老兵の死に場所・・・

 8月15日。

 今年も終戦記念日がやってきた。70回目の終戦記念日。テレビじゃ、時の首相が談話を言っている。その内容がどんななのか、正直、頭に入っては来ない。世界中、特に隣国が酷く注目をしている談話らしいが、70年も前の事を今更、何を言っているだろうか。正直、興味など無い。あの戦争は70年前に終わった。多くの苦しみと共にだ。それを何度も掘り起こしては、何度も屈辱を与える。それだけのことだった。


 齢94歳の男は仏壇を拝む。

 「今年も・・・この日が来たか」

 老人は孤独だった。妻も子も今は居ない。一人、小さな家で死を待つだけだ。

 戦後、彼は大手商社で勤めて、ビジネスマンとして活躍した。世界を股に掛けて、飛び回った彼は世界でも畏怖の念を込めて、ビジネスコマンドと呼ぶ者も居た。だが、それも遥か40年近く前の話だ。当時の事を知る者はほとんど残っていない。特に他者との関わりを断ちながら生きてきたので、近所との交流だってありはしない。本当の意味で孤独だった。

 静かな老後を迎え、あとはいつ、人生が終っても良いと思っていた。だが、この年齢になるまで、大した病気にもならずに過ごせてきた。正直、この健康が恨めしいと思うことの方が最近は多くなった。最近は色々、物忘れが酷くなっている。変に昔のことばかり思い浮かべてしまう。新聞も何もかも頭に入ってこない。多分、認知症という奴だろう。最近じゃ、地域包括支援センターとか言うところから職員が来て、介護とか言う奴を受けろと仕切りに言って五月蝿いもんだ。

 「さて・・・今年もこいつを拝むか」

 毎年、仏壇に拝んだ後、やる事がある。仏壇の引き出しを引っ張り出す。そして、仏壇の奥に手を伸ばす。そこから出てきたのは油紙に幾重にも包まれた物だ。

 「今年もこいつを手入れするのか」

 老人は油紙を開いていく。幾重にも開かれた中には黒光りする物が出てきた。彼はそれを文机の上に置く。


 南部十四年式拳銃


 旧帝国軍が採用した拳銃の一丁だ。多くの士官達に支給された拳銃であり、戦後、一部の行政機関で用いられた経緯がある。

 華奢な印象を受ける細い銃身や本体は第一次世界大戦で破れたドイツ軍がその生産を禁止された名銃、ルガーP08自動拳銃に似ていると言われることが多い。

 ストライカー式の撃発方法を採用したことによって得られた細身の銃把は手の小さい日本人が片手でしっかり握るには適している。撃発方式はストライカー方式。当時の自動拳銃では多く採用された方法だ。ルガーP08がトグルジョイント式のショートリコイルを採用しているのに対して、南部十四年式拳銃は無難にワルサーP38などが採用しているプロップアップ式ショートリコイルを採用している。概ね特徴的な部分が少ない拳銃だったが、それ故に生産性や信頼性は高くなった。

 安全装置はマニュアルセーフティとマガジンセーフティとなっている。南部十四年式拳銃は暴発し易いという間違った情報を稀に聞くが、それは南部九四式拳銃の事であり、基本的構造が他国の拳銃とそれほど差異の無い本銃において、暴発は弾薬不良か、製造不良によるものしかない。無論、現代の銃に比べて、安全装置の信頼性は低いので、その点における暴発を考えると安全性が高いとは言い難い。

 この拳銃は男が陸軍中野学校を卒業する時に支給された。この銃を見る度にあの頃を思い出す。拳銃の整備をしながら昔を想うのも70年続けた事だ。


 陸軍に徴兵されたのは20歳になったばかりだった。その頃には二つ年下の妻が居て、1歳にもならぬ赤子が居た。仕事は実家の荷馬車屋を手伝っていた。

 召集令状を受けて、陸軍兵学校に入ってから、必死に訓練を行った。幸いにも子どもの頃から偉丈夫として、喧嘩でも誰にも負けた事が無かった。毎日、荷馬車に米俵を載せていたのが役に立ったのだろう。訓練を特別厳しいと思ったことは無かった。

 兵学校での訓練も終わりに近付き、いよいよ、前線の軍に配属だと思った。太平洋で始まった戦争は連戦連勝らしい。きっと、南方へと行くのだろう。そう覚悟していた時、上官から呼ばれた。中野学校へ行けと言うことだった。中野学校と言えば、将校になるような人間が行く所で、私のような学歴も特に無い兵士が行くところじゃなかった。よく分からないまま、汽車に乗り、東京へと行った。中野学校と呼ばれる場所は洋館のような作りだった。中に入って進むと応接室のような場所に通された。そこには数人の私服の男達が居た。相手が私服なので、民間人かと思ったが、こんな場所に居るのだ。並の相手じゃないと思い、軍属相手と同様に敬礼をした。軍人でも相手が民間人などの場合、敬礼ではなく、お辞儀をする。

 「どうして、我々が軍人だと思ったかね?」

 男の一人が笑いながら尋ねる。

 「はっ、状況を見て、判断しただけであります」

 その後、敷地内にあった物についての質問や世界情勢など、様々なことが尋ねられた。これが面接試験だと知ったのは全てが終ってからだった。

 中野学校での訓練は兵学校よりも特殊で厳しかった。求められるのは普通の兵士とは違う。戦闘訓練だけじゃなく、扮装や、忍術なども習った。時には味方の基地に侵入する訓練など、見つかって射殺されてもおかしくないような訓練もった。外国の生活習慣や言語も学んだ。それらを吸収して、卒業をした。その時、渡されたのがこの拳銃だった。拳銃は訓練で何度も使った。我々は普通の兵士じゃない。歩兵銃よりもこの拳銃が武器として自分を守ってくれると言われた。

 それ以来、この拳銃は肌身離さず持ち歩いた。当初、任務は民間人に扮して東南アジアやインドなどで、情報を集める事だった。これは思ったよりも危険は少なく、比較的、気軽に出来た。色々な言語を習得し、様々な生活や風習を学ぶ。何もかもが珍しく。その中で誰にも怪しまれずに情報を得るために活動する緊張感が、自分をより高めた。

 外国に居て、いつも思う事は残した家族の事だ。仕事柄、様々な情報に触れる。ドイツやイタリアが劣勢だとか、アメリカの膨大な工業力の事など。日本がとても勝てるとは思えない戦いをしている事も。だが、そんなことは自分がどうにかできる事じゃない。自分は淡々と仕事をするだけだった。

 懐に入れた南部十四年式拳銃はどんな時も自分を落ち着かせてくれる。武器というのはあるだけで、どんな時も安心が出来る。潜入任務の時に使ったのは資材調達をしていた中国共産党軍の一派に追われた時だ。

 奴等も潜入任務だったらしく、武器らしい武器を持っていなかったが、棍棒やナイフを振り回して追い掛けて来た。マニラの狭い路地に駆け込み、追い掛けて来た奴等に向けて、懐から出した南部十四年式拳銃の銃口を向けた。ボルトをコッキングして初弾を薬室に装填する。右手を真っ直ぐに伸ばし、シングルハンドで構える。当時の正しい射撃姿勢だ。そして撃つ。8ミリ南部弾は反動が少なくて撃ち易いが、反面、威力不足だった。相手を殺したければ近距離か、確実に頭を狙うのが良しとされた。引金を引いた瞬間、弾丸が発射され、ボルトが鋭く後退する。空の薬莢がエジェクトポートから弾き出される。最初の一撃は男の鼻を潰して、穴を開いた。続く、男の目を潰し、三人目は口に弾丸が入った。三人はその場に倒れ込み、血を流して死んだ。初めての「戦闘」だった。私はこれを決して殺したとは思わない。奴等も私の事を殺そうとしたのだ。互いに民間人の皮を被っていただけで、軍人同士だ。殺し合いと言わない。戦闘だ。

 戦争も末期になると任務は変わった。潜入任務は解かれ、将校として兵士を率いて前線で戦えと来た。懐に入れていた南部十四年式拳銃も革製のホルスターに入れる。

 カーキ色の半袖軍服に支給された数打ちの安物軍刀を携えて、激戦地のフィリピンへと送られた。終戦までの1年半。部下と共にゲリラ戦を戦い抜いた。弾薬も食料も尽き、我々は米軍から食料を調達し、武器も米軍の武器を使った。それでも部下はマラリアなどの病気で倒れていった。最後に残ったのは三人の部下だけだった。やがて、戦闘は下火になっていく。我々が襲っていた米軍基地もかつての活気は無かった。どうやら撤収準備をしているようだった。

 何も情報が無いまま、元の上官が米軍に連れられて、我々に投降を命じた。それで我々の戦争は終わった。武装解除が必要だったが、俺の命を守り続けてくれた十四年式と別れるのが惜しくて、銃を分解し、誰にもバレないように隠し持った。米軍には九九式歩兵銃と軍刀を素直に渡した。それで彼等は満足したようで、思ったよりも厳しい身体検査はされずに捕虜収容所に収容された。それからすぐに日本へと帰る事が出来た。

 長崎に下ろされ、汽車で東京に向かう。数年ぶりの日本だ。東京の家族はどうしているだろうか。練馬の我が家へと向かった。東京は酷い有様だった。全て空爆によって吹き飛ばされたらしい。フィリピンでもこれだけの空襲など受けたことが無い。ある意味、前線よりも酷かったのではと思わせる。私は家族のことが心配ですぐに家のある場所へと駆け出した。荒野となった土地にもバラック小屋と呼ばれる廃材で作った小屋が点在している。こんな有様でも人はここに住んでいる。私の家族も同じように生きていて欲しい。そう願った。だが、私は生き残った近所の人から妻と娘の死を知らされた。東京大空襲で炎に巻かれて死んだらしい。家も店も失った。もう、何も残っていない。家が建っていたはずの場所にはヤクザが居座っていた。戦後のドサクサに紛れて、主を失った土地を奪う輩というのが居た。そこは私にとって大事な家族との想い出の場所だ。許せなかった。戦い抜いて帰って来たら、こんな仕打ちだ。許せるはずなど無かった。怒りが爆発する。

 汚いバラック小屋の扉を蹴り飛ばす。中には男が一人、住み着いている。腕に自慢があるのだろう。彼は私を見て殴り掛かって来た。だが、こちらもついこの間までゲリラ戦をしてきた身だ。考えるのは間違って「殺さない」ことだけだった。角材を持って殴り掛かって来たヤクザの腹を蹴り飛ばし、動きを止めた奴の右腕を掴み、へし折る。奴は悲鳴を上げた。だが、本当の地獄はこれからだ。右腕の次は左腕をへし折り、床に転がった奴の右足の膝を踏み、折る。足があらぬ方向に曲がった。人間の身体など、簡単なものだ。男は何度も許しを請う。だが、それを素直に聞き入れるほど、この頃の私は血気盛んだったのだろう。動けなくなった奴の身体を何度も踏み、痛みを与えた。1時間に及ぶ拷問を加えて、男を半殺しにしてバラック小屋から放り出す。大切な想い出の場所を守る為だ。

 その夜。半殺しにした男の仲間が大挙として押し寄せた。バラック小屋から姿を現す。俺に奴等は威嚇した。中には拳銃を持っている物も居る。引き揚げた軍人から横流しされた物か、それともそいつが持ち帰ったのか。なんであれ、奴等は俺を殺してでもこの土地を奪うつもりのようだ。さすがにこんな状況はこれまで無かった。袋叩きにされて殺される。それも良いかもしれない。愛する妻も子もこの世には居ない。生きているのが馬鹿らしくなった。だが・・・小屋の中にはその愛する母子の遺骨の入った骨壷がある。それをこんな下卑た奴等に触らせるのは許せなかった。

 パン!

 甲高い銃声が鳴り響く。最初に狙ったのは拳銃を持った男。奴の額に穴が開く。弾丸は頭蓋骨を貫通して脳を潰しただろう。一発で絶命させた。

 スラリと伸ばした右手にあるのは南部十四年式拳銃。その銃口から白煙が糸を引いたように靡く。

 「俺に用か?」

 男達はいきなり発砲されて、呆然としていた。こいつら、確かに兵隊上がりだが、ろくな戦闘をしていないな。そう直感した。戦場に行ったと言っても、まともに鉄砲を撃てる奴なんて数える程しか居ない。それは散々、戦場で見てきた。臆病な奴ほど、普段、よく吼える。そんな奴等が引き揚げてくれば、チンピラに身を落としていてもおかしくはない。

 「用が無いのか?じゃあ、死ね」

 再び発砲した。今度はスコップを持った男だ。鍛え抜かれた射撃の腕は10メートル以内であれば、決して外さない。その場に居る誰もが思った。こいつはまともじゃないと。幾ら戦後の混乱期のヤクザと言っても、抗争でも無い限り、いきなり殺すなんて事は無い。今回もちょっと痛めつけて終るつもりだったのだろう。

 「た、助けて」

 一人が逃げ出した。慌てて他の連中も逃げ出した。それ以上、撃つことは無かった。死体は路上に転がる。警察官がやって来た。殺人事件だ。当然だろう。俺は堂々と応対する。

 「路上に放置されている射殺体はあなたがやったそうだが?」

 私服の刑事は恐々と尋ねる。戦前の特高などに比べると優しいもんだと思った。

 「あぁ、あれか。チンピラが私の土地を奪おうとしたから殺した」

 はっきりと伝えた。刑事と警察官は互いに顔を見合わせる。

 「それで・・・私を捕まえるか?」

 「えっ・・・えぇ、殺人ですから」

 刑事は手錠を懐から出す。彼の目を見た。それは別に睨むとかじゃない。どこか虚ろな目だったかも知れない。刑事はこちらの顔を見て、一瞬、強張る。

 「あなた・・・軍ではどこに?」

 「南方にね」

 「南方ですか」

 「あぁ、マラリアで多くの部下を失った。次に餓死で部下を失った。戦闘で死んだのは僅かだったよ」

 「そ、そうですか。それはご苦労様でした」

 刑事は手錠を懐に仕舞う。

 「俺を逮捕しないのか?」

 「路上に転がっているのはヤクザの舎弟です。どうせ喧嘩でしょう」

 刑事はそう言って出て行った。それからヤクザの舎弟が顔を出す事も無くなった。私は死ぬことも出来ず、自分の人生を歩み始めた。

 不思議なものだ。あれだけ大きな戦争で世界が苦しんだと言うのに世界はまだ戦争をしていた。私は商社に入って、好き好んで戦地や危険地帯と呼ばれる場所に向かった。同僚からは頭がおかしいと言われた。だが、朝鮮半島、ヴェトナム、中東。戦争なんて何処でも同じだ。あの戦争を戦い抜いた自分には何も変わりはしなかった。そこに物を運び、そこから物を運び出す。それだけの仕事だ。様々な相手と取引をした。王族からテロリストまで、ほとんどの商社マンが不可能だと言った相手すら篭絡した。今の商社にはもう残っていないだろう。全ては陸軍中野学校で叩き込まれた技術と実際に経験した修羅場の数のおかげだ。

 定年まで勤めた商社。重役でという声もあったが、現場が好きだと何度も断った。そのせいか、給料だけは並の重役以上に貰っていた。おかげえ財産に困ることは無い。そんな財産も残す妻も子も居ない。狙っているのは遠縁の顔も知らぬ奴等ばかりだ。そんな奴等に財産を残したところで意味など無い。


 「爺さん、元気にしているか?」

 その遠縁の一人が突然、やってきた。慌てて拳銃を引き出しにしまう。俺はよく知らないが、妹の息子らしい。妹はもう20年も前に死んでいる。その息子だと言われても正直、何とも思わない。奴は事ある事に私の家に来ては色々せびっていく。小遣いで1万円も渡してやれば帰っていくのだが、どうにもならない奴だ。こんな奴に遺産が渡ると思うと、何とも情けない。

 「爺さん、デイサービスとか通わなくて良いの?」

 「デイサービス?そんなもん知らん」

 「最近、結構ボケてきたって言うじゃないか。爺さんは財産もそこそこあるし、心配だよ。俺が後見人なろうか?」

 心配そうな顔で甥はそう言う。だが、それは嘘だ。単に少しでも早く私の財産を自由に使いたいだけだろう。何ともくだらない奴だ。

 「大丈夫だ。すでに区役所からは地域包括の職員さんが来てくれてる」

 「ちっ、そうかよ。まぁ、いつでも見に来てやるからな」

 「そうかい」

 奴はしれっと右手を出しやがる。最初の頃は「すまんな。ちょっとガソリン代が」とか可愛い言い訳をしていたが、最近は無言で手を出すだけだ。まぁ、イイ。こんな奴の顔をいつまでも見ていたいとは思わない。サイフから一万円を出して渡してやる。甥は当たり前の顔で一万円を受け取り、帰って行った。

 再び、拳銃を取り出す。拳銃というのは所詮、鉄の塊だ。放置すれば錆も浮くし、やがて、朽ちていく。だから整備をしてやる必要がある。南部十四年式拳銃の分解は手馴れている。最初から説明書など無い。教官から教わるだけだ。何度も、何度も組み直す内に身体が覚える。マガジンを外し、ボルト後端のノブを中央のピンを押し込みながらクルクルと回して外す。それから銃身と一緒になっているロッキングブロックを指で押しながら後退させ、銃把にあるフィールドストリップボタンを押しながら、トリガーガード部分を下げるとロッキングブロック部分の固定が外れ、前に出て来る。ロッキングブロックにはボルト部分も一緒になっているので、ボルト後端からスピリングを抜き、撃針部分を取り出す。分解清掃と言ってもこの程度の作業だ。あとは油を差せば十分だ。丁寧に各部にホームセンターで買った機械油を噴き付ける。丁寧にウエスで拭く。そして冷蔵庫から冷やしてある8ミリ南部弾を取り出す。銃弾の中に入っている火薬も劣化する。劣化を遅らせるには湿度と低温にすることだ。だが、それでも70年の時を経た銃弾が無事に使えるとは限らない。そこで、8ミリ南部弾に関しては途中で散弾銃の散弾から火薬を取り出して入れ替えている。正直、火薬の成分が違うから作動に不安はあるが、湿気って使えないよりマシだ。冷蔵庫の中で冷やされた銃弾をマガジンに押し込める。そしてマガジンをゆっくりと銃把の中に納める。そしてボルトを引っ張った。銃弾は薬室に納まる。作動は完璧だ。70年の時を超えた老骨とは思えない程の澄んだ音で拳銃は作動した。

 「来年もお前を見てやれるかな。そろそろ。私もお役御免にして欲しいよ」

 普段ならここでマガジンを抜いて、ボルトを引いて薬室を空にして再び油紙で包むはずだった。十四年式拳銃を握っていると不思議と昔を思い出す。


 玄関のチャイムが鳴った。今日は、客の多い日だ。再び、拳銃を仏壇の引き出しに入れる。そして立ち上がり、玄関に向かう。玄関を開けると、一人の茶髪の若い男が立っている。訪問介護員という奴だ。

 「こんちわッス。ゆうあい介護サービスの若林ッス」

 茶髪の男はどことなくだらしない印象の若者だ。彼の仕事ブリはどう見ても満足が出来ない。掃除、洗濯などは自分で完璧に出来るので、正直、訪問介護を受ける意味など無いが、安否確認や話し相手になることが目的だと言う。

 「調子はどうッスか?」

 最近の若者というのは目上の者に対して、礼節というのはどこに行ってしまったものか。20歳そこそこの若者にタメ口で相手されるとはこの歳で思わなかった。大きな不満なのだが、それでも来た以上はそれなりに付き合ってやる事も大事だろう。

 「まぁまぁだ。まぁ適当にやって帰ってくれ」

 「あざーす。ちょっと掃除して帰りまッス!」

 何を掃除するのか知らないが。それが彼の仕事なら構わない。まぁ、彼を信用した事は一度も無いので、金目の物は隠してある。こいつは仕事と言いながら、彼方此方を開けて回る。どうしようも無い奴だ。きっと、他の場所でも盗みをやっているに違いない。だから他人を家に上げるのは嫌なんだ。

 「コレなんっスか?」

 奴はどうやら仏壇の引き出しを開いた。ようだ。南部十四年式拳銃を手に取り、持って来た。

 「触るな。そこに置け」

 そう怒鳴ると奴は笑いながら拳銃を繁々と見る。

 「これ、本物ッスか?すげぇ、初めて見たぁ」

 「ガキが持つ物じゃない。良いからそこに置け」

 「あっ、そんなこと言って言いんすか?撃っちゃいますよぉ」

 それは男の冗談だったかも知れない。だが、そのふざけた態度が私の中の何かに触れた気がした。景色が変わる。まるでそこは70年前、命を掛けて戦った密林のようだ。銃を持った若者がまるでアメリカ兵のように見えてきた。相手が何を言っているかよくわからない。声は聞こえている。それはまるでどこか遠くの外国で使われる言葉のようで、理解することが出来なかった。筋力も衰えた老体がまるで何かに憑依されたように動き、彼の右手の手首を捻り、痛みで緩んだ右手から拳銃を奪い去る。そして、彼をそのまま、突き飛ばすように転がす。彼は床に倒れて転がり、壁にぶつかった。

 「くっそぉ〜痛ぇなぁ〜。爺、何をしやがる?」

 男は後頭部を打ったようで、怒りに満ちた表情で立ち上がる。私の目には米兵がその場に立ち上がったように見えた。敵だ。撃たないと殺される。私の中の本能が働く。至近距離で仕留める。銃口を彼の顔面に向けた。

 目の前に立つ米兵が反抗の動きを見せる前に撃つのだ。生き残る為には相手よりも先に仕掛けることしか無い。躊躇せずに撃つ。訓練された通りに身体が動く。銃身が反動で僅かに後退する中、銃弾は銃身を抜けて飛び出す。そして、それは米兵の左目に吸い込まれる。8ミリ南部弾は眼球を破裂させ、眼底を貫き、脳を貫通。そして後頭部の頭蓋骨を貫いて飛び去り、壁に埋まった。

 徐々に目の前の景色が現実に戻っていく。頭が痺れるようだ。硝煙の香りが懐かしい。目の前には一人の男が転がっている。俺の家に毎週、訪問介護に来ている若者だ。左目が潰れ、後頭部から派手に真っ赤な血と白色の脳漿が出ている。どうやら、撃ち殺したみたいだ。傷からして一発で即死。痛みだって感じたかどうかという感じだろう。

 「殺してしまったか」

 今はちゃんと理解が出来る。そして冷静に考える。人を殺してしまった。俺は初めて、殺人を犯したようだ。戦争で多くの人を殺したが、それは全て、戦闘だ。相手は武器を持ち、殺意を持っていた。だが、目の前で転がる男は武器など持っていない。殺意だってあったかどうか。そんな彼を殺してしまった。私はただの殺人犯に成り下がったしまった。だが、不思議とそれ以上に思い悩む事は無かった。罪悪感などが湧き上がらない。まぁ、こいつもそれなりにロクな人間じゃなかったからかも知れない。

 「しかし・・・困った」

 目の前で死体が転がるというのは別に人生において、初めてでは無い。ただ、この死体をこのままにしておけば、自分は殺人犯として逮捕されるという事だ。

 「死体の処理など・・・埋めるぐらいしかやったことがないぞ?」

 これまでの人生で死体を隠すなんて必要は無かった。敵なら転がしておけば良いし、味方なら荼毘してやるか、出来なければ埋めてやるかだ。だが、今回の場合、庭に埋める事は出来ても、警察が捜査をすれば、すぐに見つかるだけ、無駄な努力だ。

 「老い先短い。刑務所に入るのは構わないが」

 刑務所に入るのも老人ホームに入るのも大した差は無いと思った。ただ、もう、妻と娘の墓参りに行けないかと思うと酷く、寂しくなる。

 「まぁ・・・こいつの死体はこのままで良い。最後に墓参りでもしようか」

 二人の位牌を仏壇から取り出し、肩下げ鞄に入れる。そして南部十四年式拳銃も。そして死体を残して墓参りに出掛けた。二人の墓は近くの寺の霊園にある。歩いて行けば20分ぐらいの場所だ。何てことの無い散歩みたいなもんだ。墓参りを終えたら警察に行こう。それが人の道だと思った。


 90歳を超えても元気そうだと言われる程に足腰はしっかりしている。20分程度の道のりも別に苦にならない。神様というのは本当に罪な身体にしてくれたものだ。何もこんな長生きなどさせてくれなくても良かったものを。そんな事を思っているせいか。70年間、まともな神様などに頭を下げたことなど無い。もし、頼みごとがあるならば、戦友が眠る靖国神社に行く。神だって、仏だって、何も守っちゃくれない。そんな事は知っている。必死にお守りを胸に提げていた若い兵士もお守りごと爆弾の破片に貫かれて死んだ。神社の神主だって奴も病気でガリガリに痩せて、惨めな死に方をした。何かを信じていたって、それが助けてくれるわけじゃない。

 暑い日だった。世の中じゃ、火山や地震や異常気象が相次いでいる。正直、高齢者には厳しい季節だ。照らしつける太陽に意識は朦朧としてきた。血圧が上がってきたのだろうか、苦しい。

 目の前の景色はやがて、住宅街からあの70年前に戦った密林へと移ろう。耳には鳥の鳴き声が聞こえる。

 司令部からは密林に隠れ、敵を攪乱せよと命令を受けていた。敵は戦車も上陸させ、機関銃も持ち、圧倒的な火力と物資で攻めてきた。空には敵の戦闘機が縦横無尽に飛び回る。昼間は動けない。闇夜に紛れて動く。最初の内は敵のパトロール隊を襲撃したりした。だが、戦闘の度に兵士が次々と倒れ、塹壕には負傷者が増えていく。負傷しても治療に必要な医者も薬品も無い。傷口は腐り、蛆虫が集る。湿気の多い塹壕の中で、食料も底を尽く。やがて、栄養不足に陥った部下の間に感染症が流行る。多くの部下を失い、残った部下達もガリガリに痩せていた。それでも戦わねばならない。いや、私は国の為にでは無かった。部下達の為に食料を奪わないといけない。

 動ける部下を連れて闇夜を駆け抜け。米軍基地へと向かう。当然だが、歩哨も立っていれば、監視塔もある。鉄条網もだ。だが、恐れない。部下の為に私は南部十四年式拳銃を手にして鉄条網を潜り抜け、基地内へと入る。保管庫へと侵入した。木箱には缶詰から酒まで何でも揃っていた。これまでの軍隊生活では見たことの無いご馳走だった。部下と共にそれらを袋に詰め込み、外に出る。部下を先に行かせた。後ろを守りながら進む。そこに一人の米兵が暗闇の中から現れた。彼も驚いたようだ。手にしたスプリングフィールドM1903ボルトアクションライフル銃を構えようとした。私は一瞬、手にした拳銃を撃とうと思った。しかし、撃たずに殴りかかった。拳銃のマガジンボトムで相手を殴り倒す。彼はその場に崩れ落ちる。悲鳴を上げることを恐れた私は何度も蹴り飛ばした。どれだけ蹴っただろうか。彼は動かなくなった。私はそれを確認するとすぐにその場から逃げた。そんなことを繰り返しながら月日が経つ。そして終戦の日が来た。

 本土などでは玉音放送が流れたそうだが、通信機も無いような塹壕暮らしの我々がそれを知ったのは1週間後だった。米兵は何度もスピーカーを使って、日本語で戦争が終ったと流した。だが、それを信じることは出来ない。我々はそれからも生きる為に何度も米軍基地を襲った。終戦から一ヵ月後、上官がやってきて、投降するように命令書を読み上げた。そこで我々は投降した。あの時も湿度の高い、咽返るような暑さの日だった。投降した時、やっと解放されたと思った。そして日本がどうなっているか。妻や息子はどうしているか。心配だった。

 密林の中を彷徨いながら歩く。何処から敵が現れるかわからない。危険だ。フラフラと私はそのまま、目的もわからぬまま、目に映る密林を歩き続けた。墓参りという事はすでに頭に無い。70年前のあの時に戻ったようだ。


 夕暮れとなり、家に残した死体が発見された。仕事中に戻ってこないため、職場の上司が見に来て、移動に使う電気自動車だけが残されていた為に、警察に相談した。警察は留守宅だったが、緊急性があるとして扉を破り、中で死体を発見した。頭部には銃創があるのが一目でわかることから、事件として家主を緊急指名手配した。

 夕方のニュースに事件の事が流れた。そんなことを私が知るはずも無く、夕暮れの街中を彷徨っていた。

 ふっと意識が戻る。自分は何を考えていたのだろうか?ここに至るまでの記憶が思い出せない。認知症という奴だろうか。認知症というのはただ、物忘れが酷いだけじゃないらしい。脳に障害が起きる病気が認知症であり、物忘れ以外にも理解力の低下や意欲の減衰、言葉を失う、失禁など、多くの症状がある。その中には譫妄と呼ばれる妄想の世界に入っていく者も居る。ひょっとすると今の自分がそうかも知れない。殺人を犯した。その記憶はまだ、残っている。段々、自分の中の何かが壊れていく。自分が自分じゃない感じだ。多分、もうすぐ、自分は失われる気がする。今だって、自分の知らない公園のベンチに座っている。墓参りに出たはずなのに。もう、墓参りも叶わないのだろうか。

 鞄の中にそっと手を入れる。南部十四年式拳銃の地肌に触れる。この蒸し暑い日に、ヒヤリとする金属の触感。もう、何もかもどうでも良くなった。このまま自首をしようか。そう思っていると、夕闇に染まる公園の入口から警察官が二人、こちらに向かってくる。これは天命だろうか?自首しようと彼等を見ていると、意識は途切れていく。不鮮明な視界。もう頭は何も考えられない。

 「お爺さん、ここで何をしているの?」

 警察官の一人が声を掛けた。彼等は近所から見慣れないお爺さんがベンチにずっと座っているという通報を受けて来たのだ。声を掛けたが呆然としたように一点を見詰めた高齢者は何も話さない。二人の警察官は顔を見合わせる。

 「お爺さん、僕らと一緒に来て貰おうかな」

 警察官が高齢者を連れて行こうと腕を掴む。その時、グチャグチャだった頭の中がスッキリとする。だが、それは元に戻ったわけじゃない。少尉と呼ばれた時代に頭が戻っただけだ。周りは全て敵だ。警察官の手を払い除ける。

 「おっ、大丈夫ですか?」

 手荒く払われても警察官は嫌な顔せず、相手を心配する。彼が警察官だと理解が出来ない。言葉も理解出来ない。わけのわからない相手は敵だ。鞄から拳銃を取り出す。左側面の安全装置のレバーをグルリと180度回して解除した。その動きはあまりに滑らかで、目の前に立つ警察官は何事が起きたか理解が出来なかった。眉間に銃口が突きつけられ、発砲された。一発の銃声で警察官が倒れる。近くに立っていた警察官は慌てて腰から拳銃を抜こうとする。だが、日本の警察官のホルスターは落下や奪われるのを防止する為に拳銃を覆うようにカバーが設けられている。その為、抜くのに手間取る。

 パン

 乾いた銃声が鳴り響く。5メートル程度の距離など、外さない。口から入った弾丸は後頭部から抜けた。警察官はその場に後ろから倒れ、大の字に転がる。後頭部から流れ出す多量の血が水溜りのように広がる。

 敵を殺した。

 目の前に転がるのは敵だ。

 やらなければ、殺される。ここは戦場だ。早く逃げねば。俺の知っている東京に帰りたい。帰りたい。帰りたい。

 老人はフラフラとした足取りで公園を去る。


 それから20分後、偶然、通り掛った人が二人の警察官を発見した。警察と救急が駆け付けたが、二人はすでに絶命していた。後に検死でわかったことは二人は急所を撃たれて、即死だった。二人の警察官が撃たれたことで、公園を中心に包囲網が敷かれた。相手が拳銃を持っている事から、周辺住民には外出を控え、戸締りを厳重にするようにとパトカーが巡回しながら走る。帰宅途中の住民には警察官が護衛したり、パトカーで送り届けるなど、安全対策が施される。

 老人は認知症によって理性も知性も失っていた。だが、それでも傍目からすれば、ただ、フラフラと徘徊する老人程度にしか見えないだろう。だが、今の彼の目は野獣のように鈍い輝きを放っていた。

 警察はすぐに警察犬を呼んだ。老人を追跡する警察犬。そして彼等を警護するために完全武装したSITの隊員が一緒に行動する。幸いにして、天気は良い。臭いが雨などで流される心配は少ない。警察犬は臭いを嗅ぎながら進む。相手は90歳を超える高齢者だ。行動範囲はそれほど広いはずが無かった。すぐに捕まえられる。誰もがそう思っていた。だが、それは早い段階で断たれた。すぐの場所で警察犬は臭いを見失ったからだ。捜査員はここでタクシーに乗ったのではという推測を立て、すぐに都内のタクシー会社などを手当たり次第に当たった。

 その頃、一台のタクシーに老人は乗っていた。タクシーに警察から拳銃を使った殺人事件が起きた事が知らせら警戒するようにしていた。だが、誰も老人が犯人だとは思っていない。老人はタクシーに墓地の住所を言った。無意識だろうか。タクシーの運転手は気味悪がった。こんな時間に高齢者が墓地に何の用かと。それに後部座席に座る老人はブツブツと何かを言っている。早く、降ろしたかった。

 タクシーは墓地へと辿り着く。

 「お客さん、4360円になります」

 「あぁ」

 老人は鞄の中に手を入れた。そこに財布があるのだろうか。そう思いながら運転手はルームミラーを見ている。このお金のやり取りをする時が一番、危険だからだ。強盗に遭いそうなったら、すぐに車から降りて逃げる。殺されるよりマシだ。そう思いながら老人を見ている。

 「あっ・・・」

 老人は何か、嗚咽を漏らした。運転手は怖くなる。そして老人は鞄から拳銃を取り出し、躊躇無く、運転手を撃った。一瞬でフロントガラスには赤い血と白い脳漿が飛び散る。それから老人はタクシーから降りた。フラフラと彼は通いなれた墓地の中を歩き、妻と娘、両親が眠る墓の前に来た。彼は静かに祈る。何を祈ったか。それは誰にもわからない。

 そして彼は再び歩き始める。

 警察は老人の追跡を行っていた。タクシー会社を当たり、付近で客を乗せたタクシーを発見した。最近のタクシーは全てGPSが搭載されており、その位置は常にタクシー会社が把握している。容疑者を乗せたと思わしき、タクシーとの無線通信を試みる。だが、運転手からの応答は無い。車も同じ位置で動かない。彼の携帯電話にも発信するが、応答は無い。これは何かあったという事で、警察はすぐにタクシーの位置へと急行した。

 タクシーの中では運転手が至近距離から額に一発の銃弾を受けていた。即死だ。鑑識が証拠を集めるが、それをしなくてもその銃弾は先の事件で使われた物と同じだ。鑑識の結果から、8ミリ南部弾という珍しい銃弾であることが判明した。8ミリ南部弾は主に戦前に南部銃器で開発された拳銃に用いられた弾薬であり、戦後にこの弾を使うモデルが開発される事は無かった。


 捜査本部はタクシーに残された車内の防犯カメラ映像をチェック。そこには一人の高齢者が拳銃でタクシーの運転手を殺害する様子が記録されている。その様子に捜査員の多くが驚く。

 「この爺さん、何者だ?撃ち殺すのに躊躇いが無い」

 「それに銃の撃ち方が普通じゃない。撃ち慣れた奴の動きだ」

 捜査員達は口々に驚きを口にする。相手が高齢者と言えども、これだけの射撃の腕前があれば、銃撃戦は危険だった。捜査員も拳銃は携帯するが、多くの警察官の射撃練習時間などたかが知れている。5メートル先でもしっかり当てられるかどうか。手馴れた者との戦闘になれば、防弾チョッキを着ていても危険だった。

 「奴はタクシーの運転手殺害後、逃走したようだ。運転手殺害の動機は不明。タクシー内に売上金も運転手の財布も携帯電話も盗まれていない」

 そして、映像解析から使われた拳銃は南部十四年式拳銃だと判別する。相手が高齢者であり、記録から元軍人だと判明しているので、多分、戦前から個人で所有していた物だろうと推測された。容疑者は猟銃所持の許可も受けていることなど、彼が銃の扱いに熟知しているだろう事が判明した。

 狭まる包囲網。だが、行動が読めない。彼を知る地域包括支援センターの相談員から得た情報では、最近、認知症が酷くなり、認知機能が低下してきたそうだ。90歳を超える高齢者の行動範囲はそれほど広くないと仮定された。墓地から半径3キロ以内の捜索が徹底された。

 追跡。

 遠くから聞こえるサイレンの音。感じる。追われている。弾薬は乏しい。残り3発しか無い。何故、追われるか。何故、逃げるか。理解は出来ない。わけのわからぬまま。何処へ向かうとも知れず走っていた。老いた体は既に限界など超えていたはずなのだが、それを感じる神経が麻痺しているのか、不思議と疲れなどを感じない。まるで若い頃のように身体が動く気がする。

 認知症には様々な症状がある。脳の機能が破壊され、神経がやられる場合、歩行機能が失われたりして、身体が動かなくなっていく場合もある。だが、幸いにして彼は痛みなどを感じる機能が失われた。どんな無理をしても疲れない。

 警察の追跡が無くなった頃、身体が悲鳴を上げた。幾ら、無痛になっていると言っても、身体には限界がある。動かそうと思っても体は動かない。意識はやがて、正常に戻っていく。ぼんやりだが、自分のした事が浮かび上がる。また、人を殺した。今度は何の罪も無いタクシーの運転手だ。だが、そんな記憶もすぐに薄れていく。

 「ここで死ぬのか?」

 何処だかわからない場所で、一人死んでいく。それが私に与えられた罰なのだろうか。こんな事なら何故、戦争で死ななかった?何故、私は生きて、帰ってきてしまったのか。待つ者も居ないこの国に。

 「うぅぅ・・・、なぜ、あの戦争が無ければ・・・あの戦争さえ無ければ」

 嗚咽を漏らして泣いた。小さな防犯灯の灯りしか無い寂れた路地で一人の老人が倒れこみ、嗚咽を漏らして泣いている。

 絶望した。もう身体は動かない。このまま警察に捕まるぐらいなら、いっそ、ここで自分の頭を撃ち抜こうか。どのみち、私の最期は惨めなものになるだろう。一人、寂しく牢獄の中で死ぬのだ。

 「あぁ、そうだ。私は残されたのだ。あの時代に。あの忌わしい戦争に。一人だけ残されて、孤独な時間をまるで拷問のように受けてきた。幸せなど、何処にもない。ただ、死を待っていた。なのに・・・何故、今、自分に引金が引けない」

 自殺する恐怖。今更、そんな恐怖が自分に残っているとは思っていなかった。だが、事実として、自分に銃口さえ向けることが出来ない。

 「死ねないのか?」

 そう自問自答した時、爆音と共に眩しい光が当てられる。警察か?そう思った時、それは目の前で停まった。

 「何、道の真ん中で寝ているんだよ?」

 目の前に停まったのはバイクだ。250ccぐらいの小型バイクだ。それなりに改造がしてあるらしく、排気音は不快な程に爆音を立てている。そのバイクから降りてきたのはまだ10代ぐらいの若者だ。金髪のリーゼントに特攻服姿の今時、珍しい暴走族だ。そんなことが理解が出来る程、老人の頭は回っていない。目の前に立つ者。全てが敵に見える。拳銃を構えようとする。だが、腕は震えている。もう身体が限界なのだろう。

 「ちっ、爺さんか。轢き殺すぞ?」

 若者は近付いてくる。

 「殺すぞ」

 老人はありったけの力で声を出した。

 「ああん?殺すだと?」

 「あぁ、そうだ。それ以上、近付いたら、殺す」

 若者は微かに口角を上げた。笑っている。

 「そうか・・・あんた・・・俺を殺してくれるのか?」

 「死ぬのが怖くないのか?」

 「怖い?はん・・・死ぬなんて怖くないね」

 震える手で狙いを定める。だが、彼の右腕に見覚えのある印を見た。

 「旭日旗・・・。お前、帝国軍人か?」

 「帝国だぁ?そんなの知らねぇ。だが、俺は特攻隊長としては名の知れた男だよ」

 「特攻・・・。そうか。それは済まなかった」

 老人は拳銃を降ろした。

 「なんだよ?拳銃で俺を殺すんじゃなかったのか?」

 「同胞を殺してどうする。どの道、戦場に出れば明日をも解からぬのに」

 「戦場・・・か。そうだな。こんな糞ったれな命なんて明日でも果てるかもな」

 「私は・・・私の死に場所へと向かっている。先を急ぐからな」

 「死に場所って何処だよ?」

 「靖国じゃ。わしも本当ならあそこに祀られるべきだった。それが叶わぬなら、せめてあそこで死にたい」

 「そうか・・・死に場所か。爺さんは死ぬ場所を見付けたんだな」

 若者はバイクに跨る。

 「爺さん・・・乗れよ。靖国までここから、まだ5キロはある。爺さんの身体じゃ、無理だよ」

 「良いのか?私は追われているのだぞ?」

 「そんな物を持っているくらいだからな。安心しろや。俺も警察から追われるのは慣れている。あんたが死ぬまで警察には指一本触れさせやしない」

 「頼もしいな」

 老人はバイクの後ろに乗った。

 「爺さん、しっかり俺に掴まってくれよ。あんたを振り落としても停まらないぜ」

 「わかったぁ!やってくれ」

 バイクは爆音を鳴り響かせる。

 老人の甥の家には捜査員が聞き込みに来ていた。

 「ほ、ほんとうに叔父さんが人を殺したのか?」

 「まぁ、状況証拠だけで言えばそうなりますね」

 甥は絶望的な顔をした。

 「そ、そんなぁ。叔父さんの、叔父さんの遺産はどうなるんだよ。賠償で全部、失っちゃうんじゃないか?いや、今から家に行って、取れるだけ、取ってくるか?」

 「あの、家の方は殺人現場でもありますので立入禁止ですし、親戚関係にあると言っても、物を勝手に持ち出せば、窃盗の罪になりますよ?」

 刑事がそう彼を嗜める。

 「馬鹿な。あそこにあるのは全て、俺が相続するはずの物だぞ?家だって土地だって。あれだけでも億はある」

 「それでも、あなたはあの人とは他人ですよ?」

 「くそ。くそ。くそ!あの爺。こんなことならもっと早く、どっかの施設にぶち込めばよかった。特養が入れねぇって言うから待っていたのによぉ」

 刑事は怒り狂う甥の姿を見て、微かに笑う。

 「まぁ、話はわかりましたので、お気の毒でありますが」

 そう言い残して去っていく。

 墓地より半径3キロ地点で主要な幹線道路には検問が設置された。警察官達が車を止めて確認していた。そこに爆音が鳴り響く。

 「ちっ、暴走族か。この非常時に」

 警官の一人は毒づく。

 「族は無視だ。今は指名手配犯の方が重要だ」

 上司の言葉で皆が暴走族は相手にしない事になった。だが、爆音がどんどん近付いてくる。

 「どけどけ!お前等に用は無いぜ」

 バイクは渋滞の列を縫うように走り抜け、検問に近付く。

 「停まれ!停まれ!馬鹿野郎」

 警察官達もバイクを停めるために棒や警棒を振り回す。しかし、バイクは派手にアクセルターンを決めたりして、寄せ付けない。

 「ガキが舐めるなよ!」

 一人の警察官が掴み掛かろうとするが、後ろに乗っていて老人は彼を蹴り飛ばした。転がる警察官を見て、他の警察官達が騒然とする。

 「公務執行妨害だ!」

 誰かが叫んだ。警察官達の目の色が変わる。殺気立つ現場。

 「やるじゃん!」

 若者は笑いながらバイクを走らせる。あと少しで検問を突破できる。

 パン!

 乾いた銃声が響き渡る。老人は見た。一人の警察官が威嚇射撃を行ったのだ。空に向けて発砲された弾丸。老人は撃った警察官を見た。何かを叫びながら拳銃を水平にした。老人は鞄から拳銃を抜いた。そして狙う。不思議と手は震えない。不規則に走り回るバイクからの射撃は困難を極めた。しかも相手は10メートル以上も離れている。当たるかどうかもわからない。相手も水平に銃を構えたが、撃つつもりは無い。

 「拳銃を持ってるぞ!」

 誰かが叫んだ。警察官達に動揺が走る。

 「爺さん、撃たれるぞ!」

 若者が叫ぶ。そうだ。撃たれるかもしれない。何故か、言葉がはっきりと理解が出来る。無意識に引金を引いた。撃針がスプリングの力で前進して、薬莢のプライマーを突く。火薬が発火して、弾頭が弾き出された。

 弾丸は拳銃を構えた警察官の右肩を撃ち抜く。それは奇跡と言っても過言じゃない。警察官は撃たれた衝撃で吹き飛ばされるように倒れる。実際の衝撃はそこまで無いと思うが、初めて撃たれた精神的な衝撃もあるようだ。

 「指名手配の老人だ!追え!追え!」

 警察官達はパトカーに乗り込み、一斉にバイクを追い始めた。バイクは検問を突破して、一気に加速する。

 捜査官達は驚いた。容疑者がバイクを使って検問を突破したからだ。とても仲間が居るとは思えない事件。多分、バイクの運転者は脅されていると言う読みだった。警視庁は一人の警察官も撃たれた事で、警視庁総監は射殺も止む無しとしてSATの出動を許可した。機動隊に加えて警備部長はSATを追跡中の犯人の進路を先読みした場所へと送った。

 パトカーの追跡から逃れる為、バイクは狭い路地を縫うように走り抜ける。警視庁は空かヘリまで繰り出して、その行方を追った。警視庁総監は苛立ちを隠せない。状況を報告に上がった秘書官に怒鳴る。

 「まだ、追い詰められんのか?」

 「はぁ・・・交通課で確認したら、バイクの男は暴走族の特攻隊長らしくて、運転技術が高いらしいです」

 「こいつは何だ?脅されているんだろ?」

 「さぁ・・・接点がまったくありませんから、偶然、遭遇して脅されているんだと思いますが」

 「だったら、なんで、こうも警察を攪乱して逃げるんだ?」

 「わかりません」

 「とにかく、男が何者であれ、人質には違いない。殺されたりしたら、警視庁の失態だ」

 「はい」

 SAT隊員は犯人が来ると予測される国会議事堂や皇居周辺に配置された。

 「来ますかね?」

 豊和工業製M1500ボルトアクション式狙撃銃を構えた隊員が隣の先輩隊員に尋ねる。

 「さぁな。なにせ相手はボケているからな。道に迷っている可能性もある」

 「じゃあ、違う所に行っちゃうのですかね?」

 「もしくは鼻っからここが目的地じゃないかだな」

 「先輩は何処に向かっていると思いますか?」

 先輩隊員は少し考える。

 「俺なら・・・仲間が祀られている靖国神社かな。ボケると昔の事を想い出すってよく言うじゃないか」

 「マジっすか?靖国なんて警戒して無いッスよ?」

 「それ以外、無いだろう?別にテロリストじゃないんだし」

 「そこで何をするつもりでしょうか?」

 「死ぬんだよ。理由はわかんねぇけど、人をやっちまったし、老い先短いし、死にたいけど、家じゃ死にたくないんだろ」

 「それでこの騒動っすか?」

 「色々な偶発が重なった結果だ。本人だって望んだ事じゃない気がする」

 「刑事みたいっすね」

 「刑事志望なんだよ」

 バイクは路地裏を走り抜け、目の前に現れたパトカーを蹴りながら強引に方向転換する。コケそうになるのを何とか立て直し、さらに逃げる。

 「くそっ、東京中のパトカーが集まって来たみたいだぜ」

 若者は必死だった。パトカーや白バイに追われるのはこれまで何度も経験してきた。だが、その規模とはまったく違う。振り切っても振り切っても現れる。

 「やっぱ、あのヘリが原因か」

 若者は恨めしそうに空を見た。彼等の動きは全てヘリが見ている。サーチライトが暗がりの路地すら照らし出す。

 「ちっ、俺を舐めるなよ」

 若者はさらにバイクを狭い路地に入り込ませる。膝が壁に擦りそうになりながら彼は走り抜けた。

 「爺さん、しっかり捕まってろよ」

 若者の言葉に老人は彼の腰に必死にしがみ付いた。

 ヘリの乗務員はバイクが袋小路へと入り込んだと思った。すぐに本部に連絡をする。パトカーは入れないので、すぐに降りた警察官達が路地へと入っていく。ここで追い詰める。手にはジュラルミンの盾も持ち、彼等は決死の覚悟で向かった。人一人が薦める程度の狭い路地の先は行き止まりになっている。

 「どうなってやがる?」

 先頭の警察官はそこに誰も居ない事を確認した。人どころか、バイクすら影も形も見えない。

 「誘導した路地を間違えたんじゃないか?」

 バイクの爆音も聞こえない。追跡しているバイクは暴走族の五月蠅い排気音のはずだが、それさえ聞こえないのだ。

 「探せ、まだ近くに居るはずだ」

 その頃、若者と老人は路地の隣の家のガレージに入っていた。若者はここに後輩の家があることを知っていて、入り込んだ。

 「先輩、大丈夫っすか?」

 「悪いな英二。匿って貰ってよぉ」

 若者の前には小柄な若者が居た。彼は若者の後輩のようだ。

 「テレビ見てたんすけど、その爺さん、人を殺したんでしょ?」

 「らしいな」

 「脅されているんすか?」

 「馬鹿野郎。俺が爺さん如きに脅されるかよ」

 「そ、そうすっよね。じゃあ、知り合いなんすか?」

 「さっき会ったばかりだ」

 「えっ・・・マジですか?なんで一緒に行動してるんすか?」

 若者は頭を捻る。

 「まぁ・・・なんちゅーか。成り行きだ。成り行きって奴よ」

 老人は疲れたのかボーとしている。

 「俺、何か飲み物持って来るッス」

 「おお、すまんな」

 若者は次の手を考えた。多分、警察の事だから、この家もすぐに嗅ぎ付ける。何とかしないといけない。

 「バイクで出ればすぐにバレるし・・・」

 ふと、まるで死んだように眠っている老人が目に入る。

 「おい、英二、ちょっと電話しろ」

 捜査員や機動隊員達は付近の探索を進めていた。無論、路地に隣接する家も聞き込みをするが、手掛かりは得られない。

 そこに救急車のサイレンが響き、警察車両などが道を開ける。

 「誰か撃たれたのか?」

 場は騒然とするが、すぐに消防庁からの連絡で高齢者が倒れたという急患依頼だった事がわかり、皆が捜索に戻る。

 救急車は家の前に停車して、ストレッチャーを降ろす。二人の救急隊員が玄関に向かうと英二が彼等を迎え入れる。

 「うちの爺さんが死んだようになっていて」

 ガレージに行くと、確かに一人の老人が眠っている。

 「だ、大丈夫ですか?」

 二人が老人に駆け付けようとした瞬間、後頭部を金属バットで殴られる。

 「せ、先輩」

 殴ったのは若者だ。二人の隊員が気絶するまで殴った。

 「安心しろ。殺しはしない。全部、俺がやったことにしろ」

 若者は救急隊員の制服を脱がし、老人を起して、それを着させた。そして、二人は救急車へと戻る。

 「爺さん、あと少しだ。頑張ってくれ」

 若者は救急車を走らせた。

 警視庁は容疑者を見失って10分後に意識を取り戻した救急隊員の連絡によって、容疑者が救急車を奪って、逃げ出した事を掴む。すぐに救急車の位置がGPS情報によって全パトカーに知らされるが、路上に放置された救急車に容疑者達の姿は無かった。

 「けっ、サツにパクられるほど、ドジじゃねぇって」

 若者は老人を背負って、路地を隠れながら靖国神社を目指した。いくら喧嘩が強くても、普段から、鍛えているわけじゃない。大柄な老人を背負っての徒歩はかなり脚にくる。

 「おい・・・もう、ダメなら置いて行け」

 老人はその様子がわかるのか。そう声を掛ける。

 「うるせぇ。黙ってろ。俺が絶対に靖国へ連れて行ってやるってんだからよぉ」

 若者は汗だくになりながら、夜の街を老人を背負って歩く。

 多くの警察官が国会や皇居方面に配置された。ネズミ一匹入れない程に盾を持った警察官が並ぶ。

 待機していたSAT隊員の一部に移動命令が下った。それは靖国神社だった。彼等を乗せたワゴン車が一気に靖国神社へと向かう。

 中にはさっき、容疑者が靖国へ向かうと言っていた二人の隊員の姿もある。

 「先輩の言った通り、靖国神社かもしれませんね」

 「さぁな。多分、念のためだろう」

 「しかし、救急車まで奪うなんて、どんな90歳ですかねぇ」

 「老人をバカにするなよ。最近の老人は元気だからなぁ」

 警視庁が新たに体勢を立て直す中、若者と老人は靖国が見える場所まで来ていた。若者は老人を背から下ろして様子を見ている。

 「あのクソデッカイ鳥居が見えたぜ」

 「あぁ、靖国だ」

 老人は自然と涙が頬を伝う。

 「思ったより警察官の数が多くない。歩けるか?俺を盾にして中に入るぞ」

 老人はコクリと頷く。拳銃を手にして歩き出す。

 「お前には色々と迷惑を掛けたな」

 ふと、老人は口から漏らすように言う。

 「気にするな。俺は俺がやりたいようにやっただけだ。むしろ、東京中の警察と喧嘩した気分で面白かったぜ」

 二人が靖国神社の前に姿を表した。それを見ていた警察官達が騒然とする。

 「と、停まれ!」

 そう声が掛けられる。だが、若者が大声を張り上げる。

 「どけ!どかないと俺の命が無いぞ?」

 人質が叫ぶという点が変だったが、さすがに警察官も下手に動けない。

 「へっ、ビビってやがる。腰の拳銃は何だっていうんだよ」

 若者は笑う。そして二人は靖国神社の中へと入っていく。警察官は彼等を囲むようにしている。

 「お前等、神社の中から出て行け。じゃないと、俺は殺されるぞ!」

 若者の叫びに警察官達は安全の為に境内から出た。無人の靖国神社。何かとても神聖な気分になる。

 「すげぇな。こんなに気持ちがスッキリするのは初めてだぜ」

 若者は誰も居ない神社に満面の笑みを浮かべる。

 「あぁ、私もだ」

 老人は神妙な顔つきになった。

 「爺さん、ビビったのか?」

 若者が茶化す。

 「いや・・・頭がハッキリとしてきただけだ」

 老人はそう答えて、痛む身体を押して歩く。もう身体は限界だ。ここまで年齢を超えた動きをしてきた。骨折だってしているかもしれない。だが、そんなのはどうでもイイことだ。今はただ、この境内を歩くだけ。広く長い境内を歩き、拝殿に向かう。

 「ちっ、本当にこっちに来るなんてな」

 SAT隊員が現場に到着した。彼等は車から降りるとすぐに突入準備をする。

 「おい!突入は周囲に隠れる場所が少なくて難しい。狙撃でやる。飯村、お前等のチームでやってくれ」

 班長が命令を下す。狙撃銃を持った隊員が駆け出す。鳥居から拝殿に向かう二人が見える。距離200メートル。確実にやれる距離だ。だが、老人の後ろに人質が立っている。まるで人質が容疑者を押している感じだ。

 「人質が邪魔だ。どうにかならないか?」

 「無理だ。近付けない」

 隊員はスコープを覗き、狙いを定める。フラフラと歩く二人は重なっていて、とても狙える感じじゃない。一つ間違えれば、人質を撃つ事になる。

 「相手は高齢者だ。掠らせても死ぬかもしれない」

 「そこまで気にしたら何も出来ん。とにかく容疑者の右腕を狙え」

 狙いが拳銃を持っている腕を捉える。

 指先をゆっくりと引金に置く。軽いタッチで撃針が動いた。

 銃声が静寂の夜に響き渡る。弾丸は老人の二の腕を掠る。彼はその衝撃に倒れ込む。

 「爺さん!」

 老人は倒れ込みながらも拳銃を左手に持ち換えた。そして倒れたまま、鳥居の方角を見る。そこには二人の人影、片方が銃で狙っている。ボルトを引いているようだ。痛みなど・・・もう関係ない。伸ばした左腕の先に敵が居る。本物の敵だ。これは戦闘だ。70年前、毎日、生きるためにやっていた事だ。何も怖くなどない。

 乾いた銃声が鳴り響く。

 通常、拳銃弾の有効射程距離100メートルが限界だ。200メートル先など、昔の銃にはタンジェントサイトで刻まれた物もあるが、現実的では無い。

 ガシャン。「うわっ」

 狙撃銃を構えた隊員は驚いた。隣の隊員も何が起きたかわからない。

 「どうした?」

 「弾が当たった」

 「嘘だろ?どこだ」

 「狙撃銃のスコープ」

 見れば、狙撃銃のスコープが破損していた。さすがに弾の威力も弱っていたのでスコープを凹ませた程度で跳ねて何処かにいっただけだが、200メートル先の距離で当ててきたのだ。二人はすぐにその場から逃げた。

 「爺さん、奴等、逃げていくぜ」

 「そうか。だんだん、目が霞むようになってきた」

 「大丈夫か?」

 「すまん。拝殿の前まで連れて行ってくれ」

 老人は血が流れる右腕をダラリと下げて、拝殿の前へと行く。

 「すげぇな。なんで、こんなに気持ちが落ち着くんだろうな」

 若者はただ、その場に立ち尽くした。

 「この日本・・・いや、国家なんて誰もが思っていたわけじゃない。自分の大切な者が餓死したり、他国の荒くれ者に凌辱されるのを皆、恐れ、戦い抜いた者達が眠る場所だ」

 老人は静かに首を垂れた。それはとても長い時間に思えた。

 鳥居から多くの警察官が盾を構えて来る。

 「爺さん、あいつらは俺が引き止める」

 「最期まで・・・すまんな。お前の事、忘れんよ。名前はなんて言う?」

 「ふっ、俺は戦場で死ぬわけじゃない。あの世まで持って行かないでくれ」

 若者は笑いながら警察官に向かって突っ走る。老人は静かに正座をした。そして左手で拳銃を持ち、銃口を喉元から頭に向けて構える。

 「やらせるかぁ」

 若者は警察官の群れに殴り掛かる。もみ合いとなる。激しい怒号。若者はこれ以上ないほどに暴れた。機動隊員達が次々と殴り倒される。

 「あいつを先に捕まえろ!」

 「突破だ!突破!自殺させるな」

 次々と警察官が境内に駆け込む。それはまるで戦場のようだった。

 だが、一発の銃声が終わりを告げた。境内の白い敷石が真っ赤な血で染まる。

 「爺さん」

 若者は振り返らずに、殴る手を止めない。誰一人、ここから先へと行かせない。爺さんを無事に天国に送るために。

 やがて、若者は警察官にタコ殴りにされて、ボロ雑巾のように倒れた。

 「くっそ。爺さんの方はダメだ。すぐに解剖に回すってよ」

 「このガキ、箱にぶち込め。色々聞きたいことがあるからな」

 若者は薄れる意識の中で老人の死を確信して笑った。

 後日。

 事件は警視庁刑事部捜査一課。

 老人が起した事件はテロの可能性が低いとして捜査一課に移された。被疑者死亡のまま、送検された。一緒に居た若者も暴行、被疑者隠避や公務執行妨害、器物破損、道路交通法違反などで立件して、送検した。老人の方は死んでしまったので形式的な物だが、若者の方は確実に刑務所に送るつもりだった。

 「くそっ・・・何がどうなってやがる」

 捜査一課長が怒鳴りながら部屋に入ってきた。

 「検察があのクソガキを起訴しないって、言ってきやがった」

 「課長、何でですか?あのクソガキ、警察官も救急隊員も殴っているんですよ?」

 「そうですよ。あれだけコケにされて起訴しないなんておかしい」

 「抗議したんですか?」

 「抗議したよ。でも、どっかから圧力が掛かったらしい」

 課長はやるせない感じで椅子に荒々しく座る。

 「圧力ってナンですか?あれだけ世間を騒がせている事件なのに」

 「さあな。あの爺さん、元中野学校らしいからな」

 「中野学校ってナンすか?」

 若い刑事がわからないって顔をする。

 「陸軍中野学校。スパイを育てる学校だ。そこの卒業は全て軍のエリートであり、戦争が終って、社会に出ても実力者として名を馳せた奴ばかりだと聞く」

 「あの爺さん・・・スパイですか。どうりで並外れているわけだ」

 「それで、俺らはこのままダンマリですか?」

 「上からもそう来ている。あのクソガキも釈放の手続きがされているよ」

 その頃、警視庁総監は手にした手紙を燃やした。

 「防衛省の方からの要請は片付いたか?」

 秘書官に尋ねる。

 「はい・・・ですが、良かったのですか?」

 「仕方があるまい。被害者への賠償は容疑者の財産を全てで片付いたわけだし」

 「しかし・・・防衛省は何で、こんな事件に関与を?」

 「器は違えど、血は同じという事だろう。あの戦争を戦い抜いた英霊を傷付けたくないんだろう」

 「はぁ・・・あまりよくわかりませんが」

 「事件は終った。それは納得のいかない形でもだ。気にするな。いつか、あの戦争の呪縛から人々が解き放たれる時がくるだろう」

 戦後日本はゆっくりと深く、沈もうとしていた。留置所で若者はぼんやりと天井を見ていた。老人は最期にどんな想いだったのか。

 「俺も・・・いつか、死ぬのか。何もせずに終るのは嫌だな」

 若者は老人の最期を想いながら笑っていた。

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