第4話
それから数日後のオレオル聖堂。聖堂の拝廊では、次の祭礼の準備が進められていた。ヴァン・エール教ではいつも何かしら祭事が行われる。その度に教徒らのお布施が集まるわけだが、祭事を執り行うのもかなりの出費であり、オレオル聖堂に限らず、これはどの聖堂も頭を悩ませる問題だ。開いた帳簿を睨むアリスティードのこめかみがぴくぴくと引きつる。やがて溜息を吐き出す彼の耳に、子どもたちの声が聞こえてくる。
「ほら、マノン!」
侍祭の少年、ポールが薪のように太い蝋燭を投げるとマノンが両手で受け取る。
「もう一本!」
蝋燭がもう一本投げられる。が、両手の蝋燭を見つめたマノンは、何を思ったか蝋燭を投げ上げるとお手玉を始めた。
「わぁ! すごいな!」
薄茶色の古ぼけた蝋燭がくるくると宙を舞う。右から左へ、流れるように弧を描く蝋燭にポールが歓声を上げる。
「ポール、もう一本」
「え、いいのか」
「投げて」
ポールが恐る恐る三本目の蝋燭を放る。と、空いた手で蝋燭を受け取ると手首をひねり、空中に投げ上げる。三本の蝋燭が共演を始め、掃除をしていたシルヴィとマリエルもぽかんと口を開けて見入る。
「すごいな、マノン!」
「これぐらい朝飯前よ」
そう言って得意げに笑うマノン。帳簿から顔を上げたアリスティードが目を細める。子どもらしいあどけない笑顔。手品を披露する時の彼女はいつも瞳が輝いている。違う。披露した手品に喜ばれ、褒められた時だ。アリスティードの脳裏に、半年ほど前の光景が鮮やかに浮かび上がる。
あの日の彼女も、弾けるような笑顔で手品を見せていた。何枚もの端切れを重ねたスカートに、ぎざぎざの裾のスカート。男物のハットをかぶった少女はきらきら光る色鮮やかなボールを何個も宙に舞わせていた。集まった人々は驚嘆の眼差しで溜息を漏らす。やがて、操っていたボールのひとつを前に投げると、マノンは靴先でボールを蹴った。観客がわっと歓声を上げる。丸い革靴の先でボールをぽんぽん蹴りながらもお手玉を続け、皆が一斉に拍手を贈る。スカートの裾がひらりひらりとめくれ上がる度に、男たちが嬉しそうな声を上げる。マノンは最後にボールを強く蹴り上げると、ハットの上に着地させた。観客は大喜びで手を叩いた。皆に向かって笑顔で膝を曲げて一礼するマノンに、観客は貨幣を投げ与えた。それもかなりの量だ。やがて観客はばらばらと散っていった。マノンはふぅと息をつくと貨幣を一枚一枚拾い、ハットの中へ放り込む。
「おい」
その小さな背にだみ声が浴びせかけられる。マノンは顔を強張らせて振り返る。
「見せな」
そこにいたのは赤い鼻をした大柄な男。マノンは怖々とハットを差し出す。男は貨幣をじゃらじゃら掻き回すと額の大きなものばかり抜き取り、マノンに投げ返した。地面に転がるハットから小銭がこぼれる。それでもマノンは文句ひとつ言わずに拾い上げる。そして、残された小銭を数えると溜息をつく。やがて小銭を握り締めるとマノンは走り出した。移動遊園地にはいくつかの露店が出ており、そこから食欲を誘う甘い香りが漂っている。そのうちの一軒を前にすると、マノンは手のひらの小銭に目を落とした。足りない。これではあのお菓子は買えない。マノンの瞳から涙がにじむ。顔を上げると、父親に連れられた男の子がお菓子を買ってもらっている。焦げた砂糖。香ばしいアーモンド。あんなに美味しそうなのに。目の前には、あんなに山盛りになっているのに……!
乾いた唇を引き結び、その場に立ち尽くしていたマノンの姿を忘れることができない。アリスティードは帳簿を抱えたままじっと少女を見つめた。
「司教様!」
不意に呼びかけられ、ぎくりとして振り返る。
「お屋敷に行ってまいりました。染料問屋を紹介してくれましたよ。さすがですね。アランブール伯は画家のクレマンのパトロンですからね」
〈お告げ〉に仕掛ける奇跡の演出に染料を使うことになり、ガスパールがファビアンに相談に行っていたのだ。話を聞きつけたマノンが二人のもとにやってくる。
「青の染料は手に入るの?」
「ああ、なんとかなりそうだ。伯爵の紹介ってことで、安く仕入れさせてもらえる」
アリスティードは帳簿をめくった。
「そうは言っても舶来の染料だ。アントナンに交渉させよう」
「はい」
商家の息子だったアントナンは商談が得意だ。それ故、聖堂の経理を任されている。
「早速行ってきます」
「私も行く!」
待ってましたと言わんばかりに声を上げるマノンにアリスティードが眉を寄せる。
「おまえがついて行っても邪魔になるだけだ」
「染料問屋なんて行ったことないもの。行ってみたいな」
「マノン」
溜息まじりに声を上げるアリスティードだったが、ガスパールは仕掛けの図面を鞄に押し込みながら笑いかける。
「いいじゃないですか、司教様。伯爵のお屋敷よりかよっぽど安全ですよ」
「ガスパール」
鋭い口調でたしなめられ、「いけねぇ」と肩をすくめる。
「ねぇ、司教様、いいでしょう。いい子にしてるから」
必死に見上げてくるマノンに、アリスティードは再び溜息を吐き出す。
「……行ってこい」
「ありがとう!」
嬉しそうに叫ぶとぴょんぴょんその辺りを飛び跳ねる。
「ほらほら、はしゃいでねぇで。出かける準備をしな」
「はーい!」
こうして、マノンたちは聖堂を出て画材問屋に向かった。ファビアンに紹介された問屋は、セドラン通りの老舗問屋「ル・バラボー」。セドラン通りは数多くの工房が軒を連ねており、そのため、画材や資材の問屋も多い。
「あそこだ」
綺麗な緑色の壁が目を引くル・バラボー。掲げられた看板は鮮やかな色が塗り分けられたパレットの形をしており、出窓には王都プランタンの風景を描いた美しい額絵がいくつか飾られている。絵筆を模した洒落た取っ手のついた扉を押し開くと、独特の油臭い匂いがつんと鼻を突く。薄暗い店内には木製の棚がいくつも並び、一見すると図書館のようだ。
「ええと、話はつけてもらってるんだがな」
人気のない様子にガスパールが呟き、マノンは珍しそうに辺りに目を向けた。
「奥に……」
アントナンが奥に手を向ける。一番奥の棚の向こうでランプが灯っているらしく、オレンジ色の明かりが揺れている。と、天井に黒い影が揺れ、マノンは思わずアントナンのローブの裾を握り締める。
「ごめんください」
ガスパールが声をかけると、「いらっしゃい」と返ってくる。やがて靴音が聞こえると、前掛けをした男が現れる。
「アランブール伯からご紹介いただいた者です」
「ああ、オレオル聖堂のお方ですね。お待ちしておりました。バティストと申します」
職人はまず修道士に向かって手を合わせて頭を下げると、立ち並ぶ棚を指し示す。
「染料がご入り用でしたね。たくさんありますよ。ドニ、手伝っておくれ」
バティストの呼びかけに、奥から徒弟らしき青年がやってくる。黒ずんだ前掛けに腕貫き姿の青年は訪れた客に目を走らせ、場違いな少女に目を丸くする。
「どのような染料をお求めですかな」
「布を染めるのです。聖母様の祭礼に使うので青色のね。大量に必要なので、できるだけ値は抑えたいんです」
「生地は」
「リネンです」
ガスパールとバティストが話をしている最中、マノンは興味津々に棚を見回した。ガラス戸の奥には色取り取りの粉が入れられた瓶がぎっしり並んでいる。水色、青色、緑色。濃淡鮮やかな色彩が薄暗い店内で光を放つように佇んでいる。やがて、繊維だとか生地だとか専門的な言葉が飛び交い始め、少々退屈してきたマノンは棚に並ぶ色鮮やかな瓶を眺めながら歩き出した。ねっとりとした状態の油絵の具や、見るからにさらさらとした粉状の染料など、不思議な光景が続く。長い棚を見終わり、隣の列を覗き込むと、眉をひそめたアントナンが身を乗り出して声をかけてくる。
「マノン、悪さをしてはいけませんよ」
「はぁい」
振り向きもせず、染料に目を奪われたマノンは気のない返事だ。綺麗なガラス瓶に閉じ込められた色彩。これらはどんな風に、どんな人たちに使われるのだろう。奥の棚にはガラス板がはめ込まれておらず、染料の瓶が剥き出しで仕舞われている。
「綺麗ねぇ……」
思わずそう囁きながら瓶を眺める。瓶が仕舞われている棚の下は引き出しが並んでいる。こっそり引き出しを開けてみると、鮮やかに染め上げられた布地が現れた。
「すごい……!」
妖しい光沢を放つ美しい布地をそっと撫でてみる。深い森を思わせる藍緑色。マノンは、以前観にいった芝居の光景を思い出した。魔女を演じていた女優が、こんな色の衣装を着こなしていた。彼女はうっとりとした表情で息をつくと、引き出しを閉じた。そして、再び染料の瓶を見上げながら歩き出す。ちょうど目の前にあるのは目が覚めるような鮮やかな紅色。そこだけが燃え上がっているようだ。マノンは身を乗り出した。爪先立ち、小さな手を伸ばす。あとちょっとで手が、
「駄目だよ」
マノンは息も止まらんばかりに飛び上がると、後ろを振り返った。そこにいたのはひとりの少年。彼は振り向いたマノンの顔立ちにあっと声を上げる。
「……君は、あの時の」
伯爵の息子。少年は気まずそうに小さく頭を下げた。
「……先日は、失礼なことを言った。申し訳ない」
相変わらず生真面目な言葉。マノンはほっと息をつくと、棚の瓶を振り仰ぐ。
「どうして触っちゃ駄目なの」
「……染料は毒のある鉱物から作られることが多い。不用意に触ってはいけないよ」
幼いマノンにもわかるように優しい口調で言い含めてくる。屋敷で出会った時と違い、穏やかな様子にマノンも表情をゆるめる。
「ふぅん。そうなんだ」
マノンは首を傾げて瓶を見上げる。
「あんなに綺麗なのに」
その言葉に、アルフォンスは身を乗り出すと瓶に貼られた札を覗き込む。
「今、君が触ろうとしていたのは……」
目を細め、顔をほころばせる。
「辰砂だ。水銀だよ。猛毒だ」
途端に、マノンは足をもつれさせて後ずさるとアルフォンスの腕にしがみついた。思わずどきりとした彼だったが、同時にほっと安堵の吐息をつく。屋敷では強がった態度だったが、こうして見ると年相応の無邪気な少女だ。
「大丈夫だよ。正しい使い方をすれば怖くない」
それでも強張った顔つきで瓶を凝視するマノンに苦笑を漏らす。笑われたことにちょっと唇を尖らせながらも、マノンは上目遣いに尋ねてくる。
「あなたは絵を描いているの?」
「いや、絵は描かない」
では何故詳しいのかと尋ねようとした時。
「おや、アルフォンス坊ちゃん、いらっしゃっていたのですか」
棚の陰からドニがひょっこりと顔を覗かす。
「例のものが届いておりますよ。少々お待ち下さい」
ドニの言葉に、アルフォンスの表情がぱっと明るくなる。しばらくすると、ドニが木箱を抱えて戻ってくる。
「お待ちいただいていた、胆礬でございますよ」
「ありがとう……!」
アルフォンスは嬉しそうに囁くと木箱を受け取る。
「たんばんってなぁに?」
マノンの問いかけに、アルフォンスは明るい笑顔を向ける。
「見てみるかい?」
そう言って木箱の蓋をそっと開く。中を覗き込んだアルフォンスは感嘆の呻きを上げた。そして、腰を屈めるとマノンに見せる。
「わぁ!」
木箱の中には雪のような綿に包まれた、鮮やかに透きとおる青い石が眠っていた。菱形の結晶が規則的に絡み合い、ガラス質の輝きを放っている。海の底を思わせる深い青。鮮やかなその色は、マノンに露店で売られていた飴ボンボンを思い出させた。
「何だか美味しそう!」
「美味しそう? ああ、綺麗だからね」
マノンの子どもらしい言葉にアルフォンスが笑う。
「これサファイアじゃないの?」
「見た目は似ているけれど、違うよ。宝石と違って加工できるほど硬くないんだ」
目をきらきらさせて石に見入っていたマノンだが、不意に真顔になってアルフォンスを見上げた。
「……この石も毒なの?」
「そうだね。硫酸が主成分だから、危険といえば危険かな」
「詳しいんだ」
感心したように声を上げる少女に、ドニが腰を屈めて口を挟む。
「アルフォンス坊ちゃんは鉱物の蒐集をしているんだ。今に有名な学者先生になるさ」
「買いかぶりだよ、ドニ」
気恥ずかしげに反論するアルフォンスだったが、丁寧に木箱の蓋をするとドニを見上げる。
「また、鉱山から珍しい石が入ってきたら教えてくれないかな」
「お安い御用ですよ」
そう言ってドニは片目を瞑ってみせる。と、彼らの背後でマノンが踵を踏み鳴らして体を上下させる。
「ねぇ、ねぇ。他に面白い石のお話をして」
「面白い石?」
そうだなぁ、と辺りを見渡したアルフォンスは、やがて何かに思い当たると「おいで」と手招く。その手をさっと握るとマノンがぴったりと寄り添う。思わぬ行動にどぎまぎしながら、アルフォンスは棚の間を通り抜けた。
「ほら、あれだ」
アルフォンスが指さしたのは、深い碧色の粉末を閉じ込めた瓶。
「綺麗。あれはエメラルド?」
「いや、あれも違う石だよ。マラカイトという石でね、大昔の裕福な女性たちはあれを水に溶いたものをまぶたに塗っていたんだ」
「まぶたに?」
驚くマノンに、アルフォンスは指先でまぶたをなぞって見せる。
「そう、まぶたにね。でも、ただの言い伝えかもしれない。あれを実際にまぶたに塗ったら、腫れ上がってしまうよ」
またもや恐ろしい話を聞かされ、マノンは顔を引きつらせて緑色の粉を見つめる。
「それだけ、女性は昔から美しくなることに貪欲だったということだね」
「ふぅん」
マノンは首を傾げて棚を見上げる。そのまっすぐな眼差しにアルフォンスが思わず顔をほころばせる。
「綺麗だろう?」
「うん。でも、石って怖い」
「怖いものばかりじゃない」
その言葉にマノンが見上げてくる。
「確かに毒のように使われたりもするけれど、僕らの生活に役立つものもたくさんあるんだ。今こうして並んでいる染料のようにね。使い方によっては薬になったり、肥料になったり……、花火の材料にもなるんだ」
「花火?」
思わず聞き返す。
「そうだよ。染料のように、石ごとにいろんな色の炎になるんだ。正しくは、石というより金属なんだけどね」
「すごい!」
目を輝かす少女にアルフォンスも嬉しそうに微笑む。
「これからは科学の時代だよ。こういった技術が、皆の暮らしを変えていくんだ」
誇らしげな眼差しで語る少年に、マノンはどこか憧れのような思いで見つめる。だが、二人の間に優しい空気が生まれたのも束の間。
「マノン、帰りますよ」
棚の陰から修道士が声をかけてくる。
「終わったの」
「ええ。良い染料をいただけました」
アントナンの隣では、書類を食い入るように見つめるガスパールの姿がある。少しだけ名残惜しそうな表情でマノンは修道士のもとへ歩み寄った。アルフォンスもどこか寂しさを感じながら見送る。
「ご迷惑をおかけしてはいないでしょうね」
「うん」
几帳面そうな面立ちの若い修道士が眉をひそめながらマノンに言い含めている。
「では、帰りましょう」
「はい」
素直に答えるマノンだったが、ふとこちらを振り返る。大きな瞳でじっと見つめられ、アルフォンスは身じろぎもせずに佇んだ。
「じゃあね」
口許をわずかにゆるめた少女は、肩のあたりで小さく手を振った。
「……うん」
つられて手を上げる。彼女は嬉しそうに顔をくしゃっとほころばせると、修道士に連れられて店を出ていった。
その日の晩。食事を終え、ポレットと一緒に大好きな風呂へ向かうマノンを見送ると、アリスティードはおもむろにガスパールに問いかけた。
「伯爵の屋敷では何か言われたか」
「いいえ、何も」
ポレットやマノンがいなくなった途端、自分用の戸棚からワインの瓶を取り出しながら答える。
「飲みますか、司教様」
答えない司教のために問答無用にグラスに注ぐ。
「ただ、ル・バラボーでカンテ伯の噂を聞きましたよ」
「どんな」
「当然と言えば当然なんですが、王太子殿下の縁談交渉のために度々ネーベルへ赴いていたそうなんです」
そこで言葉を切り、ワインを呷る。
「縁談を持ちかけたのはカンテ伯本人で、国王陛下の意向じゃない。だから、交渉のための費用はすべて伯爵持ちだったはず。莫大な費用がかかったろうに、やたら金回りがいいって、あの辺りでは評判だったらしいですよ」
アリスティードは眉間の皺を深めさせながらグラスを唇につけた。
「ああ見えて、私生活も派手らしいですしね。ちぇっ、いい身分だなぁ」
そう毒づくとガスパールは残りのワインを流し込む。そして、考え込んだままのアリスティードを見やる。
「司教様」
司教ににじり寄ったガスパールが声をひそめる。
「事件の裏には金の動きと女あり、って言いますからね。そっちから突き詰めていくのも『あり』なんじゃないですか」
その言葉に迷惑そうな目つきで見返すと、アリスティードは溜息を吐き出した。
翌朝。オテルや居酒屋、劇場などが立ち並ぶ粋な界隈。ここは王都プランタンで最も賑わいをみせる歓楽街、サン・フェレール通り。夜ともなればけばけばしく猥雑な彩りに溢れるが、朝のうちは艶麗さはなりをひそめ、さながら眠りについた美女のような静けさが広がる。時折、夜の仕事を終えた人々が眠そうな顔つきで店の前を掃除している姿がちらほらと見受けられる。
そんなサン・フェレール通りの一角に建つ一軒のオテル。派手さはないものの清潔な室内。洒落た夜具が用意されたベッドと、小さなテーブル。その脇の椅子に座り込んでいるのはひとりの青年。場違いな野暮ったい黒いローブ。用意されたワインとグラスには手をつけた様子はない。目だけ動かし、窓の向こうの景色を見やる。明るくなりつつある青空が広がり、教会の鐘楼が霞んでいるのが見える。彼は退屈そうに目を閉じると鼻を鳴らした。と、部屋の外から派手な足音が響いてくる。女物の固いヒールの音。眉を寄せながら目を見開くと。
「アリスティード!」
開け放たれる扉。現れたのは艶っぽいドレスを身にまとった若い女。襟ぐりが大きく開いた胸許と、肩を隠す緋色のショールが目に鮮やかに焼き付く。
「良かった! やっと司教を辞める気になったのね!」
「デジレ」
否定する間も与えず、デジレと呼ばれた女はアリスティードの首に細い腕を巻き付ける。
「ずっと待っていたんだから!」
「違う、デジレ。聞きたいことがあるんだ」
頬に唇を押し付けたデジレの動きが止まる。そして、がっかりした様子で眉をひそめ、じっと見つめてくる。
「いやだ、また何か調べているの?」
「ああ」
途端にデジレは唇を尖らせ、頬を膨らませた。それでも愛らしい顔つきは変わらない。
「……もう。あなたってば、あたしを呼ぶときはいつもそうなんだから。あなたに会えると思って今日は一日仕事を休んだのに」
「対価は支払う」
そう言って、アリスティードはテーブルに金貨を何枚か置く。だが、デジレは飲み飽きた酒瓶でも見るような眼差しを向けるばかりだ。
「お金なんかいらないわ」
「遠慮はしないでいい」
それでもふくれっ面をやめず、デジレはどさくさに紛れてアリスティードの膝にそのまま座り込む。白い腕が蛇のように首を抱き、彼は少し迷惑そうな顔つきで頬を撫でる。
「で? 何を聞きたいのよ」
まだ機嫌を損ねた口調で尋ねてくるデジレに、アリスティードが向き直る。
「カンテ伯ダミアン・フロベール。何か噂を知らないか」
「ああ、ダミアン?」
デジレは結い上げた黒髪のほつれを掻き揚げながら声を上げる。
「あたしたちのお得意様よ。金払いがいいから、評判はすこぶるいいわ。最近のお気に入りはヴァレンヌよ」
ここでも金回りの良さを指摘されるとは。アリスティードは眉を寄せた。
「そうそう。最近ヴァレンヌがワインをくれたわ。とっても上等なワイン。ダミアンがたくさんくれたからって、お裾分けにね」
「ワイン?」
「そう」
彼女は優雅な仕草で美しい足を組むと微笑んだ。
「あれはきっと外国のワインよ。ヴァレンヌと一緒になってあっという間に飲んでしまったわ」
デジレたちは高級娼婦だ。得意客から上質な食事や酒を振る舞われることも多く、舌は肥えている。
「……どれぐらいの量を譲り受けたんだ」
「さぁ? でも、一本や二本じゃないわ、きっと」
「他に……、伯爵が話していたことなどはないか」
「そう言われても……、ああ」
デジレはこめかみの辺りを押さえながら眉をひそめる。
「ネーベルにはいい女がいる、とか言っていたわ」
ネーベル。この名がついに登場したか。アリスティードはデジレを抱えたまま手を伸ばし、グラスにワインを注いでやった。
「なんだか、ネーベルに行くのが楽しみだったみたいよ。よく知らないけど……、ネーベルの姫君とローラン王太子がご婚約されたんでしょう?」
艶めく紅の唇をグラスにつけるものの、思い詰めた表情の司教にデジレが眉をひそめて顔を覗き込む。
「一体何を調べているの?」
だが、アリスティードは軽く頭を振っただけで何も答えない。
「……ねぇ、危ない真似はしないでよ」
「ああ」
心配そうに囁くデジレの頭を撫でると、小さく息をつく。
「ありがとう。参考になった」
「何よ、もう行くの?」
立ち上がるよう促され、デジレはがっかりた様子で尋ねる。
「こう見えて忙しいんでね」
冷たく突き放すアリスティードにデジレがすがりつく。
「ねぇ、いつまで司教なんかでいるの?」
「そうだな、飽きるまでかな」
「アリスティード」
鋭い目つきに代わったデジレがローブの裾を掴んで引き寄せる。
「わかってるのよ。聖堂区の皆を放ってはおけないんでしょ。乗りかかった船だもの。お人好しなんだから」
有無を言わせない口調ながら、どこか心配そうな眼差し。二人はしばし視線を絡めたまま沈黙した。やがてデジレは美しい眉をひそめると、アリスティードの癖のある金髪を優しく撫でつける。
「何を調べているのか知らないけど、気を付けてよ。あなたに何かあったら、あの子はどうなるの」
アリスティードは目を細めて笑ってみせた。
「……ありがとう、大丈夫だ。君が思っているほどお人好しじゃない」
そう言うと両手を差し出し、細い指で相手の頬を包み込む。瞬間、デジレの瞳が輝くが、予想に反して彼が唇を押し付けたのは額だった。
「神のお恵みがあらんことを」
堅苦しい口調で囁くアリスティードに、デジレは「もう!」と胸を叩く。が、彼は優雅に身を引くと恭しく膝を曲げてみせた。
「では、御機嫌よう。マダム」
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