では無理だと思っていました。誰かを好きになるということは、もっと時間の掛かることだと……でも、実際はそんなこと関係ないのだと思い知らされましたわ」

 彼女の瞳が潤み、ネズミを見つめる。その視線の意味が分からないほどネズミは幼くはなかった。

「幹彦さんに出会って、最初に思ったことは親切な殿方だと好感を抱きました」

 すっといぶきがベッドの上に膝を乗せた。ベッドが二人分の重さに小さく軋む。

「屋上では怖い方だと思いました。ファーストフード店では粗暴な方だと思いました」

 ベッドの上で二人の距離が縮む。少しずつ迫るいぶきに、今度のネズミは逃げなかった。

「遊園地では冷たい方だと思ってから、優しい方だと気付かされました」

 二人の視線が絡み合う。お互いの吐息さえも聞こえてくる。

「幹彦さん。わたくしは貴方を……お慕いしております」

「いぶき」

「最後になるかもしれない今日。わたくしの『初めて』をもらってくださいませんか?」


 ***


 しとしとと雨が降りしきる中、ネズミはロッジに置いてあったコーヒーサイフォンで淹れたコーヒーを二人分のマグカップに注いだ。

「ありがとうございますわ、幹彦さん」

「ここに置いてあったやつだからちょっと味変になってるかもね」

 シュガースティックを何本かテーブルに置く。テーブルの上にはリュックのポケットに入っていたドブ太郎が持参したビスケットを齧っていた。

 椅子に座ってから、一口啜ると程よい苦味と温かさが口内に広がった。

 何気なく、いぶきを見ると猫舌なのか、コーヒーに息を吹きかけ冷ましている。

 ネズミの視線がそちらに向いているのが分かると、照れたように笑った。

「雨、止みませんわね」

 少し汚れて曇っていた窓ガラスに雨粒が当たり、水滴で軌跡を描いて落ちていく。

 ネズミも彼女の言葉に頷いた。

「そうだね。泥だらけになるのは勘弁してほしいよ」

 命がけの戦いを前にして、冗談じみた下らないことを気にしているネズミ。

 そんな彼を見て、いぶきは思う。この人、本気でそう思っていると。

 負けることなど欠片も考えても居ない。自分が邪神に勝利し、ここから帰っていく明確なビジョンが見えているのだろう。

 いぶきはマグカップの中の黒い液体に目を落とす。自分の顔を映す表面には勝利を確信する顔はなかった。

「……一つ、お聞かせていただいてもよろしいですか?」

「何? 勝算でも聞きたいの?」

「いいえ、違いますわ。わたくしが幹彦さんにお聞きしたいのは……どうしてこのような戦いを続けているのかです」

 その質問にネズミは呆れた風に答えた。

「いぶき。お前は記憶力まで悪いの? 前に教えたでしょ。僕は『強い者イジメ』が好きなんだよ」

 彼にしてみれば当たり前の答え。強大な力で理不尽を強要してくる存在を完膚なきまでに叩きのめすことだけがすべてなのだ。

 そうすることでようやく、ほんの少しだけ胸が空く。僅かながら充足できる。

 邪神の前にも同じように己が道理だとばかりに存在していた理不尽な超常的存在を十七体も討ち滅ぼしてきた。

 そのどれもが当時のネズミよりも強大な力を秘めていたが、それを悪意と小細工を持って捻じ伏せた。

 ひとえに己の心を満たすため、掲げた主義を貫くために過ぎなかった。

 しかし、その答えにいぶきは満足した様子は見せず、首を横に振った。

「いいえ。幹彦さんはそんな理由で戦っているように見えませんわ」

 否定する物言いにネズミは気分を害したように目を細めた。

「……じゃあ、何のためにやっているって言いたいの?」

 その問いにうーんと小さく唸って考え込んだ後、いぶきは正解を思い付いたとばかりに言った。

「自分と同じように理不尽な力に一方的に虐げられている方を助けるため、ですわ」

 彼女の出した返答にネズミは鼻で笑って、さらに聞く。

「その根拠は?」

「幹彦さんが自分をネズミと名乗っているからですわ」

「は?」

 言葉を失って自分を見返す彼にいぶきは柔らかく微笑んだ。

「遊園地で聞いた幹彦さんの過去を聞いた時、わたくしは貴方の仰おっしゃっていた通り屈辱を忘れないために名乗っていると思いましたわ。でも、今ならそれだけではないと確信できます。幹彦さん。貴方は大切な御友人の死を忘れないため、そして……その御友人と同じように虐げられる方を出さないという誓いを籠めてそう名乗っているのではないんですの?」

 いぶきには彼が自分の欲求だけで超常的存在に牙を剥いているようには思えなかった。もちろん、彼が言っていることも満更嘘ではないのだろう。

 しかし、それ以上に目の前に座る少年が邪悪には見えなかった。

 加えて、机の上に居るドブ太郎を見て思う。

 受肉能力で顕現したこの鼠たちは、決して敵愾心だけから生まれた訳ではないはずだ。

 きっと、そこには理不尽な暴虐を振り撒く者への義憤が含まれている。

「それに本当に他人のことを何とも思っていないのでしたら、わざわざこんな山までやって来ませんわ。思い返せば、学校でもわざわざ屋上に移動したのは無関係な犠牲者を出さないための配慮だったんですのね」

「……騒ぎが起きたら面倒なだけだよ」

「自分では気が付いていないのかもしれませんけれど、幹彦さんはとても優しい方ですわ。自分を満たすだけなんかでは絶対にありません」

「じゃあ、勝手にそう思ってれば? 馬鹿には何言っても無駄みたいだし」

「はい! 勝手にそう信じさせていただきますわ」

 その時、彼女は今までは感じたことのない予兆を感じた。

 地震の前震のように、これから起こる本震を知らせるサイン。きっと今度は昨日よりも強大で、絶望的な化け物が顕現する。

 外れてほしい。けれど、絶対に外れない確信じみた予感。

「幹彦さん。これからすぐに、降りてきます……」

「ふーん。ようやくお出ましか。じゃあ、途中まで傘でも差して行こうか」

 気負うことなく、大きなコウモリ傘を片手にネズミはいぶきを連れて、ロッジの外へ出た。

 その際にドブ太郎もぴょんといぶきの肩に飛び乗り、着いて行く。

 最初で、そして最後になるかもしれない相合傘。いぶきは、また一つ夢叶ってしまいましたわと小さく呟いた。それにネズミは何も言わない。

 雨の中、二人はややロッジから離れた場所まで来ると、ネズミは傘を畳んだ。両者は雨に打たれながら、それぞれ距離を取る。

「……約束、守ってくださいましね」

「誰に物を言ってるの、いぶき」

 強気なネズミの言葉に彼女はどこか寂しげに微笑んだ。

 そして、いぶきは身体を掻き抱くように押え、震え出す。

 彼女の頭上から少し離れた空間が歪み始め、そこから巨大な何かが這い出すように姿を現した。

 数十メートル級の大きな塊。それは巨大な獅子の頭部のように見えた。

鬣たてがみが眼のない無数の大蛇でできた獅子ししの頭。その悍ましい姿こそ、邪神・ヤルダバオートの真の姿だった。

山頂を覆い隠さんばかりに大きな邪神は高らかに産声をあげた。

『これが我の本来の姿だ。恐れを為したか、根津幹彦』

 獅子の眼窩から一際大きな大蛇が二匹顔を見せた。

「相も変わらず、目玉はなしか。そんなに僕の顔を見るのが怖いの? か・み・さ・ま」

『……我が姿を見て、なおその減らず口を叩けるとは。よほど殺されたいと見えるな』

「二回も殺されておいて、のこのこ現れるお前には負けるよ」

 コウモリ傘を真横に投げ捨てたネズミの周囲に、鼠の軍勢が馳せ参じる兵士の如く顕現する。その中心にドブ太郎も参戦した。

 その数、およそ数億匹。周囲の地面が文字通り鼠色、一色で塗り潰された。

 昨日の遊園地で受肉した量よりも遥かに多いが、八つ首の大蛇を喰らい、取り込んだネズミは許容量も格段に増えていた。

 まだまだ限界には余裕があり、受肉による身体の不調は微塵も感じさせずに悠然と佇たたずんでいる。

 彼とは対照的に、邪神を顕現したいぶきは許容量の限界に達して倒れかけるが、手早く鼠たちを使って手元に回収すると、生み出した手勢をヤルダバオートへ差し向けた。

 ――ヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウ。

 眼を血走らせ、殺到する鼠の軍勢は寄り集まると大きな波となり、自分たちよりも遥かに巨大な邪神に牙を剥く。

 鼠で作られた灰色の巨大な津波はヤルダバオートをそのうねりの中に沈めようと雪崩なだれれ込む。

『今更、そんな鼠の群れなど相手になると思っていたのか』

 ヤルダバオートは眼窩から這い出た二匹の大蛇が伸び、その無数の大きな口を開くと灰色の津波を大きく抉った。

 土石流のように突貫する鼠の群集を意図も容易く削っていく。

 捕食というよりも吸収と言った方が正しい光景だった。掃除機に吸われる埃のように雨の雫と共に鼠たちは大蛇の口の中に消えていった。

 眼窩の大蛇に比べるとやや細い、鬣の蛇たちも呼応するように長く伸び、しなる鞭の如く周囲の鼠たちを木や土ごと呑み込み始める。

『小さき鼠如き、我の腹を満たす獲物でしかない。このような矮小な存在では幾億喰らおうとも、満たされぬであろうがな』

 地表が砕け散り、大蛇の口内に呑み込まれ、消えていった。ネズミは自分といぶきが吸い込まれないように崩れゆく地面に鼠でできた小山を作り、足場を固定してどうにか身を守るが、それすらもすぐに邪神の餌となる。

 戦いは一方的であり、圧倒的だった。今までよりも遥かに数多くの軍勢は数分と経たずに半壊していた。

 ヤルダバオートに削られ、山の形が変形し、クレーターのような跡を残す。

 脳髄が炙られたように熱され、強烈な頭痛と発熱がネズミを襲う。

「……そんなに食べると消化に悪いよ。神様」

 喰われた分補充し直すが、昨日の比ではないほどの受肉能力の行使は、ネズミの精神に多大な負荷を掛けていた。

 ついには許容量の限界を超え、右目の眼球からどろりと血液が漏れ出してくる。

 ――ヂュウヂュウヂュウヂュウ。

 生み出すたびに呑み込まれていく命。ひたすらに削られていく精神。

 いぶきを抱きかかえていない方の手で右目を抑え付けるが、手のひらとの隙間から尋常ではない量の血液が零れていく。

 それにも関わらず、邪神には外傷一つ付けられていないのが現状だ。

 戦いではなく、単なる食事。強大な捕食者が卑小な被食者を呑む込み、糧とするその工程をただただ見せつけられる。

すでに何度も補充された数億の軍勢も五分の四が喰われ、今ではドブ太郎もヤルダバオートの腹の中だ。

『ククク。どうした、根津幹彦。あれほど達者だった減らず口は喰われた鼠とも消え失せたか? 我はまだ僅かしか力を見せておらんのだぞ?』

「…………」

 この状況でまだなお遊びだという笑うヤルダバオート。事実、ヤルダバオートがその気になれば、ネズミは配下の鼠と共に早々に喰われていただろう。それどころか、今彼らが居る山すらも簡単に砕くことができた。

 それをしないのは単純にネズミを弄なぶっているからに他ならない。

 かつて、味わわされた屈辱をそのまま、彼に返しているのだ。

窮地に立たされた彼に反撃の手段は未だ整ってはいない。

ネズミに抱かれたいぶきは朦朧とした意識の中で、そのやり取りをぼんやりと見ていた。

――やはり彼でも勝てないのかもしれない。

もしものために胸ポケットに入れていたカッターを握る。

――彼が命を失うことになるのなら、ここで自分が命を絶ち、邪神を滅ぼす。

 既に顕現してしまった邪神にいぶきの自殺がどれほどの効果を及ぼすのかは未知数だが、いぶきの受肉能力によって肉体を得ているのなら消滅させる可能性はある。

意を決してネズミに気取られないようカッターを取り出し、己の首筋に当て、刃を突き出そうとした。

「……え?」

「無駄だよ。昨日の内にそのカッターの刃はドブ太郎に食べさせた」

 ヤルダバオートに集中していると思っていたネズミは、しっかりといぶきを見据えていた。

「信用、してくださらなかったんですのね」

「逆だよ。いぶきなら僕のために死ぬと思ってた」

 名前も知らない大多数の人間を守るために死を想う彼女が、共に時間を過ごしたネズミを守ろうとしない理由などなかった。

 いぶきは本当にこの少年は食えない人間だと心底思った。同時にこの人と一緒ならば死ぬのも怖くないと感じた。

 いぶきの諦めた様子を感じとったのか、ヤルダバオートは嘲笑する。

『九地縄いぶき。お前は殺さぬ。我の眷属としてこの世の終わりを最後まで見せてやろう。お前以外の人の子が一人残らず、死に絶えた終わりの世界をな。まずは、その男が貪られる姿から目に映すがいい』

 ヤルダバオートは仄ほのかな彼女の想いも打ち砕くべく、獅子の大顎を開き、残っていた鼠の軍勢を大地ごと喰らいながら徐々に二人へ接近する。

 すべての目に映る鼠の軍勢を失ったネズミにはもう、受肉を行う余裕は残っていなかった。義眼の裏から流れ出る赤い液体は絶えず、地べたを這いずり悶えそうになるほどの激痛が脳を焦がす。

 だが、彼の左の瞳には絶望の二文字はなかった。それどころか、近寄る邪神を嘲るような笑みが口の端から漏れた。

「ハハッ! 神様風情が何様のつもりなの?」

 何かを企んでいるかのような笑い声にヤルダバオートは警戒し、鼻先まで近付いた距離を再び離した。

 なぜこの男は絶望しないのだろうか。それどころか、恐怖する雰囲気すらも漂わせない。

 一度は計略に嵌ったヤルダバオートはネズミの周囲を鬣の蛇で熱源感知を行う。抜け目のないこの男はこの山のどこかに伏兵を用意しているかもしれない。

 しかし、その可能性は邪神の杞憂に終わった。

 この山にはネズミの生み出した鼠は一匹たりとも見つからなかった。

 ヤルダバオートはその事実を端的に理解した。

 この男は迫り来る死の恐怖で狂ったのだ。絶望していないのではなく、それを通り越して心が壊れただけのこと。

『所詮は脆弱な心しか持たぬ、人の子か。名を覚えるまでもなかったか。だが、我を愚弄した罪は重い。その身を引き裂き、苦しみ抜いてから喰ろうてやる』

 眼窩から生えた大蛇を伸ばし、ネズミを引き裂こうとした。

 いぶきはせめてネズミと共に死ねるようにと目を硬く閉じて、彼の身体に強くしがみ付く。

 しかし、次に聞こえたのはヤルダバオートの悲鳴だった。

『ぐっ、がああああああ!! この苦しみは!? 何だ何なのだ? 我の中で何が起こっている!?』

 振り返ったいぶきがヤルダバオートを見ると、その眼窩から生えた大蛇を喰い破るようにして大量の鼠が這い出していた。

 何が起こったのかまるで理解できず、呆然と邪神を見上げている彼女のすぐ近くでけたたましい哄笑が耳に響いた。

 ネズミが嗤っていた。これまで見たことのないほどに邪悪な歓喜がそこにはあった。

「ハハッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 それは人体から発せられる音とは思えない、悪意のラッパだった。どす黒い悪意の息を吹き込み、世にも邪悪な音色を奏でる最悪の楽器。

 相手を冒涜し、踏みにじることだけが喜びだという狂気じみた喜びが音の波を介して伝わってくる。

「だからぁ! だぁから言ったでしょ、神様ぁ! 『消化に悪い』ってさあ? ハハッ、ハハハハハハ!」

『何をした……我の身体に何をした! 根津幹彦ォ!!』

 苦しみながら地面へと降りて来るヤルダバオートにネズミは種明かしをする。

「僕だって馬鹿じゃないさ。正面からお前とやり合って勝てるとは思ってなかった。一つ仕掛けをしたんだ」

「仕掛けですの?」

 尋ねるいぶきにネズミはヒントを出す。

「前にいぶきが鼠にドブ太郎って名前を付けた理由、僕聞いたよね。あれを思い出して」

 いぶきは名付けた理由を思い出すが、それでもネズミの言わんとしていることは理解できなった。

「それは男の子だからですわ。男性器が付いて……まさか」

 そこまで自分で言って彼女はある可能性に気が付いた。

「邪神の中で子供を産んでいたのですの?」

「大正解」

 ネズミはあえて、鼠の軍勢を可能な限り生きたまま、ヤルダバオートの体内へと送り込んだのだ。

 鼠は多産であり、子供の成長速度も生物の中では早い。受肉能力で生み出した鼠ならなおさらだ。体内で繁殖した鼠たちは爆発的に数を増やし、邪神を喰い破って出てきたという訳だ。

「いやはや、なかなかに時間が掛かったよ。お前の身体を内側から喰い荒らすのは」

 後、少し遅かったら死んでたねと他人事の漏らすネズミ。

『馬鹿な、そんなことをすれば気付かない訳が……もしや貴様! 九地縄いぶきを抱いたのか!?』

 いぶきはその発言に顔を赤く染めるが、ネズミは予想していたとばかりに頷いた。

「ああ。やっぱり受肉能力者が処女であることに意味があったようだね。あの時抱いておいて正解だったよ」

 古今東西、大抵の神事を行う巫女は処女でなければいけない決まりがある。処女は即ち神性であり、それを捨てた巫女は不浄とされ、神事を行えなくなるというような話をネズミは本で読んだことがあった。

 それが邪神にも適応されるのではないかと思い、彼女の処女を奪っておいた。

「え……? もしかして、あの時、わたくしを受け入れてくれたのは……」

「邪神を踏みにじるために決まってるでしょ? それ以外に何かあるの?」

「乙女の純情も一緒に踏みにじられましたわ!」

 一生に一度の思い出をまんまとネズミの野望に利用されていたことを知り、いぶきは衝撃を受ける。

 ネズミ自身、実際のところ、そこまで確証があった訳ではなかったので、多少邪神に効果を及ぼせば御の字程度のつもりであり、すべてが打算だった訳ではないが恥ずかしいので隠した。

『我は元より不完全な受肉故に痛覚を感じていなかったというのか……!』

「だったみたいだね。いや、うまく行って本当によかったよ。あんまりにもうまく行きすぎるもんだから決まった時には笑いが止まらなかった」

 地面に着いたヤルダバオートの至る所から生殖によって産まれた鼠たちが次から次へと這い出て来る。さながらアリに集られた昆虫の死骸のように見えた。

「さてと、散々調子に乗ってくれた神様の処遇……どうしてあげようかなぁ?」

 皿のように見開いたネズミの左の目には嗜虐的な色が滲んでいた。

 視力のないヤルダバオートにも声だけで彼の感情が伝わって来たらしく、絶望に身を浸しながら叫んだ。

『我を殺せば、眷属として生き永らえている九地縄いぶきも死ぬことになるぞ!? それでもいいのか!?』

 今のヤルダバオートには神としての誇りなどとうに存在していなかった。あるのは死への恐怖のみ。

 不完全だったとはいえ、前回までの一部のみの受肉と違い、本体で顕現した今回の受肉は邪神の精神は完全に固定している。この肉体を滅ぼされれば二度と復活できなくなる。

 即ち、ヤルダバオートの死だ。

『根津幹彦、いや鼠の王よ! いいのか? 貴様は九地縄いぶきが死んでもいいというのか?』

 威厳の欠片もなく、惨めにいぶきの命を人質に脅すその様はもはや超越者とは程遠かった。

 ネズミはそれについて何も答えず、無言でいぶきの顔に視線を移した。

 彼女にはその視線が邪神の処遇の判断を任せると言っていることを理解した。

 いぶきはヤルダバオートに向けて、誇り高く拒絶の言葉を叩き付けた。

「今まで貴方に生かしてもらったことには感謝しています。けれど、わたくしはもう貴方のような存在に生かしてもらうつもりはありませんわ!」

 最後の命綱に見放され、ヤルダバオートは絶望の籠った声色を漂わせる。

『そんな……馬鹿な……』

「もうお呼びじゃないってさ、神様」

 ネズミはいぶきの答えに頷くと、邪神を蔑みに染まった目で見下し、嘲弄するように嗤って言った。

「くたばれ」

 ――ヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウヂュウ。

 鼠の王の号令により、鼠の兵士は無情にも死刑を執行する。戦に負けた神に、無数の断罪の刃が振り下ろされた。

 断末魔すら鼠の群れに掻き消され、その身は悉ことごとくシルエットを削っていく。その様は大きな氷の塊に熱湯を掛けていく光景に似ていた。

 あれほどの猛威を振るっていた邪神・ヤルダバオートはもはや見る影もなく、そこに居るのは身体を喰い破られて死んでゆく化け物の死骸だった

 その数秒の後、邪神と呼ばれた存在は跡形もなく、鼠たちの餌と消えた。

それを見届けた瞬間、いぶきの身体から力が抜けていく。

全身から急激に体温が奪われていく感覚は決して、降り注ぐ雨のせいだけではなかった。

懐かしささえ感じさせる死の感覚がいぶきを包み込む。

 自分を見つめるネズミの頬を雫が流れ落ちる。それが雨なのか、それとも涙なのかは霞むいぶきの視界では判別できるはずもなかった。

「幹彦さん……わたくしと交わした約束、ちゃんと守ってくださいましたね。ありがとうございます」

 彼女に後悔はなかった。元々すぐ死ぬはずだった人間が予定よりほんの僅かに遅く死ぬだけのことだ。マクロな視点からすれば何も変わらない。

「わたくし、幸せでしたわ。幹彦さんに会えたことは何よりも尊い奇跡だと思います」

 指先には既に感覚がなかったが、それを動かし、ネズミの頬に添えた。

「誰よりも愛しております、幹彦さん……」

「ああ。そう……」

 素っ気ない返事が返って彼らしく感じられ、いぶきは微笑む。

「最期に、口づけをしてくださりませんか?」

「……目を閉じて」

「……はい」

 言われた通りに目を瞑る。このまま、意識も暗闇に落ちて行きそうになるのを堪え、彼の唇を待つ。

 そして、唇に何かが触れた感触がした。

 次の瞬間にはその何かがさらに奥まで押し込まれて、思わず目を開いてしまう。

 開いた先には自分の口の中に、ピンク色の鼠の胎児らしき物体をせっせと詰め込んでいる、愛する人の姿が見えた。

「むぐうっ!」

「いいから食べて、よく噛んでから飲み込んで」

 言い方は多少違うが、ネズミの言葉に酷く既視感を覚えた。

 とっさのことで彼女は言われた通りに鼠の胎児を嚥下してしまう。

 きっちり飲み込んだ後に、いぶきはたった今行われた蛮行に怒気を露わにした。

「一体、幹彦さんは何を考えていらっしゃいますの!? わたくし、死ぬ一歩寸前なんですのよ?」

「まだ死にそう?」

「当たり前……あれ?」

 急激に寒さが身体から引いていく。指先の感覚もしっかりと戻っていた。

 視界も良好で曇り一つなく、呼吸もなだらかだ。雨に濡れる肌の感触も透き通っていた。

「身体が健康に戻っていますわ! でも、どうして……ひょっとして今のは?」

「どうやら蛇公の肉を鼠を通して吸収したことで、あいつが持っていた知識の一部を得たみたいなんだ。『眷属の作り方』とでも言えばいいのかな?」

 邪神とは言えども神を殺し、その肉を間接的にも喰らったネズミは人の身でありながら、邪神とほぼ同等の存在になった。不完全な形ではあるものの、神格を獲得したと言い代えてもいいだろう。

 ネズミはそれにより得た力で、邪神がいぶきにしたものと同じように延命措置を行ったのだ。

「それではわたくしは……死ななくて済みますの?」

「うん、まあ、僕が死ぬまでは死なないだろうね」

 大したことのない様子で彼はさらりと重大な発言をぶちかます。

 驚きや衝撃よりも、安堵がいぶきの胸を叩いた。

 しつこく絡み付いていた蛇のような絶望が音を立て、剥がれ落ちていく。

 涙腺から熱い水滴が雨と混じるようにして流れ出した。

「わたくしは……わたくしは生きていてもいいんですの?」

「いいんだよ」

 ネズミの胸板に顔を押し付けて、いぶきは泣いた。

 今まで親にも見せたことのない、安堵と幸福に包まれた不思議な涙が瞳から落ちる。

 その様子を雨の中、ネズミは優しく慈しむように笑った。

 嘲笑でも冷笑でも悪意の籠った笑みでもなく、ただ優しい年相応の少年の笑顔がそこにはあった。

 数分間、ずっとそうしている内に雨足は次第に弱まり、すぐに止んだ。雲の切れ間からは太陽が覗き込み、嘘のように空が明るさを取り戻す。

「帰ろう」

「……はい」

 いぶきの瞳から流れる雨もまた晴れていた。天に輝く太陽よりも眩しい笑顔がネズミの左目を焼く。

 ――ヂュウ。

 灰色の一匹の鼠が二人の傍で声をあげた。

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