第7話
青空が広がる王都プランタン。その空に向かってそびえる、オレオル聖堂の濃い灰色のドーム。そのドームを目指し、多くの人々が集う。オレオル聖堂がローラン王太子を祝福する礼拝を行う。そのことを伝え聞いた人々だ。聖堂の周辺は大勢の見物客でごった返し、聖堂前の庭も人で埋め尽くされている。運良く身廊へ入ることができた人々は古い長椅子に身を寄せ合って腰を下ろし、期待に満ちた瞳で祭壇を見守っている。長椅子に座れなかった人々は入口付近の拝廊で押し合いへし合いだ。
その頃、聖堂の前庭に数台の豪奢な馬車が到着していた。中でも最も煌びやかな馬車の扉が開かれ、現れたのはカンテ伯ダミアン・フロベール。続いて現れたのは、優美な衣装に身を包んだローラン王太子。ローランは聖堂のドームを見上げると優雅な仕草で跪き、敬意を表した。そして、歓声を上げる市民に笑顔で手を振る。
「すごい人だね」
「皆、殿下のご婚約を喜んでいるのでございますよ」
カンテ伯の言葉に頷き、首を巡らす。
「今日はアランブール伯も来てくれた。嬉しいよ」
その視線の先には、洒落た装いの内務卿、アランブール伯ファビアン・デスタンが微笑をたたえて佇んでいた。彼はカンテ伯にちらりと視線を送ると、慇懃な仕草で会釈をする。ローランは内務卿が連れている黒髪の少年に眼差しを向けた。
「子息か。アランブール伯」
「息子のアルフォンスです」
父の紹介を受け、礼装をまとったアルフォンスは緊張に顔を引きつらせながら足を引き、右手を胸に添えて腰を曲げる。
「アルフォンス・デスタンと申します」
「珍しいね、君が子息を連れてくるなど」
ローランの言葉に、ファビアンは顔をほころばせて息子の肩を手荒く叩く。
「共に王太子殿下の幸福を祈願しようと。それだけでなく、私が真面目に仕事をしている姿を見せてやろうと思いましてね。家ではただのお調子者と思われています故」
「お父様……!」
アルフォンスが顔を真っ赤にしてたしなめる。が、ローランは朗らかに笑い声を上げた。
「挽回できれば良いな、アランブール伯!」
そこで侍従が王太子を身廊の入り口へ導き、カンテ伯が後に続く。と、その時。彼が胡乱な眼差しを向けてきたことにファビアンは気付いた。自分が「王太子の婚約を祝う」とは言わなかったことが癪に障ったのだろう。ファビアンは目を細めるとかすかに鼻を鳴らした。
やがて一行は大勢の人々が待ち受ける身廊へ踏み入れた。
「おお、王太子殿下が」
王太子の来場を待ちわびていた人々が拍手で迎える。人々の歓声に笑顔で応えながら通路を進み、ローランは身廊の最前列の椅子へ腰を下ろした。
「オレオル聖堂か……。噂には聞いていたが、本当に小さな聖堂なのだね」
「何しろ下町の貧しい聖堂でございます故、お見苦しい点はご容赦のほどを」
カンテ伯のその言葉にアルフォンスがむっと顔を強張らせる。が、ローランは穏やかな表情を変えずに言い返す。
「見苦しくなどない。清廉で心が洗われるようだ。それに引き換え、ここ近年のプランタン大聖堂の贅沢ぶりは目に余る。後日、教皇庁からご指導願おう」
「はっ」
慌てて頭を下げるカンテ伯にファビアンが息子と顔を見合わせ、思わず笑みを漏らす。なるほど、噂にたがわぬ聡明な王太子殿下だ。アルフォンスは誇らしげな眼差しでローランを見つめた。
やがて、透き通るような美しい鈴の音が鳴り響き、皆が喜びの声を上げながらも居住まいを正す。鈴の音と共に司教らが姿を現し、内陣へ向かう。司教に続く修道士や修道女。最後に姿を現した少女に皆がざわめく。そこで司教が足を止め、人々に向かって人差し指を唇に当てる。皆は慌てて口をつぐんだ。
「……マノン」
アルフォンスは胸の中でそっと呼びかける。亜麻色の髪は頭布で隠され、陶器のような滑らかな肌が蝋燭の明かりに照らされている。〈聖女エタンセル〉は小さな両手を胸の前で合わせ、祭壇の前で静かに佇んだ。
「……あの娘が、噂の?」
ローランの囁きにカンテ伯が頷く。
「そのようでございます」
想像以上に幼い聖女にローランは驚いたらしい。感慨深げに溜息をつく。
「……ローラン王太子殿下」
アリスティードが王太子に呼びかけ、手を合わせて深々と一礼する。
「この度は我が聖堂の礼拝にご参列いただき、感謝いたします」
ローランはにっこり笑うと手を合わせて礼を返す。アリスティードは口許をゆるませ、聖堂に集まった人々に声高に呼びかけた。
「お集りの皆様。ローラン王太子殿下のご婚約を祝し、我がタンドレス王国の永久なる幸福を願い、祈りを捧げましょう」
「幸あれ」
一堂に会した人々が一斉に告げ、両手を合わせて頭を下げる。アリスティードは右手を揚げ、左手を祭壇の経典に添えた。
「天なる父、主神トルシュ。天なる母、聖母セレスティアル。タンドレスの永久なる平和と幸福を願い、祈りを捧げます。ローラン王太子殿下のご婚約を祝し、幸福を――」
その時。
突如鳴り響く轟音。割れるような金属音に皆が悲鳴を上げて身をすくめる。
「なんだ……!」
カンテ伯が咄嗟に立ち上がって口走る。が、隣のローランは冷静に鋭い眼差しを天井に向けた。
「鐘の音だ」
聖堂内に響き渡る不気味な鐘の音。壁に反響し、まるで悪魔の笑い声に包まれているかのような恐怖に包まれる。人々は口々に神への祈りを叫んだ。
「お父様……!」
ファビアンは、不安げな声を漏らす息子の手をぐっと握りしめた。そして、ごくりと唾を飲み込んでから囁く。
「……始まるぞ」
混乱に陥る皆を鎮めようとアリスティードが両手を上げる。
「落ち着いて! 聖堂の鐘です、落ち着いて!」
そして、顔を歪めて修道士たちに怒鳴る。
「誰が鐘を鳴らしているのだ」
通常、礼拝の最中に鐘は鳴らさない。アントナンやポレットたちは困惑に満ちた表情で顔を振るばかりだ。このまま天井が崩れてくるのではないか。そう思わせるまでの轟音に子どもたちは泣き叫び、気を失わんばかりに倒れ込む女性もいる。と、思うと鐘の音が急激に弱まる。皆が息を呑みながら怖々と天井を見上げる。堂内に満ちる残響の中、不意に上がる声高の声。
「これは、警鐘である」
皆の体がびくりと跳ねる。そして、目を見開いて祭壇に視線を向ける。祭壇の端に佇む少女。両手をだらりと下げ、項垂れているマノンの姿を、アルフォンスが眉をひそめて見守る。
「一体、何が起こっているのだ」
ローランは落ち着き払った様子で立ち上がり、隣のカンテ伯も腰を上げる。だが、その顔は怒りと困惑が入り混じっている。鐘の音はすでにかすかな余韻でしかない。〈聖女エタンセル〉はゆっくりと顔をもたげた。うっすらと開く瞳は虚ろだ。
「……祝福を与えることはできぬ。神はすべてをご覧になられている。隠しおおせることなどできぬ」
「おお……!」
人々が呻くように声を上げ、恐れにも似た眼差しをエタンセルに向ける。人々の困惑も意に介さず、彼女は言葉を続ける。
「私には見える。東から黒い霧が迫っている」
うわ言のように告げられる言葉に皆がどよめく。
「東……、まさか、ネーベルから?」
「そんな……!」
「何を言い出す!」
カンテ伯が口を歪めて怒鳴るが、ローランが手を挙げて制する。そして、エタンセルに向かって呼びかける。
「一体どういうことなのだ」
エタンセルは無表情で美しい王子を見下ろした。観衆は皆息を殺し、祭壇の前で佇む少女を見守っている。その祭壇の裏では、わずかな隙間に身を潜める二人の男がいた。ガスパールとピエールだ。
「お……、王太子が呼びかけている……。こんなのは予想していなかったぞ……!」
「しぃっ」
顔を引きつらせて呻くピエールにガスパールが鋭く囁き返す。そして、眉間に皺を寄せると耳をそばだてた。カンテ伯とマノンの会話は大方予想を立て、返す言葉は綿密に用意されている。だが、想定外の問いかけには、マノンの力量が試される。
「あいつを誰だと思ってるんだよ」
ガスパールが低く囁く。
「大女優、マノン様だぜ……!」
エタンセルは薄紅色の小さな唇を開いた。
「……黒い霧を呼ぶ婚姻を祝福することはできぬ」
「何と……!」
「そんな!」
聖女の言葉に皆が驚きざわめく。だが、カンテ伯が「静まれ!」と叫ぶ。
「異国と言えど、ネーベルも神の御加護を受けし王の国。いい加減なことを申されては困る!」
アルフォンスはごくりと唾を飲み込んだ。伯爵に怒鳴りつけられても、マノンの表情は変わらない。なんという度胸だ。そして、側に控える司教に目を移す。アリスティードは鋭い視線をマノンとカンテ伯に向けている。
「私には見えるのだ」
目を眇めたエタンセルは臆することなく言い返した。
「この国を覆い隠そうとする黒い霧が。それは東から。そして、この国からも溢れている」
更なる言葉に皆が恐怖の声を上げる。ネーベルの美しい姫との婚約を祝し、未来の繁栄を願うはずの礼拝に、このような予言がなされようとは。だが、当然のことながらカンテ伯は絶対に認めようとしない。
「言葉を慎め! 王太子殿下の御前でそのような不吉極まりないことを……! いかな修道女と言えど、これ以上の戯れ事は――」
と、その時。身を乗り出すカンテ伯の肩をローランが押さえた。言葉を飲み込んだ伯爵を下がらせると、眉をひそめてエタンセルに呼びかける。
「ネーベルとの縁戚は利にあらずと仰せか、修道女」
礼儀正しく、真摯な態度で疑問をぶつけてくる王太子をじっと見つめていたエタンセルは、やがて柔らかに微笑んだ。だが、カンテ伯は地団駄を踏まんばかりに声を荒らげた。
「この、皆を惑わすいかがわしい小娘が! 近衛兵! 引っ立てろ!」
その場に緊張が走った瞬間。聖女エタンセルの両の眼がかっと開かれる。
「黙れ! 神を恐れぬ不届き者めが!」
幼い叫び声に皆がびくりと体を震わせた、その時。
「今だ!」
ガスパールの合図でピエールが手許のハンドルを倒す。と、祭壇の下で何かが動く音がかすかに響く。
「……あっ!」
聴衆のひとりが指を指しながら立ち上がる。
「見ろ……! 祭壇の
人々の口から驚きの呻きが漏れ出る。アルフォンスとファビアンも目を見開いて凝視する。祭壇に掛けられた純白のクロスが、少しずつ鮮やかな青へと染まってゆく。下から上へ、煙が立ち上るように音もなく色を変えてゆくクロス。皆は騒然となった。
「天空の青……! 聖母セレスティアル様だ!」
「セレスティアル様!」
〈天の女王〉の異名を持つ聖母セレスティアルの象徴である鮮やかな青色に、聖母が降臨したと観衆は思い込んだ。鮮やかな手並みだ。ファビアンは舌を巻いた。
もちろんこれもガスパールの仕掛けだ。実は、クロスには蝋を引いた薄紙が貼られ、間には液体が満たされている。クロスの端に青の染料を封じた卵の薄皮が仕込まれ、ハンドルの操作で破られると中の染料が広がるというわけだ。遠くの観衆には薄紙は見えない。
「……なんということだ」
熱に浮かされたように呻くローランだが、隣のカンテ伯は青ざめ、唇を噛みしめている。エタンセルはしとやかな手つきで両手を広げてみせた。
「神は仰せである。善良なるタンドレスの民を不幸に導くことはできぬと。裏切りの黒い霧を晴らさねばならぬ」
「カンテ伯」
ローランの呼びかけに、目を見開いて振り返る。そこにいたのは、疑いに顔を歪めた王太子だった。
「どういうことだ。心当たりがあるのか」
「め、滅相もない……!」
裏返った声で叫ぶ。そして、憎々しげな目付きで祭壇の少女を睨む。
「あの娘が申していることはまやかしでございます!」
「まやかしならば」
エタンセルはさらに声を張り上げた。
「何故そなたの屋敷には穢れた血が溢れておるのだ。申してみよ!」
穢れた血。カンテ伯の顔色が明らかに変わる。周りの人々がどよめき、口々にカンテ伯への疑いを向ける。額に脂汗を光らせた伯爵は、体をぶるぶると震わせながら口走った。
「この……、口から出まかせを、次から次へと……!」
「出まかせと申されるなら」
唐突に呼びかけられ、弾かれるようにして振り返る。
「……アランブール伯……!」
ファビアンは自信たっぷりな表情で真っ直ぐに見据えてきた。その隣では、困惑を隠しきれない少年が立ち尽くしている。
「お屋敷の捜索を甘んじて受け入れてみられては。怪しいものが出てこなければ疑いは晴れるでしょう」
気取った調子で提案してくるファビアンに、カンテ伯の顔色がますます蒼白になる。そんな相手に構わず、ファビアンは言葉を続ける。
「書斎、寝室、衣裳部屋。それから――」
そこで言葉を止め、口の端を上げてにやりと嗤う。
「ワインの貯蔵庫に至るまで」
瞬間、カンテ伯は聴力を失ったかのように一切の雑音から遮断された。目を細めて笑いかけてくるアランブール伯。驚きと困惑をもって凝視してくる王太子。カンテ伯は、全身の血がかっと沸き立った。
「謀ったな!」
そう叫ぶや否や、カンテ伯は腰のサーベルを抜き放った。白銀の光がぎらりと煌めき、皆が恐怖の悲鳴を上げる。
「お父様!」
とっさに叫んだアルフォンスが、突進してくるカンテ伯を突き倒す。
「アルフォンス!」
ファビアンの叫び。石の床に押し倒され、顔を歪めながらもカンテ伯は身を起こすとアルフォンスの顎を殴りつける。
「あっ……!」
祭壇でマノンが両手で口を覆う。が、アリスティードが鋭く叫ぶ。
「エタンセル!」
その名にマノンが体を震わせる。そして、ごくりと唾を飲み込むと右手を天井に差し向ける。
「
聖堂に響く声に呼応するように、しゅっとはじける音が響いた。と思うと、天井画の真下で破裂音と共に眩い光が弾ける。
「わぁっ!」
「うわ……!」
聖堂に溢れた光の洪水に、皆は目が眩んでその場にしゃがみ込む。腕で顔を覆ったローランが唇を歪めて目を上げると、カンテ伯が顔を覆いながらもサーベルを振り回している光景が目に飛び込む。
「アルフォンス……、アルフォンス!」
完全に視力を失ったファビアンが叫び続けるのを背に、ローランは二人に駆け寄るとカンテ伯の手を蹴り上げた。宙を舞ったサーベルは聖堂の壁に突き刺さるとびぃんと低い音を響かせる。ローランはそのままカンテ伯の腕を締め上げてねじ伏せた。
「……うぅ」
「大丈夫か、アルフォンスよ」
王太子の呼びかけに少年は顎をさすりながら頷く。
「で、殿下……、アルフォンス!」
ようやく視力が戻ったファビアンが駆け寄る。ローランはカンテ伯を近衛兵に委ねると乱れた上着を整えた。
「私は大丈夫だ。勇敢な子息を褒めてやりたまえ」
その言葉に、ファビアンは床でうずくまる息子に目を移した。
「……お父様」
ファビアンは崩れ落ちるように膝を折ると、息子を抱きしめた。
「アルフォンス……、ありがとう……! ありがとう、嬉しいぞ……!」
父親に抱きしめられ、しばし呆然としていたアルフォンスだったが、やがてその瞳が祭壇の少女と交錯する。マノンは青白い顔つきで心細げに立ち尽くしていた。が、アルフォンスの無事な姿に安心したかのように表情をゆるませた。
「近衛兵よ、カンテ伯の屋敷を捜索せよ」
王太子の命に従い、近衛兵らが聖堂を飛び出してゆく。その場にいた人々は困惑した顔つきでざわめいた。が、そこで少女の声が上がる。
「タンドレスの民よ。賢明なる王太子を讃えよ。未来を託す王太子に幸あれと」
その呼びかけに市民たちが次々と手を揚げる。
「王太子殿下、万歳……! 王太子殿下に幸あれ!」
ローランは顔をほころばせると両手を合わせて恭しく膝を突く。歓声と拍手が鳴り響く中、エタンセルは言葉を続けた。
「タンドレスの民よ、正しき道をゆけ。誠に大事なものは目に見えぬ。一度失えば、二度とその手には還らぬ。しかと心得よ」
歓声に掻き消されながらも、その言葉はファビアンの胸に深く突き刺さった。彼は呆然と聖女を見上げた。少女は小さな唇を閉ざし、じっと見つめ返してくる。そして、思わず腕の中の我が子に目を落とす。
「……お父様?」
腫れ上がった顎が痛々しい息子は、不思議そうな表情で呟いた。ファビアンは小さく頷くと息子をもう一度抱きしめた。と、それを見届けたかのように、エタンセルがその場に崩れ落ちる。
「エタンセル!」
司教がすぐさま駆け寄ると少女を抱き起こす。すると、彼女が全身を小刻みに震わせていることに気付いて眉をひそめる。
「……マノン、よくやった。もう大丈夫だ。よくやった」
そう言い聞かせながらぎこちなく抱きしめる。と、マノンは黙ってしがみついてきた。まだ震えが止まらない肩を撫で、アリスティードは静かに息をついた。
こうして、「王太子の婚約を祝福する礼拝」は混乱のうちに終わった。近衛兵はカンテ伯の屋敷に乗り込み、しらみつぶしに捜索を行った。王都はこの騒ぎで持ち切りとなり、落ち着かない日々が続いた。
「カンテはくのやしきからは、きんじられたワインと、ネーベルきんかがたいりょうにみつかったうえ、ネーベルからのみっしょがはっけんされた。そこには、しょ、しょ……」
たどたどしく読み上げる少女の手から新聞が取り上げられる。
「荘園の譲渡を約束する文書もあった。カンテ伯は容疑を認め、近く王立裁判所にかけられることになる」
読み上げられた言葉に、人々は深い溜息をついた。
あの日、近衛兵らはカンテ伯の屋敷で様々なものを見つけた。ワインの貯蔵庫にはご禁制のネーベル産ワイン。そして、信じられないほど大量のネーベル金貨。書斎からは、アーデルハイト王女との縁戚を実現させ、タンドレス国内から王政の転覆を狙う内容の文書が複数押収された。その中にはアーデルハイト本人と交わされた手紙も含まれ、それはカンテ伯との深い関係を匂わせる内容だった。その件に関しては公にはされなかったものの、純情なローランは深い衝撃を受けたという。タンドレス国王は、当然ローランの婚約を破棄。だが、ネーベルに対しては厳重な抗議を行うに留まった。先の戦争からようやく立ち直ったタンドレスが、再び戦争への道を歩むわけにはいかない。また、こちらが弱みを握ることでこれからの交渉事を有利に進めることができる。これらはすべてアランブール伯ファビアンの進言によるものである。今回の一件で、ファビアンの宮廷内での発言力はさらに強まったと言える。マノンは、複雑な表情で新聞を眺める司教を見上げた。
「カンテ伯は今どうしてるの?」
「ベルトラン監獄に収容されている」
「……私のせい?」
怖々と囁くマノンにアリスティードが目を下ろす。大きな目を見開き、じっと見上げてくる少女。彼は息をつき、「違う」ときっぱり答えた。
「カンテ伯は罪を犯した。それをアランブール伯が罰した。それだけのことだ。おまえは関係ない」
そう言ってアリスティードはマノンの亜麻色の髪を掻き撫でた。荒っぽい手つきながら、その温かさにマノンの表情が見る見るうちに明るくなる。顔をくしゃくしゃにさせて喜びを表していたかと思うと、マノンは突然がたんと音を立てて椅子から立ち上がった。
「司教様、大好き!」
そう叫ぶと可愛らしい唇を司教の頬にちゅっと押し付ける。わっと歓声が上がる中、石のように固まるアリスティードに抱き着くとマノンは嬉しそうに頬ずりをする。と、ガスパールが立ち上がって両手を広げる。
「マノン! 俺にも!」
「だめー!」
「なんでだよぉ!」
情けない声で叫ぶガスパールに皆が笑う。と、その背後で扉を叩く音が響く。
「司教様、アランブール伯がお越しです」
その言葉に、皆は口をつぐんだ。
一行が集会室に赴くと、そこで待っていた意外な顔ぶれに皆が驚く。
「アルフォンス」
マノンの呼びかけに彼はにこっと笑顔を返した。ファビアンは相変わらず機嫌の良い様子で息子の肩を叩く。
「どうしてもマノン嬢に会いたいと駄々をこねたものでね」
「お、お父様……!」
顔を真っ赤にして反論するアルフォンス。そして、照れ隠しに居住まいを正すと、司教の背後で控える修道女に微笑みかける。
「ポレットさんが処方してくれた軟膏のおかげで、怪我が良くなりました。ありがとうございます」
その言葉にポレットの表情がほころぶ。
「まだ……、少し痛そうですね」
「ええ。でも、もう大丈夫です」
息子と修道女のやり取りを満足そうな表情で見守っていたファビアンは、改めてアリスティードに向き直った。
「司教殿、マノン嬢。その他聖堂の皆には、本当に感謝している。予想以上の大成功だった。少しばかり……、後味の悪い結末ではあったがね」
アリスティードは小さく頷いた。
「……ローラン王太子殿下はいかがお過ごしでございますか」
「殿下は相変わらずだよ。少し落ち込んだようだが、すぐにいつも通り執務にお戻りになられた。いやはや、まったく勤勉なお方だ。殿下のような誠実なお方には、もっと聡明なお妃が必要だよ」
そう答えてから、ファビアンは背後のオクタヴィアンを振り仰ぐ。
「オクタヴィアン」
「はい」
従者は捧げ持っていた木箱を手に進み出る。
「六万リーヴルございます」
その額に皆が真顔で息を呑む。
「マノン嬢との約束どおり、成功報酬の倍の額だ。受け取ってくれたまえ」
ポレットのワンピースを握りしめていたマノンが声を上げる。
「これで、聖堂の修理もできるね!」
「そうだな」
アリスティードが言葉を返すと、ガスパールに受け取るよう促す。オクタヴィアンから重たい木箱を受け取ったガスパールはよろよろとした足取りでテーブルまで運ぶ。
「それから、マノン嬢」
伯爵の呼びかけにマノンが振り返る。
「何か欲しいものはないかな。どうせこの謝礼も聖堂の運営に使われるのだろう。だが、今回の成功は君の活躍によるところが大きい。何かお礼をしたい」
途端に、マノンの表情が明るくなる。が、彼女は一旦アリスティードを仰ぎ見た。彼は黙って頷いてみせた。
「えっと……」
「何がいいかな。前のようにドレスでもいいし、綺麗なビジューでもいいよ」
「伯爵、それは……」
宝石ビジューと聞いたアリスティードが顔をしかめる。と、マノンが身を乗り出して声を上げる。
「美味しいものが食べたいな」
目をきらきらさせてそう告げる少女に、思わずファビアンがにっこりと微笑む。
「それなら――」
が、そこで突然アルフォンスがマノンの手を掴む。
「おいで」
アルフォンスの言葉にマノンは目を丸くする。が、彼は少女を引っ張って集会室を飛び出した。
「アルフォンス!」
慌ててファビアンが呼び止めるが、子どもたちはそのまま走って行ってしまった。アリスティードたちも呆れた様子で立ち尽くす。
「……やれやれ」
苦笑いを漏らしながら肩をすくめるファビアンに、オクタヴィアンが声をかける。
「旦那様……」
「大丈夫だろう。それに、ちょうどいい」
やや表情を引き締めたファビアンは、「アリスティード君」と呼びかけた。
「司教とお呼び下さい」
うんざりした表情で振り返った彼は、伯爵の探るような眼差しに真顔で口をつぐむ。ファビアンは意味ありげに微笑を浮かべ、ゆっくりと囁いた。
「君のことを、少し調べさせてもらったよ」
集会室が一気に不穏な空気に満ちる。ポレットとガスパールが顔を見合わせ、不安そうな表情で伯爵を凝視する。一方、アリスティードは表情を変えない。
「君の名はアリスティード・タルデュー。子爵家の当主だったそうだね。趣味が広い上に剣の名手。順調にいけば、社交界の人気者になっただろうに」
ファビアンは残念でならない、といった様子で顔を振る。
「だが、君が十六歳の時に悲劇が起こった。君が敬愛する姉君が妻子ある男に騙され、子爵家の財産を奪われてしまう」
ガスパールがごくりと唾を飲み込み、アリスティードの横顔を覗う。司教の眉間に深い皺が刻まれる。
「姉君は世をはかなんで自ら命を絶ち、子爵家は没落。そして君は姉君を騙した男を探し出し、決闘を申し込んだ。結果……、君は見事に男を討ち取った。だが、正当な理由があったとしても、人を殺めたことに苦しんだ君は聖職の道を選んだ」
しばし集会室は沈黙に満たされた。オクタヴィアンがどこか不安げな表情で主と司教の顔を見比べる。やがて、長い溜息をつくとアリスティードは微笑を浮かべて顔を上げた。
「マドロン座の新しい演目ですか?」
「司教殿」
ファビアンは真顔で歩み寄った。
「君は商才に長けているし、顔も広い。情報を操る能力もある。このまま下町の聖堂で司教を務めるなど、もったいない。どうかね、私の秘書にならないか」
伯爵の申し出にポレットが顔を強張らせて口許を覆う。それでも黙して語らない司教に寄り添うと、ファビアンは馴れ馴れしく肩を叩いた。
「聖堂区を見捨てられないというなら、兼任でも良い。聖堂の援助もしよう。どうだろう。君にとっても聖堂にとっても悪い話ではない」
甘い言葉を囁かれる司教に、ガスパールが不安そうな視線を送る。
「……どうかね、司教殿」
熱っぽく囁く伯爵に、アリスティードがゆっくりと目を向ける。しばし無言で見つめ合ったかと思うと。突然、アリスティードの靴先がファビアンのステッキを蹴る。
「あっ!」
宙を舞うステッキを掴んだが早いか、司教は体を入れ替え、ステッキの石突きを伯爵の喉仏に突き付けた。
「……!」
「旦那様!」
オクタヴィアンの悲鳴。ファビアンは言葉も発せられず仰け反り、飛び出さんばかりに見開いた目で鋭利な石突きを凝視した。
「司教様……!」
ポレットやガスパールも驚愕の表情でおろおろと叫ぶ。アリスティードは石突きを突き付けたものの、何も言わないままファビアンを睨みつけている。
「……司教、殿……!」
かすれた声で必死に呼びかけるファビアン。それでも黙ったままのアリスティードの脳裏に、あの日のマノンの姿が蘇る。
(たとえ司教様でも、施しは受けない)
あの時、他人を寄せ付けぬほどの鋭い瞳に、姉を思い出さなかったと言えば嘘になる。だが、共に過ごした半年という時間は、マノンを年相応の無邪気な少女に戻してくれた。それは、自分の心も癒してくれたのだ。
やがて、ファビアンにとっては永遠のような沈黙の果てに、アリスティードはゆっくりと目を細め、にやりと唇に笑みを浮かべた。
「……まだ腕は衰えていないらしい」
「司教殿……!」
命乞いのように囁くファビアンに、アリスティードは唐突に身を引くとステッキを優雅に一回転させ、恭しく跪いた。ファビアンは溜めこんだ息を一気に吐き出すとふらふらとよろめいた。
「どうぞ、伯爵」
差し出されたステッキをまじまじと見つめ、震える手でようやく受け取る。
「……門はいつでも開けておくぞ」
そう呟くファビアンだったが、アリスティードは涼しげな顔つきで立ち上がる。
「優秀な秘書は金品で贖えます。ですが、忠実な従者は得難いものですよ」
そういってちらりとオクタヴィアンを見やる。ファビアンは心配そうに立ち尽くす従者を目にすると、黙って頷いた。
「失礼するよ」
ファビアンは乱れた上着を整えると、皆に向かって優雅に会釈をし、集会室を後にした。
その頃、アルフォンスとマノンは手を取り合って通りを駆け抜けていた。
「アルフォンス」
息を弾ませながら呼びかける。
「どこまで行くの」
「もう少しだ」
猥雑な下町を抜けると、春の陽光をまばらに遮る街路樹が続く。そこを通り過ぎると、王宮にほど近い、洗練された大通りが見えてくる。通りに面した店先には、パラソルとテーブルが並ぶ様子が目に入る。洒落たカフェや高級なレストランが誇らしげに立ち並び、マノンは憧れの眼差しを向ける。やがてアルフォンスは一軒のカフェの前で立ち止まった。このカフェも路上にテーブル席を設けている。鮮やかな濃緑色のパラソルを見上げてから、アルフォンスはマノンに席に着くよう促した。彼女は周囲をきょろきょろと見渡しながら恐る恐る腰を下ろす。やがて、若い給仕が颯爽とやってくる。
「いらっしゃいませ、坊ちゃま。ご注文は」
「クレームブリュレと、紅茶を」
「かしこまりました」
笑顔でその場を立ち去る給仕をぽかんとした顔つきで見送るマノン。
「クレーム……」
「クレームブリュレ。とっても美味しいよ」
アルフォンスがそう言うと、期待が高まる。マノンは嬉しそうにはにかんだ。そして、改めて周りを見渡してみる。人気のあるカフェなのか、優雅な身なりをした人々が思い思いに食事を楽しんでいる。どちらかというと、恋人たちや夫婦といった組み合わせが多い。流行の衣装に身を包み、上品な手つきでグラスを揺らす人々に、マノンはぼんやりと憧れの眼差しを送る。が、彼女は自分のみすぼらしいワンピースに目を落とすと、心配そうに身を縮こませた。
「……大丈夫かしら。私、こんな恰好で……」
そう囁く少女にアルフォンスは目を丸くするが、すぐに察して上着を脱ぐ。続いて首許のタイもほどいてしまう。上質なサテンとは言え、シャツ一枚の姿はずいぶんと質素な印象になる。自分と同じような姿になったアルフォンスに、マノンの表情が嬉しそうにほころぶ。
「ありがとう、アルフォンス」
「大丈夫だよ」
そう言って微笑むと、思い出したように身を乗り出す。
「ところで、この間の礼拝だけど、あの光は
マノンはちょっと困ったような表情で肩をすくめた。
「ガスパールの仕掛けだから、わかんない」
「あの色と匂い、苦土という金属だよ。さすが
「うふふ」
嬉しそうに笑うマノンに、なおも言葉を続けようとした時。給仕が二人分の皿を持って戻ってくる。
「お待たせいたしました」
白く小さな器にカスタードのプディングが盛り付けてある。マノンは目を輝かせて歓声を上げた。
「美味しそう!」
「マドモアゼル、もう少々お待ちを」
給仕はそう断ると、優雅な仕草でマノンの顔を皿から遠ざけた。そして、カスタードの上にスプーンひと匙のラム酒を垂らす。不思議そうな顔つきで見守るマノンの目の前で、給仕は盆に用意された火種を皿の上にかざす。と、皿からぱっとオレンジの炎が立ち上がり、子どもたちがわっと声を上げる。すると、周りのテーブルからも歓声や口笛が吹き鳴らされる。幼い子どもがふたり、テーブルについている様子に婦人のひとりが微笑ましそうに囁く。
「まぁ、可愛らしいカップルね」
給仕は慣れた手つきで焼き色のついたプディングを示した。
「さぁどうぞ、お召し上がり下さいませ」
マノンは興奮した表情で皿を覗き込む。
「すごい!」
「表面を焦がしてカラメルを作るんだ。食べよう」
「うん!」
嬉しそうにスプーンを手にすると慎重な手つきでカスタードをすくい、口に含む。と、ほろ苦さと甘さが混ざり合った深い味わいが口いっぱいに広がる。マノンの顔がくしゃくしゃにほころぶ。
「美味しい……!」
「だろう。ここのクレームブリュレはタンドレスで一番だよ」
「ありがとう、アルフォンス!」
素直に礼を述べるマノンにアルフォンスも微笑を浮かべる。ひと口ふた口食べてから、少年は再び語り出した。
「あの苦土の閃光が、科学の力だと思うんだ。科学は人々の暮らしを便利にしてくれる。そして、思いがあれば、君とガスパールが起こした奇跡のように、人々の心も豊かにできる」
力強く語るアルフォンスの表情は輝いていた。耳を傾けていたマノンも晴れやかな笑顔になる。だが、カスタードをもうひと口食べると、
「難しいことはわかんない。私は、お腹がいっぱいになれば幸せ!」
「そうだね」
否定することなく、アルフォンスも笑顔で答える。そして、「でもね」と心の中で続ける。
それも、一緒に食べる人がいてこそだよ。
アルフォンスは、夢中になってクレームブリュレを頬張るマノンを優しく見守った。
終幕
サン・エタンセルに会いに カイリ @kairi_elly
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