第6話

 舗装されていないむき出しの地面は轍が走り、あちこちにごみが散乱している。貧相な馬が引くおんぼろ馬車が揺れ、ごみ拾いの男が通りに落ちている馬糞をせっせと集めている。煤も払わず、黒い家並みが続くここはアゼマ通り。王都プランタンの下町でも最下層の貧民街だ。アルフォンスは緊張と不安を胸に抱えたまま通りをそぞろ歩いた。通りは喧噪に満ちていた。職工たちの怒号、女子どもの甲高い声。時折、物乞いたちのかすれた声も聞こえてくる。皆、場違いな格好をしたアルフォンスをちらりと見やるが、特に興味を持つわけでもなく、通り過ぎてゆく。オレオル聖堂の界隈もかなり貧しい下町だが、ここはもっとひどい。アルフォンスは強張った表情で周りを見渡した。その時、赤ん坊の泣き声が耳に入る。立ち止ってきょろきょろと左右を見やる。と、少し先に大きな鉄の門が見える。その先には大きな屋敷が。歩み寄ると、門の側に粗末な灰色のワンピースを身に着けた女性が佇んでいる。アルフォンスはその姿に目を奪われた。掃き溜めのような汚らしい下町の中で、後光が差すかのように輝く一輪の花。まさにそんな女性だ。彼女は体を揺らしながら、泣き声を上げる赤ん坊をあやしていた。

「泣かないで、アルマ。いい子だから」

 慈愛に満ち溢れた優しく穏やかな表情で囁く女性は、髪を頭布できっちりと覆い隠している。修道女だ。

「ほら、見てごらん。大工さんが高い屋根に上がっているわ」

 そう言って屋根を指さす。確かに、何人かの職人が屋根に上がり、板を渡して釘を打ち付けている。

「聖堂の司教様のおかげで屋根が綺麗になるわ。良かったわね。もう雨や風は入ってこないわ」

 修道女の言葉がわかるのか、赤ん坊の泣き声が少しずつ治まってゆく。

「修道女!」

 奥から野太い声が上がると、がっしりとした体格の男がやってくる。

「床の修理は終わったぜ。屋根はもうちょっとかかる。すまねぇな」

「まぁ、ありがとうございます」

 見た目は強面のいかつい男だが、にんまり笑って修道女の腕の中の赤ん坊を覗き込む。

「ぴーぴー泣いて修道女を困らすんじゃねぇぞ、こら」

 そう言って太い指でシュークリームのように膨れた頬をつつく。と、わっと火がついたように泣き出す赤ん坊に二人が慌てる。その様子をアルフォンスはじっと見つめた。そして、修繕が行われている屋根を見上げる。あの屋根の下で、たくさんの赤ん坊と修道女が暮らしているのだ。あの、壊れかけていた屋根の下で。


 書斎の扉が静かに叩かれる。目を上げると、オクタヴィアンが扉を開く。

「旦那様、オレオル聖堂からお手紙でございます」

 執事から手紙を受け取り、主人へと手渡す。読み始めたファビアンは大きく目を見開き、書面を凝視した。

「アリスティード司教からでございますか」

 オクタヴィアンの問いに黙って頷く。やがて、ファビアンは長い溜息をついた。

「……ただ者ではないな、この男」

 感嘆と疑いが混じり合った声色にオクタヴィアンは眉をひそめる。

「だが……、これは役に立つ」

 唇の端に笑みを浮かべ、ファビアンは口髭を撫で付けた。

「お告げの草案でございますか」

「ああ。だが、それだけではない」

 ファビアンが言葉を続けようとした時。再び扉が叩かれる。

「旦那様、坊ちゃまが」

 その言葉が終わらないうちに扉が開け放たれる。

「お父様」

 どこか切羽詰まった様子の息子にファビアンは顔をしかめて腰を上げる。

「どうした、アルフォンス」

「マノンに、何をさせるおつもりですか」

 前置きもなく、唐突に問いかけてきた息子にファビアンは目を見開いた。オクタヴィアンも顔をしかめ、アルフォンスをまじまじと見つめる。

「……アルフォンス」

「あの子は聖女なんかじゃありません。サーカスで手品を覚えた孤児です。その彼女に、一体何を」

「まぁ、待て」

 必死に尋ねる息子に手を挙げて制する。傍らのオクタヴィアンをちらりと見やると、彼は一礼して部屋を退出していった。

「……彼女と話をしたのか」

「はい。でも、お父様とどんな約束をしたのかは教えてくれませんでした」

 口の固い娘だ。ファビアンは静かに頷いた。

「お父様」

 黙り込んだ父親に、アルフォンスはなおも呼びかける。

「あの子は、自分の手品が役に立つことを喜んでいます。それを利用して、何をさせようとしているのですか」

 眉を寄せ、強い口調で責めるアルフォンスは一度口を閉ざすものの、返事をしない父親に苛立つと思わず身を乗り出した。

「まだあんなに小さな子どもなのに」

 ファビアンは観念したように息をつくと、正面から見つめ返す。

「……アルフォンス。おまえももう十三歳だ。大人として話をするぞ」

 父親の言葉に思わず居住まいを正し、こくりと頷く。

「私が今抱えている問題は知っているな」

「……はい。王太子殿下のご婚約ですね」

「そうだ」

 どこから話したものかと、ファビアンはしばし逡巡したが、やがて思い切った様子で言葉を続ける。

「私はご婚約には反対だ。同盟にも反対だ。だが、国王陛下を始め、皆が浮かれ騒いでご婚約を祝っている。このままでは駄目だ。ご結婚されてしまう前に皆の目を醒まさなければならない。そのためにマノン嬢、いや、『聖女エタンセル』の力を借りたいのだ」

 アルフォンスの表情に不安の色が広がる。

「……どういうことですか」

「この婚約は不幸をもたらす。――そうお告げをしてもらう」

 あまりにも端的な言葉。アルフォンスは思わず口をぽかんと開けて言葉を失った。

「聖女のお言葉ならば、皆も聞く耳を持つだろう。これはあくまでもきっかけに過ぎない」

「ま、待ってください!」

 胸にすがらんばかりに詰め寄ると、アルフォンスは語気荒く続けた。

「彼らを国政に巻き込むおつもりですか。特にマノンは、政治のことなどまったくわからないのに」

「これは皆の未来に関わることだ」

「でも……!」

 アルフォンスは顔を歪め、頭を振ると叫んだ。

「そこまでして……、お父様は権力争いに勝ちたいのですか!」

 瞬間、ファビアンの眉が吊り上がる。

「権力争いだと!」

 突然の怒声にアルフォンスはびくりと体を震わせた。口を歪め、鋭く目を眇めた父。これほどの怒りを見せるのは初めてだ。食いしばった口許から荒々しい息遣いが漏れる。アルフォンスは背にひやりと寒気を感じて唾を飲み込んだ。だが、父は静かに目を閉じると吐息をついた。

「……おまえには、権力争いに見えるか。……仕方ない」

 その呟きにアルフォンスは眉を寄せ、怖々と囁く。

「……お父様」

 ファビアンは怯えた表情で見上げてくる息子を見つめた。家族の前で声を荒らげたことはなかったはずだ。

「よく聞いてくれ、アルフォンス」

「……はい」

 まだ不安げな様子ながらも頷く。

「私はずっと以前からネーベルに配下の者を送り込んでいた。様々な情報がもたらされたが、結果、ネーベルは信頼に値しないと結論づけた。あの国は実にずる賢い」

 穏やかな口調ではあったが、有無を言わさない険しい顔付きにアルフォンスは息を呑んだ。

「五年に及んだネーベルとの戦争が終わって十年。国交は断絶されたままだ。あちらは和解案を示し、こちらにすり寄ろうとしているが、先王陛下がそれを突っぱね続けてきた。だが、ネーベルとの国交断絶は国民の生活に支障をきたし始めている。奴らは足許を見ているのだ。こちらと和睦し、同盟を結びたがっているように見せかけて、その実狙っているのは我が国の混乱だ」

「どういうことですか」

「ネーベルの王族には年頃の王女がたくさんいる。なのに、選ばれたのはアーデルハイト王女だ」

 アルフォンスはわずかに首を傾げた。

「しかし、アーデルハイト王女はネーベル国王の次女ですし、大変な美女だと……」

 息子の言葉を耳にするや、ファビアンは口を歪めて鼻を鳴らした。そして、大仰に両手を広げると部屋の中を大股で歩き回った。

「美しく! 可憐で! 慎ましやかな姫君だという触れ込みだが、とんだ食わせ者だ!」

「お、お父様?」

 ファビアンはきっと振り返った。

「あの小娘、まだ十八歳だというのに愛人が山のようにいるらしい」

 思いもよらぬ言葉に口をあんぐりとさせる。ファビアンは息子の様子に苦い表情で頷く。

「ローラン王太子は生真面目で誠実なお方だ。結婚生活は必ずや破綻する。だが、すぐにではない」

 ファビアンは黙り込んだアルフォンスを真正面から見据えた。

「最初は化けの皮を被るだろう。だが徐々に本性を現す。薄紙を剥ぐようにな。奔放なあばずれが、生真面目な夫に満足できるわけがない。密通をし始めたら殿下は絶対にお許しにはならないだろう。王宮の不和は国内の不安を煽る。ネーベルの狙いはそこだ」

 今まで聞いたことがない父の激しい言葉に、アルフォンスは慄いた。ファビアンはなおも言葉を継いだ。

「一年や二年ではない。火種は五年十年かけて育つ。私の時代ではなく、おまえたちの時代に火種が弾けるのだ。それがわかっているならば……、今のうちに止めなくてはならん」

 アルフォンスの胸にずしりと重い衝撃がのしかかり、それはじわじわと喉許までこみ上げてきた。女たらしで、母を悲しませるだけのどうしようもない父親だと思っていたのだ。今の今まで。だが、父は国を思い、自分たちの未来を案じていた。アルフォンスは困惑しながらも項垂れた。

「……お、お父様は、そこまで、お考えに」

 言葉を遮るように肩を叩かれる。

「おまえが言うことも一理ある。殿下のご結婚を巡れば、権力争いに発展する」

「……ごめんなさい」

「アルフォンス」

 穏やかな声色に顔を上げる。ファビアンは少し悲しげに微笑んだ。

「政治家とはこんなものだ」

 だが、肩を落とすと溜息をつく。

「しかし、そのために年端もゆかぬ娘の力を借りることになるとはな。……私も不本意だ」

 そして、恥じ入るように目を逸らし、ぽつりと呟く。

「マノン嬢を見ていると……、リディを思い出す」

 その名にアルフォンスの顔が強張る。が、やがてその表情が悲しそうに沈む。

「……リディは、元気ですか」

「私も会っていない」

 ファビアンは長い溜息をつくと、もう一度息子の肩を叩いた。


 それから数日後のオレオル聖堂。中庭ではガスパールの指揮の下、仕掛けの準備が始まっていた。手に入れた青の染料を溶かす作業に追われていたガスパールは作業着が青に染まってしまい、はやし立ててくるポールにいらいらしながら憎まれ口を返している。修道士のアントナンと、ポールの父親、ピエールも小道具の制作に余念がない。修道女たちも男たちの手伝いに忙しく立ち回っている。

「神はすべてご覧になっておられる。隠しおおせることなど――」

「マノン、aにアクセントよ」

 中庭の一画では、マノンとポレット、そしてアリスティードがお告げの特訓をしている。

「神はすべてを」

「そう。それでいいわ」

 神の託宣が下町訛では大変なことになる。マノンは奇跡を演じる前に何度も何度も発音を練習する。

「もう一度最初から」

 書面を睨みながらアリスティードが告げ、マノンはげんなりした顔付きで椅子に座り込む。

「……お腹すいた」

「もう一度通してやってみろ。それから昼食にしよう」

 司教の言葉にマノンは唇を歪め、ふてくされて足をばたばたと揺らす。様子を察したポレットが首を巡らす。

「シルヴィ、お昼の用意をしておいてちょうだい」

 途端にマノンの顔がぱっと輝く。

「ほら、もう一回。終わる頃には支度が整うわよ」

「うん!」

 マノンは喜々として立ち上がる。軽く目を閉じ、ふぅと息をつく。そして、ゆっくりと目を見開くと、その表情はすでに〈聖女エタンセル〉のものだ。彼女は堂々と胸を張り、両手を広げて唇を開く。

「祝福を与えることはできぬ。神はすべてご覧になっておられる」

 書面を見ることなく、張りのある声で朗々と語ってみせるマノン。時々アリスティードが台詞を差し挟み、回答に耳を傾ける。ポレットはその様子を小さく頷きながら見守る。時折、身振りも交えながら最後まで語り終えると、得意げな表情で笑ってみせる。

「できたよ!」

 アリスティードが椅子から立ち上がる。

「よし。あとは発音だけだな」

 言葉を続けようとしたアリスティードだったが、野菜を煮込んだ良い匂いが辺りに漂い始め、マノンがそわそわと厨房の方を眺める。彼は肩をすくめると台本を懐に納める。

「わかったわかった。昼食にしよう」

「わぁい!」

 中庭に長机と椅子が並べられ、昼食が運ばれる。篭いっぱいの黒パンとチーズ。ミルクで煮込んだ野菜のスープ。椅子には司教と修道士、修道女、マノン、ガスパールとピエール一家。聖堂で暮らす人々が集まると席につき、両手を合わせる。

「天なる神よ、今日も命の糧をお恵み下さり、感謝いたします。今日の糧を明日の希望へと繋げるよう、皆で支え合い、幸いを分かち合えるよう」

 アリスティードの言葉に続いて、皆が「幸あれ」と結ぶ。

「いただきます!」

 マノンとポールが我先にとスプーンを取る。

「マノン、おまえスープもらいすぎだろ」

「そんなことないもん!」

「ほらほら、仲良くしなさい」

 ポールの母親がたしなめ、ふたりは黙ってパンを頬張る。

 オレオル聖堂はヴァン・エール教の〈解放会派〉に属している。かつてヴァン・エール教の僧侶たちは男女に分かれ、それぞれ修道院や教会、聖堂に篭って外部の者を遠ざける修業体制だった。だが、百年ほど前に改革が行われ、開かれた教会を目指す派閥が生まれた。それが、解放会派だ。教会では男女の僧侶が共同で修業をし、地域の住民にも開かれた。教会には大抵一世帯の教徒が住み込み、生業の傍ら、教会の雑務を引き受ける。オレオル聖堂では、ピエール一家やガスパールがそれに当たる。教会が解放されたことで問題もあったが、教徒たちからは歓迎されている。こうして聖堂が解放されたからこそ、マノンの居場所があるのだ。

「ああ、痒いなぁ」

 パンをかじりながらガスパールが喉許を掻きむしる。見ると青の染料がこびりついている。

「染料のせいだな、こりゃ」

 ぶつぶつと文句をこぼすガスパールに、マノンが腰を浮かすと心配そうに呼びかける。

「ちゃんと洗ってね。染料って毒があるんだって」

「ああ」

 そこで何かを思い出したように、マノンはアリスティードを見上げる。

「ねぇ、司教様知ってる? 染料って石からできてるのよ」

「全部ではないがな」

 すげなくあしらうアリスティードに構わず、マノンはさらに畳みかける。

「昔の人はまぶたに塗ってたんですって! 他にも、花火の材料にもなる石があるんだって!」

 興奮気味にまくし立てるマノンの言葉に、ガスパールがスープを飲む手を止める。

「……花火ねぇ……」

 一方、アリスティードは目を細めてマノンを眺める。

「ル・バラボーの職人から教わったのか」

「ううん、アルフォンス坊ちゃまから」

 その名にポレットたちが首を傾げる。中でもポールはむっとした顔つきで「誰だよ、そいつ」と問い詰め、機嫌を損ねた息子にピエールが苦笑を漏らす。

「伯爵のお坊ちゃま」

「まぁ」

 驚くポレットに、ガスパールが身を乗り出す。

「それがよ、伯爵とは似ても似つかねぇ優しい坊ちゃんでさ」

 マノンは篭から黒パンをもうひとつ取りながらひとり言のように続ける。

「アルフォンスはいい人よ。優しいし、物知りだし。でも、お父さんが嫌いなんだって」

 その言葉に、皆が思わず顔を見合わせる。

「私はお父さんもお母さんもいないのに。贅沢だわ」

 途端に、その場の空気がせつない空気に変わる。ポレットが黙ってマノンの頭を撫でると、本人は嬉しそうに顔をくしゃくしゃにさせる。両親に挟まれたポールは、どこか居心地悪そうな表情でスープをすする。そこで、マノンが再びアリスティードを見上げた。

「伯爵には『あいじん』がいっぱいいるんだって。アルフォンスが怒ってたわ」

 マノンの言葉にガスパールがぶっとスープを吹き出し、ポレットが悲鳴を上げる。シルヴィとマリエルも顔を真っ赤にして固まる。

「道理で、アルフォンスがお父さんを嫌うわけよね。……どうしてアルフォンスや奥様を悲しませることをするのかしら」

「マノンちゃん」

 ポールの母親、アニエスが慌ててたしなめるが、アリスティードが手を上げて遮る。彼は口許を上品に拭うと懐に手をやった。

「マノン。お告げに一文付け加えるぞ」

「ええっ、せっかく覚えたのに!」

「大丈夫だ。すぐに覚えられる」

 そう言い捨てると、アリスティードはお告げの原稿を広げた。


 その翌日。王宮に面したプランタン大通り。洒落たカフェが数多く軒を連ねるここは、王都の顔とも呼べる場所だ。貴族と見えるひとりの紳士が友人と連れだって一軒のカフェへ入ってゆく。

「新聞はあるかな」

 案内されたテーブルにつくと給仕に尋ねる。

「どれになさいますか。すべて扱っておりますが」

「では、ル・フィヨン紙を」

 給仕が持ってきた新聞の一面に紳士が目を見開く。

「おや、オレオル聖堂が王太子殿下のご婚約を祝う礼拝を催すらしい」

 友人たちも興味深そうに身を乗り出す。紙面には、聖女エタンセルが祈りを捧げる絵が描かれている。

「ほう。噂の奇跡の聖女が」

「これは一見の価値はありそうだね」

 同じ頃、宮廷のサロンでは多くの貴族が集まっていた。新聞を手にした貴族のひとりが、サロンにやってきた男に声をかける。

「カンテ伯」

 名を呼ばれたカンテ伯は柔らかな笑みで応える。

「新聞はご覧になられましたか」

「何ですかな」

 新聞を受け取ったカンテ伯は目を丸くした。

「……オレオル聖堂が礼拝を?」

「あの噂の聖女でございますよ。王太子のご婚約をお祝いし、幸福を願う礼拝を行うそうです。聖女のご祈祷ならばご利益があるというもの」

「まったくですな」

 貴族たちの言葉にカンテ伯は穏やかに笑ったまま頷く。

「ありがたいことです」

「いかがでございますか。殿下をお連れして、礼拝にご参加されてみては」

 その場に居合わせた人々の言葉に、カンテ伯の従者がわずかに眉をひそめる。が、主人の方は意に介さず、機嫌良さそうに新聞を返す。

「それは良い。殿下もきっとお喜びになられるでしょう。お誘いしてみよう。どうもありがとう」

 カンテ伯は優雅に会釈をするとその場を立ち去る。

「旦那様、大丈夫でしょうか」

 従者の呼びかけにカンテ伯が眉を上げる。

「どうした」

「いえ……、聖女は神のお告げをもたらすという評判です。その……」

「何を心配している」

 カンテ伯は馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりの口調で返す。

「おまえはあの聖女の噂を信じているのか。あんなものはいかさまだ。小娘の寝言だ。奇跡は錯覚に過ぎない」

「旦那様は、聖女の奇跡を信じないのでございますか」

「おまえは信じているのか」

 さも馬鹿にしたような表情で見返され、従者は口をつぐんだ。

「きっと、あれは小娘のヒステリーだ。それを皆が神託だと騒ぎ立てる。古来より行われてきた手法だよ」

 それでも不安げな表情の従者にふんと鼻を鳴らすと、カンテ伯は踵を返した。

「ガルヌラン教授の論文を読んでみろ。お告げなど、馬鹿らしい!」


 オレオル聖堂の奇跡の聖女が、王太子の幸福を祈る。その噂はたちまち王都を駆け巡った。聖堂の周りは一層賑やかになり、人々はその日を待ちわびた。

 礼拝の日が近づいたある日。ひとりの少年が聖堂を訪れた。聖堂の前庭で辺りをきょろきょろと見渡し、その瞳が幼い少年を捉える。そばかすだらけの顔に栗毛の少年は薪を台車で運び、中庭へ通じる扉を開けたところだった。

「ねぇ、君。ちょっといいかな」

 声をかけられ、顔を上げたのは侍祭の少年、ポール。彼は相手の身なりに思わず戸惑いの表情になる。

「……なに」

「マノンはいるかな。会いたいんだ」

 マノンの名にポールの顔が強張る。

「……あんた誰だよ」

 明らかに警戒されていると気づいた少年は、表情をほぐすと丁寧に尋ね直す。

「僕はアルフォンス・デスタン。名前を言えば、彼女はわかると思う。会わせてもらえないかな」

 その名前に、ポールはますます不機嫌そうに唇を尖らす。が、高貴な身分の少年に礼儀正しく尋ねられれば、むげな態度も取れない。彼は扉を押し開き、中へ入るよう促した。アルフォンスは少し緊張した面持ちで中庭へと踏み込んだ。すると、目に飛び込んできたのはまっさらな純白のシーツ。庭に張り巡らされた物干し竿に何枚ものシーツが干されていたのだ。思わず言葉を失ってその場に立ち尽くす。辺りには清々しいサボンの香りが漂い、シーツの波の上には綺麗な青空が広がっている。風をはらみ、のどかに揺れるシーツの波をかき分けながらポールがマノンを呼ぶ。

「マノン! どこだよ、マノン!」

 ポールの後を、シーツをめくりながら続くアルフォンス。

「どうしたの?」

 シーツの向こうから聞き覚えのある声が上がる。

「お客さんだよ」

 まだ少しふてくされた声で言い返す。すると、斜め前のシーツが手繰られ、下からひょこりと少女の顔が現れる。

「マノン」

 アルフォンスが名を呼ぶと、ぱっと笑顔が咲く。

「アルフォンス!」

 シーツをくぐり、体を起こす。ル・バラボーで会った時と同じ、白いエプロンに褪せた黒いワンピース。だが、粗末な服装であっても、晴れやかな笑顔をみせる少女の姿は輝いて見えた。

「二十五日に礼拝をするんだってね」

 アルフォンスの言葉に、マノンは少し表情を引き締めて頷く。

「父から話は聞いたよ」

「……止めに来たの?」

 上目遣いに不安げな声を上げるマノンに、アルフォンスは穏やかな表情で顔を横に振る。

「本当は……、これが正しいことなのかまだよくわからないんだ。何が最善の方法なのか、僕にもわからない。だから、僕も礼拝に参加させてもらうよ。最後まで、この目でちゃんと見届けたいんだ」

 マノンは目を丸くすると首を傾げる。

「よくわかんないけど……、応援してくれるってこと?」

 アルフォンスは素直に笑った。

「そうだね」

 相手の笑顔にマノンも嬉しそうに顔をほころばせる。

「私、がんばるね!」

「うん」

 マノンは手を差し出した。小さくて白い手。奇跡を生み出す魔法の指先。アルフォンスはまるで宝物にでも触れるように、その手を優しく握りしめた。白いシーツの波に包まれた二人は、しばらくそのまま佇んでいた。

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