三題噺「こいごころ」
桜枝 巧
その人は毎日午後四時半になると現れました。
その人は、毎日午後四時半になると現れました。その瞳と同じ、真っ黒なランドセルと、その頬と同じ鮮やかに染まった夕日を背負って立っていました。
私が居ついている神社は、ビルとビルの境目にある、世界のくぼみのような場所です。鳥居の朱色はところどころはがれかけ、近くにある池もそこにかかる橋も、長い間俗世から取り残されているような有様でした。ぽつんと奥に立つ本殿も、人の出入りはあるようでしたが少しさびしそうでした。
「今日も元気そうでよかった」
にっと年頃の子供のように細められる目は、私が苦手とする猫のようでありましたが、そこには春の日差しのような温かさもありました。
私は自分が持っている唯一の取柄――誰もかれもが振り返る鮮やかな衣の振袖を振って応えます。白を基調とし、赤や黒の不定形の模様がちりばめられたものです。
「私も嬉しいわ――君に、こうして毎日会えるんですもの」
こちらのほうが年齢は上であるようなので、できるだけ大人っぽく振舞います。妖艶に、誘うように。
「うん、きれいだよ。ユーヤやリョウタロウはこんなつぶれかけの神社、ユーレイがでるってうわさだから 来たくないって言うんだ。絶対損してるよ。こんなに素敵な君がいるのにさ」
その人は池にかかっている橋に腰掛けました。足をぶらつかせながらしん、と静まり返った辺りを見回します。小さな靴が前後に揺れるたびに、木でできた橋がときとおり小さく悲鳴を上げました。
「ああ、そうだ。これ、今日の分」
そういってその人は今思い出したようなそぶりでずっとポケットの中に突っ込んでいた左手を出し、私に向かって開きました。短く切りそろえた茶髪が、風に吹かれ柔らかくなびきます。
硬く握り締められていた手のひらから出てきたのは、小さなあめ玉の入った包み紙でした。
一日一粒。
それが、私とその人との関係を強く結びつけるものでした。
その人はまるで、婚約指輪の入った箱を開くような、緊張した、しかし愛情のこもった面持ちで包み紙を開くと、
「ミツグ男は大変だぜ」
なんて、どこで覚えたのか大人ぶった台詞をはきながら、そうっと私の口の中に入れました。
どこにでもあるようなあめ玉を欲するだけなのに、小さく開いた私の口はまるで唇を求めているかのようでした。
我ながらはしたない、ああ、でも君のためならば。
丸く固い感触と、甘酸っぱいさわやかさが私を包み込みます。今日はレモン味のようです。
――限界の訪れは、あまりにも急でした。
いつものようにあめ玉がおなかに落ちていったと思った瞬間、がくん、と体が重くなりました。
「あ……」
ゆっくりと、自分の体が、意識が冷たい水の中へと沈んでいくのが分かります。愛しい人の、あせった声が聞こえてきました。
「え、ちょっと、おい、大丈夫か? 待って、待ってってば!」
ああ、そんなに心配そうな顔をなさらないで。
君には、無邪気な君には、何の罪もないのだから。
君の愛情に、きみからの甘くも思いあめ玉に、私の体が耐えることができなかっただけなのだから。
ごめんなさい。
大好きでした。
私はその人の幸せを願いながら――そう願える自らを幸せに思いながら、緩やかに意識を体から切り離しました。
「わがクラスの生徒が、神社の錦鯉にあめ玉を故意に与え続け死なせると言う悪質な悪戯を行ったことについて、心からお詫びを申し上げます。これは、生き物を大切に扱わない非常に残忍な行為であり――」
(××小学校二年三組の学級通信より)
三題噺「こいごころ」 桜枝 巧 @ouetakumi
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