第5話

 その頃、ファビアンの屋敷ではアルフォンスが部屋に引きこもっていた。机の上には、ル・バラボーで譲り受けた美しく青い結晶。だが、その美しい煌めきも目に入らない。脳裏に浮かぶのは、そこで再会した少女だった。確か、商家に引き取られると言っていた。ル・バラボーでは修道士と一緒だった。やはり、孤児なのだろうか。幼い眼差しの中にも、どこか突き刺さるような強い光が見え隠れしていた。色々と辛い目に遭ってきたのだろう。引き取られた先で幸せになれば良いが。そんなことを考えていると、扉を静かに叩かれる。

「坊ちゃま、奥様が」

 その呼びかけに立ち上がると、開いた扉から母が現れる。

「お勉強中だった?」

「いいえ、大丈夫ですよ」

「それなら……、出掛けるのだけど付き合ってくれるかしら」

 アルフォンスは椅子に投げていた上着を取り上げた。

「構いませんよ。どちらへ」

 シュゼットは少しはにかむと囁いた。

「オレオル聖堂。サンエタンセルに会いに」

 上着に袖を通す動きが止まる。

「……オレオル聖堂に。また奇跡が見られるでしょうか」

「ううん、奇跡は見られなくてもいいの」

 そう言ってシュゼットは陰の射す目を伏せた。

「ほら……、あなたも知っているでしょう。今、お父様のお仕事が大変だって」

 アルフォンスは神妙な顔付きで「はい」と答える。

「少しでも良い方向へ向かいますように、って……。お祈りをしたいの」

 不安で沈む声色。宮殿での執務が長引き、帰りも遅くなった父。屋敷にまで役人が訪れることも増えた。家族の前では明るくおどけた表情を絶やさないが、事態は深刻なようだ。そのことは、アルフォンスも肌で感じていた。

「……わかりました。行きましょう」

 息子のしっかりとした口調に、シュゼットは表情をゆるめた。

 聖堂へ向かう道すがら、町並みを眺めていたアルフォンスは「そういえば」と思い出した。屋敷で出会ったあの少女は修道女エタンセルと同じ年頃だ。エタンセルも孤児だとオクタヴィアンが言っていた。思わず眉をひそめる。奇跡を起こしたが故に聖女だと崇められるエタンセル。商家に引き取られる平凡な少女。どちらが幸せなのだろう。そんなことを考えているうち、やがて馬車は下町に差し掛かり、聖堂が見えてくる。聖堂のドームを見つめる母の横顔が心細げに見える。だが同時に、とても綺麗だった。

「……お母様」

 息子の囁きに振り返る。

「きっと……、お母様のお祈りは神に届きますよ」

 少し気恥ずかしそうに呟く息子に、シュゼットは嬉しそうに手を握りしめてきた。

 聖堂に到着すると、特に祭礼があるわけでもないのに、そこそこ賑わった様子にアルフォンスもシュゼットも驚いた。

「すごいわね」

 拝廊へ入ると、多くの人が思い思いに祈りを捧げている。喜捨盆には相変わらず人が集まり、絶えず貨幣が投げられる音が響いている。アルフォンスは思わず聖堂の天井を見上げた。古い装飾は剥げかかり、壁画の色彩もかなりくすんでいる。拝廊に並ぶたくさんの長机も長い年月を思わせる擦れが激しい。奇跡を起こす聖女のおかげで聖堂は潤っているだろうに。修繕はしないのだろうか。そう訝しんでいると、不意に背後から歓声が上がる。視線を向けると、修道女たちが現れたところだった。

「エタンセル様だわ」

 母の弾んだ声。シュゼットは思わず両手を合わせて聖女の一挙手一投足を見守る。が、アルフォンスは思わず眉を寄せ、目を細めて体を乗り出した。……似ている。年恰好が同じせいか、エタンセルの顔立ちまであの少女にそっくりだ。大きな瞳。くっきりとした眉。ふっくらとした頬。彼はまじまじとエタンセルを見つめた。

 一方、修道女たちは大鍋を運び、近隣の貧しい住民に食事を振る舞うところだった。多くの人々が集まっていたのはそういうわけだったのだ。侍祭の少年など、聖堂で暮らす人々が協力しながら食事を分け与える。エタンセルの容貌に首を傾げながらも、アルフォンスは目の前の光景に様々な思いを抱いた。世の中には恵まれない人々がたくさんいる。自分にできることは何だろう。人々は嬉しそうに食事を受け取っている。やはり、屋根のある場所で得る温かい食事は、何にも勝る恵みなのだろう。食事のためではなく、修道女エタンセルの姿を見るために訪れた人々も大勢いる。彼らは感嘆と尊敬の眼差しで聖女の仕草を見守った。エタンセルは小さな手に大きな杓子でひとりひとりスープを注いで回っている。

「聖女様も孤児だったというのでしょう? あんなに幼いのに……」

 シュゼットが溜息交じりに囁き、アルフォンスは黙って頷く。その時、お椀にスープを注いでもらった幼女が喜びの声を上げた。

「聖女様、ありがとう!」

 その元気の良い声に、エタンセルはくしゃっと顔をほころばせた。

「あっ!」

 思わず甲高い声を上げると、口を覆う。突然の叫びにシュゼットが驚いて振り返る。

「アルフォンス?」

「あ……、な、なんでも、ないです」

 アルフォンスはぎこちなく答えるが、動揺は隠しきれなかった。母はにっこりと微笑んだ。

「聖女様があんまり可愛らしいから、びっくりしたのね?」

「あ、いや、その……」

 しどろもどろに呟くが、その胸は張り裂けんばかりに波打っていた。あの娘だ。屋敷で出会い、ル・バラボーで再会した少女。顔をくしゃくしゃにして喜びを表した、あの笑顔。一体、これはどういうことだ。アルフォンスは、目の前で健気に奉仕する少女の姿を見つめた。


 アルフォンスが聖堂を訪れていたことなど、マノンはまったく気づかないでいた。そして、その日の夕方。聖堂にオクタヴィアンがやってくると、クラピソンのドレスが出来上がったと知らされた。

「ドレスができたんですって!」

 大はしゃぎで声を上げるマノンだったが、アリスティードは眉間に皺を寄せたまま暦と手帳を見比べる。

「……明日の午前中なら時間がある」

「なぁに、本当に司教様がついてきてくれるの」

「当然だ」

 憤然と言い返すと、取次ぎのために側へ控えていたアントナンに声をかける。

「明日の朝、伺うと伝えろ」

「かしこまりました」

 その日の晩、マノンは胸の高鳴りと一抹の不安でなかなか寝付けなかった。初めての誂えのドレス。お洒落に興味がわき出した年頃だ。正式な修道女ではないにしても、聖堂で暮らしている間は衣服にお金をかけられない。もうこんな機会はないかもしれない。期待で胸が膨らむが、アリスティードが心配するように、伯爵と会うのはまだ不安が残っていた。マノンは一晩のうちに何度も何度も寝返りを打った。


 翌朝、寝ぼけ眼で起きてきたマノンに、ポレットがいつものワンピースを着つける。

「気を付けるのよ。本当は私もついていきたいけど」

「司教様がいるから」

「ガスパールもね」

 二人がかりか。マノンは恐縮すると同時に、大事にされていることを実感して胸が温かくなった。朝食と朝のお祈りを済ませると、ちょうど屋敷から馬車が到着した。

「おはようございます、マドモアゼル・マノン」

 相変わらず折り目正しいオクタヴィアンは、アリスティードとガスパールの厳しい視線を浴びながらマノンを馬車に乗せた。

「……先日は本当に申し訳なかった。もうあのようなことがないよう、主人からは目を離さない」

 几帳面な口調で詫びてくるオクタヴィアンに、ガスパールが胡散臭げに目を眇めて反論する。

「俺たちが疑いの目を向けているのは、もはや伯爵だけじゃないぜ」

「ああ……、承知している」

 気落ちした様子で呟くオクタヴィアンに同情したのか、マノンがガスパールの裾を引っ張る。

「この人悪くない」

「おまえさんはお人好しだなぁ」

 ガスパールは呆れたように言うが、オクタヴィアンはほっと表情をゆるめると、「ありがとう」と囁く。その間、アリスティードは眉間の皺をゆるめることなく、沈黙を守っていた。

 やがて馬車は屋敷へ到着した。相変わらず見る者を圧倒する豪奢な佇まい。アリスティードとガスパールはマノンを守るようにしてポーチへ向かう階段を上がっていった。

「やぁ、良く来てくれたね、マノン嬢」

 玄関ホールでは、喜びの表情でファビアンが出迎えた。その隣にはクラピソン。

「お待たせしたね、お嬢ちゃん。素敵なドレスに仕上がったよ」

 クラピソンの柔和な笑顔にマノンの表情が和らぐ。

「早速、着てもらおう」

 採寸の時と同じく、ふたりの小間使いがやってくると階上へ導く。そこで、アリスティードが声を上げる。

「伯爵、あなたはここにいてください」

 ファビアンは目を丸くすると肩をすくめる。

「どこにも行かないよ、司教殿」

 おどけた口調に司教がますます目を鋭く眇め、ファビアンは慌てて居住まいを正した。

「すまない。彼女にはもう何もしないよ」

「当然です」

 針のように鋭い言葉が返され、苦笑いを浮かべる。

「しかし、私に比べて君は大変な信頼ぶりだな。見た感じでは……、君は彼女に甘くはないようだが」

 若い司教は眉を寄せたまま答えなかった。

「羨ましい限りだ。あんな可愛らしい少女の信頼を勝ち得るとはね」

「伯爵」

 固い声色で遮られ、ファビアンは眉を吊り上げた。

「ただ可愛らしい娘としか思わないから、信頼を得られないのですよ」

 含みのある言葉にファビアンは眉をひそめる。が、アリスティードは目を伏せて唇を固く閉じた。もう、これ以上は何も語らないだろう。

「わかったよ、司教殿。ところで」

 真顔になるとファビアンは上着のポケットに手を差し入れる。

「お告げに関する要点をまとめた。この文言を織り込んでほしい」

 差し出された書状を受け取り、目を走らせる。やがて険しい顔付きで伯爵を見返す。

「……これは?」

「大丈夫だ。君たちに迷惑はかけないよ」

 それでも表情をゆるめないアリスティードに、ガスパールが後ろから書面を覗き込んだ時。

「司教様!」

 大階段の上から甲高い声が上がる。皆が見上げると、階段の手摺りから笑顔のマノンが身を乗り出している。

「見て見て! とっても素敵なのよ!」

「はしたないぞ」

 アリスティードにたしなめられても、マノンは大はしゃぎで階段を駆け降りてきた。繊細な襞を作る白いシュミーズがふんわりと風をはらむ。

「おお、綺麗だよ、マノン嬢!」

「本当に?」

「ああ、よく似合っている」

 マノンははち切れんばかりの笑顔でくるりと回ってみせた。桃色のサテンのリボンが風になびく。

「ね、司教様、似合う?」

 アリスティードは頷いてから眼差しをファビアンに向け、「お礼を」と呟く。

「伯爵! ありがとう!」

 メレンゲのように丸く柔らかいパフスリーブから伸びる白い腕がシュミーズの裾を摘み、優雅に膝を曲げる。ファビアンの方も右手を胸に添えて足を引く。

「お気に召されたようで、光栄です」

 やがて人々の後ろから、クラピソンがやってくる。

「さすがだ、クラピソン。彼女によく似合うドレスを仕立ててくれたな。感謝するよ」

「お役に立ててよろしゅうございました」

「ありがとう、クラピソンさん!」

 すっかりご満悦な様子の少女に職人の表情もほころぶ。そのうち、玄関の方で話し声が聞こえてくる。

「坊ちゃま、おかえりなさいませ」

 振り向くと、分厚い本を抱えた少年が執事の出迎えを受けている。

「ドロン教授はご在宅でございましたか」

「うん、本を貸していただいた」

 アルフォンスは、ホールに人だかりができているのに気付いて首を傾げた。その視線が少女と重なり、はっと息を呑む。

「坊ちゃま!」

 マノンは嬉しそうに声を上げると駆け寄った。

「あなたのお父様に作っていただいたの。ね、似合う?」

「……うん」

 きらきらした瞳で見つめられ、アルフォンスは素直に頷いた。すると、少女は嬉しそうに顔をくしゃっとほころばせた。アルフォンスの目が見開かれる。思わず身を乗り出してその笑顔を食い入るように凝視する。マノンは笑顔から一転、困惑したように目を丸くした。

「坊ちゃま?」

 ふたりの様子に大人たちも怪訝そうに見守る。しばし黙ったまま見つめていたアルフォンスは、ゆっくりと唇を開いた。

「……サンエタンセル」

 その名にマノンは口を両手で覆い隠した。ファビアンとアリスティードも息を吞んで身を乗り出す。アルフォンスがなおも言葉をかけようとした瞬間、マノンは背を向けると玄関を飛び出した。

「待って!」

 アルフォンスは抱えていた本を執事に押し付け、少女を追って玄関の階段を駆け降りる。マノンはドレスの裾をひらめかせながら大通りを横切ってゆく。ボンネットが飛ばないように両手で押さえ、道行く人々の間を縫いながら走るその背中を追ううち、一台の馬車が突っ込んでくる。

「危ない!」

 アルフォンスの叫びが届いたのか、マノンがはっと振り返る。馬は御者に手綱を引っ張られ、棒立ちになって前足で空を掻く。

「危ねぇぞ、どこ見てやがる!」

 御者がアルフォンスに向かって怒鳴りつけている間、マノンは再び走り出した。

「待ってくれよ!」

 怒る御者を放ってアルフォンスも追いかける。

 マノンは振り返らず、一心不乱に走り続けた。大通りを渡り、細い路地を抜け、いつしか視線の先に眩しい煌めきが見えてくる。プランタン市内を流れるブリズ川だ。川沿いには何軒ものカフェや露店が連なっている。ベンチやパラソルが綺麗に並ぶ岸で、マノンはついに足を止めた。

「はぁ……、はぁ……!」

 両膝を押さえ、前屈みになって忙しなく呼吸を繰り返す。追いついたアルフォンスは、少女の額に玉のような汗がこぼれるのを見ると、息を整えながらポケットからハンカチを取り出す。

「……これ」

 差し出されたハンカチに、マノンは戸惑いながらも受け取り、額を押さえる。

「逃げることないのに」

 大きく息を吐き出すとそう声をかける。

「やっぱり、君が聖女エタンセルだったんだね」

「……どうして」

 固く強張った表情でマノンが囁く。

「どうしてわかったの? 修道女でいる時は、お化粧をしているのに」

 聖堂で修道女を演じる際、マノンは顔に化粧を施す。特に人々が集まる祭礼では、アリスティードの知人である化粧師がわざわざマドロン座からやってくる。彼女に舞台女優並の化粧を施すためだ。舞台で培われた技術で、遠くからでも「聖女エタンセル」の尊顔を印象づけられる。そしてそれは、マノンの正体を隠すためでもあった。

「最初から、よく似ているなとは思っていたんだけど」

 アルフォンスは聖堂で見かけた修道女姿のマノンを脳裏に思い浮かべた。

「笑った顔がさ、同じだったから」

 マノンは思わず目を丸くして見つめてきた。そして、自分が言った言葉の意味を考えてアルフォンスはにわかに顔を赤らめた。

「え、えっと、君の本当の名前は?」

 恥ずかし紛れに尋ねると、少女は再び目を伏せた。

「……マノン」

 マノンというのが本当の名なのか。だが、彼女は小さな声で付け加えた。

「サーカスの親方がつけた名前だから、本当の名前かどうかはわからないけれど」

 アルフォンスは言葉を失った。では、孤児であることに間違いはないのか。名前すら、実の両親から授かったものではないというのか。だが、それと同時に別の衝撃も受けた。

「サーカス……。じゃあ、もしかして、君が起こしたという奇跡は……」

「喉が」

 不意に顔をしかめたマノンが小さな手を喉に当てる。

「喉が渇いた」

 ずっと駆け通しだったからだろう。アルフォンスは辺りを見渡すと、ひとまず手近のベンチを指さす。

「そこに座っていて」

 不安げに首を傾げるマノンに、「すぐ戻るから」と言って背を向ける。マノンは言われるままにベンチに腰を下ろした。その表情はまだ不安でいっぱいだ。目の前には、春の陽光を浴びてきらきらと光り輝くブリズ川が静かに流れている。小さなヨットがいくつか停泊し、カモメがゆったりと空を旋回している。のんびりと風に乗るカモメの姿を眺めているうち、いくらか心が落ち着いてくる。

「お待たせ」

 少年の声に振り向くと、彼は両手に色々抱えて戻ってきた。透明な細長いガラス瓶が二本と、焼き菓子が四つ乗った皿。屋台で買ってきたのだろう。

「ほら、レモネードとフィナンシェだよ」

 一瞬目を輝かせたマノンだが、すぐに眉をひそめる。

「……私、お金持っていないわ」

 アルフォンスはきょとんとした表情で見つめ返す。

「支払いは済ませたから大丈夫だよ」

 それでも強張った表情のマノンは、怖々と囁いた。

「私、あなたに何をしたらいいの」

 はっと息を呑む。そして、怯えた眼差しを向けてくる少女に何と言葉をかけようかと必死に頭を巡らせる。

「……そうだ、こうしよう」

 アルフォンスは腰を屈めると、できるだけ優しく語りかけた。

「こんなにたくさんのお菓子は僕ひとりじゃ食べきれない。手伝ってくれないかな」

 それでも素直に頷こうとしないマノンだったが、アルフォンスは皿と瓶を間にして座り込んだ。

「ほら、喉渇いたろう?」

 レモネードを差し出され、おずおずと手を差し出す。

「乾杯」

 瓶をかちんと合わせると、マノンはようやく表情をほころばせた。

「……ありがとう」

 マノンの小さな唇に瓶の口が触れる。口に広がる爽やかな酸味。

「美味しい」

「さぁ、食べて」

「うん」

 小さな両手できちんとお行儀よくフィナンシェをかじる。焦がしバターの香ばしい香りに笑顔が広がる。アルフォンスはほっと息をついた。しばらくマノンは黙ってフィナンシェを食べていたが、やがてぽつりと呟く。

「……サーカスではあんまりご飯を食べられなかったの」

 自分から話し始めてくれた。アルフォンスは頷くと身を乗り出した。

「ご飯は朝と晩に少しだけ。お腹がすいたら、自分で働かなきゃならなかった。働くのが嫌なら物乞いでもしろって、親方に毎日言われていたわ。……物乞いは嫌だから、一生懸命働いた」

 想像以上の言葉に、アルフォンスは眉を寄せて目を見開いた。

「……サーカスでは、何をしていたの」

「手品。親方は厳しくて怖かった。でも、うちの親方はいい人なんだって。他のサーカスでは、『しょうかん』に売られた子がいっぱいいるんだって」

 娼館。アルフォンスの背にぞくりと悪寒が走る。マノンのような愛らしい顔立ちなら、今頃売られていてもおかしくはない。だが、マノンは表情をゆるめると嬉しそうに呟いた。

「だけど、司教様がサーカスから連れ出してくれたの。怖い親方はもういないわ」

 そうだったのか。だが、先ほどの疑念が再び頭をもたげる。

「じゃあ、君がオレオル聖堂で起こした奇跡は、やっぱり……」

「うん。手品よ」

 むしろ誇らしげに答えてみせる少女に、アルフォンスは顔をしかめてにじり寄る。

「君は、自分が何をしているのかわかっているの?」

「うん。皆が喜んでくれてる」

「待って」

 アルフォンスはたまらず声を高めた。

「僕はこのあいだの月祈祭で初めて君の奇跡を見た。皆が驚いて、感動して、たくさんの寄付を寄せていた。奇跡だと思ったからだよ。君を通じて神が起こした奇跡だと思ったから……! だから、僕の母もあんな大金を」

「そのお金、どうなったと思う?」

 少女の冷静な声に口をつぐむ。マノンは大きな瞳でまっすぐ見つめてくる。

「伯爵の奥様からいただいたお金で、施薬院のお薬が買えたのよ。それだけじゃないわ。あの日の寄付で、アゼマ通りの乳児院の修理をするんですって。皆、喜んでるわ」

 穢れのない綺麗な瞳で語る少女に、アルフォンスは言葉を失った。彼女が小さな手でスープを注いで回っていた姿が脳裏に蘇る。

「人はね、奇跡を見ないと神様を信じないんだって」

 マノンはフィナンシェを一口かじるともぐもぐと口を動かす。

「生きている人を救うのは神様の愛じゃない。お金だって。司教様がそう言ってた」

「マノン」

 初めて名前を呼んでみる。少女は顔をほころばせて振り返った。そんな彼女に、諭すようにゆっくりと語りかける。

「どんなに良いことに使ったとしても、人の目を欺いて得たお金だよ」

 少し不思議そうな表情で口をもぐもぐさせていたマノンだったが、やがてごくんと飲み込む。

「もしも」

 口の端についた食べかすがぽろっとこぼれる。それでもまだ唇についている食べかすをそっと拭ってやる。

「もしも、私の手品を見なければ、あなたのお母様はオレオル聖堂に寄付をくださったかしら」

「……え?」

「プランタン大聖堂には毎日たくさん寄付が贈られるんですって。たくさん寄付した人の名前が壁に刻まれるのでしょう? 国中から巡礼に訪れる人の目に触れるようにって。でも、オレオル聖堂は寄付なんか全然なかったわ。私が来るまでは」

 マノンの語る言葉のひとつひとつが胸に突き刺さる。今まで知りえなかった膨大な真実のひとつ。それでも、アルフォンスはその事実を受け入れられない。

「私がオレオル聖堂に引き取られてから、聖堂の生活は何も変わってない。聖堂にはお金は残らないもの」

 そこで、マノンはアルフォンスの顔をまじまじと覗き込んだ。

「前に話してくれたよね。『かがく』は私たちの暮らしを変えてくれるって。どうやって変えてくれるの? お金よりも、私たちを幸せにしてくれるの?」

 科学の可能性を信じていたアルフォンスは、少女の問いに答えられなかった。どう説明すれば、彼女を納得させられるのだろう。答えられずに黙りこんだ少年に、マノンもフィナンシェを食べる手を止める。

「……坊ちゃま」

 その呼びかけにふっと微笑を浮かべる。

「……僕はアルフォンス。アルフォンス・デスタン」

「アルフォンス坊ちゃま」

 マノンも嬉しそうに名前を繰り返す。

「伯爵につけてもらった名前なのでしょう。いいなぁ」

 素直に羨ましがるマノンに、アルフォンスの表情が再び陰る。

「……ねぇ、マノン。教えてほしいんだ」

「なぁに」

「……その、僕の父は……、本当に君に何もしていない?」

 絞り出すようにして呟いたその言葉に、マノンが眉を寄せる。脳裏に屋敷での出来事が蘇る。伯爵は大きな手で頬を包むと、唇を寄せようとした。

「……ううん、何も」

 少し固い声色で返す。そして、顔をしかめて身を乗り出す。

「よほど、お父様を信じていないのね」

 でも、あの伯爵では無理もない。マノンはこっそりそう思ったが、アルフォンスは顔を見られたくないのか俯いてしまった。

「……アルフォンス」

「ごめんね」

「え?」

「初めて君と出会った時、ひどいことを言った。ごめんね」

 何のことかと最初はわからなかったが、そのうちに思い出す。マノンはくすりと笑った。

「私のこと、少女娼婦だと思ったの?」

 アルフォンスはようやく顔を上げた。眉間に皺を寄せ、泣き出しそうに歪めた表情にマノンは言葉をなくした。

「僕にはね、兄弟がたくさんいるんだ」

 どこか吹っ切れた様子で語り始める。

「兄と弟、妹がひとりずつ。……皆、母親が違う」

 マノンは首を傾げた。

「母と結婚する前から、父には愛人がたくさんいた。今もだ。だから、兄弟がたくさんいる。ひょっとしたら、僕が知らない兄弟がもっといるかもしれない。小さい頃は彼らとよく遊んでいたけど、今は会うこともできない。父は、今でも仕送りをしているそうだけど」

「優しい人なのね」

「優しいもんか!」

 突然怒鳴られ、マノンはびくりと体を震わせた。

「……ご、ごめん」

 かすかに震えた声で謝られ、どきどきと脈打つ胸を押さえながらマノンは黙って頷いた。アルフォンスは自分を落ち着かせるように溜息を吐き出した。

「仕送りはしているけれど、それがいつまでなのかわかったものじゃない。大体、母を裏切り続けているんだ。優しいものか。僕は、父を許せない」

「……でも」

 おずおずと言葉を挟むマノンに振り返る。少し怯えた表情のまま、彼女は小さな声で囁いた。

「サーカスにもあなたの兄弟みたいな子たちがたくさんいたけれど、仕送りなんかなかったわ。あなたのお父様は……、優しいわ」

 ふたりはしばし見つめ合った。やがてアルフォンスは寂しそうに微笑んだ。

「……そうかもしれないね」

 そして、恥じ入るように囁く。

「でも、父の女好きは異常だ。だから……、最初に君を見た時は子どもにまで手を出したのかと怒りを覚えた。そうでなければ、僕の新しい妹かと思った」

 なるほど、そういうことだったのか。マノンはすべての謎が解けたような思いでアルフォンスを見上げた。

「……でも、家族っていいな」

 ぽつりと呟いた言葉に、アルフォンスは気まずそうに口をつぐんだ。マノンには家族がいない。自分には両親がいるが、父を憎み、軽蔑している。

「私のお母さんやお父さんってどんな人だったのかなぁ」

 そう呟きながらフィナンシェをかじる。アルフォンスは怖々と尋ねた。

「……覚えていないの?」

「全然。気付いた時にはもうサーカスにいたんだもの。親方が言うには、教会の門に捨てられてたんだって。修道士に拾われる前に親方が拾って、そのままサーカスで育ったの」

 アルフォンスにとっては衝撃的なことを、マノンはまるで他人事のように淡々と語ってみせる。だが、その時親方が拾っていなかったら? こうして二人が出会うこともなかったかもしれない。

「でも、不思議だよね」

 マノンはどこかわくわくした様子で言葉を続ける。

「今はこうしてオレオル聖堂で暮らしているもんね。人生何が起こるかわからない、ってお芝居で言ってたけど、本当にそうだわ」

「……そうだね」

 少なくとも、彼女は聖堂で大事にされ、今の生活に満足している。そのことにアルフォンスは安堵の溜息をついた。安全な生活と引き換えに、マノンは身に着けた手品で奇跡を起こし、聖堂に恵みをもたらしている。その恵みは聖堂だけでなく、聖堂区全体に行き届いているのだ。だが、ふと思い出して顔をしかめる。

「ところで……、屋敷に来たのはどうして?」

 アルフォンスの問いにマノンはぎくりとする。

「……秘密」

 ぎこちない答え。アルフォンスは心配そうな表情に変わる。

「父に呼ばれたと言っていたよね。何のために」

「……私からは、言えない。約束だから。伯爵に聞いて」

 歯切れの悪い言葉にどこか不安を覚えるが、これ以上は追求できない。アルフォンスは仕方なく頷いた。

「ごちそうさま。美味しかった」

 ふたつのフィナンシェを食べ終えたマノンはレモネードをごくごくと飲み干し、満足そうに息をつく。アルフォンスは、まだ手をつけていない自分のフィナンシェを示した。

「良かったら、もうひとつ食べる?」

「えっ」

 明らかに表情が輝いた少女に「いいよ」と声をかける。

「ありがとう……!」

 嬉しそうにフィナンシェを手に取ると、実に幸せそうな笑顔でかぶりつく。だが、その様子にアルフォンスは不安を覚えた。

「マノン、普段ちゃんと食べているのかい」

「うん」

 明るい返事。

「温かいご飯に、綺麗なベッド。古着だけど、時々お洋服も買ってもらえるの。聖堂の皆は優しいし、私、オレオル聖堂に来て本当に良かった」

 が、そこで真顔になって口をつぐむ。かすかに眉をひそめ、大きな瞳は憂いを帯びる。

「だから……、恩返しがしたいの」

 幼いながらも、強い思いが感じられるその言葉にアルフォンスは口をつぐんだ。いじらしい少女の横顔をじっと見つめていると。

「マノン」

 二人の背にかけられた声に振り返る。と、そこにいたのは黒いローブを着た司教と、ぼさぼさ頭の男。

「司教様!」

 マノンは喜びの声を上げると席を立った。そして飛び跳ねるようにしてアリスティードの許へ駆け寄る。

「司教様、坊ちゃまにレモネードとお菓子をごちそうになったの」

 司教はベンチに残された瓶と皿を見やると、アルフォンスに向かって一礼する。

「ありがとうございます、若様」

 アルフォンスはゆっくりと立ち上がった。

「帰ろう」

「はい」

 素直に頷くと、マノンはアルフォンスを振り返る。

「またね、アルフォンス」

「あ、マノン」

 少年は慌てて呼び止めた。

「あまり……、白粉を塗っちゃいけないよ」

 首を傾げるマノンに、言い聞かせるようにゆっくり言葉を続ける。

「白粉は鉛でできているんだ。体に良くない。たくさん塗っちゃ駄目だよ」

 マノンは思わず両手で頬を押さえた。そして、真顔で何度も頷く。やがて、アリスティードが再び頭を下げると、マノンが甘えるように手を取る。若い司教は少女の頭を軽く叩くと、その手を引いて立ち去っていった。

 ひとり残されたアルフォンスはしばらくその場に立ち尽くした。先ほどの会話がぐるぐると頭の中を巡る。やがて、彼は意を決して顔を上げ、足を踏み出した。

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