第3話
約束の日。僧坊の掃除をしていたマノンの耳に、ばたばたと慌ただしい足音が飛び込んでくる。
「来た! お迎えが来たわ!」
「落ち着きなさい、シルヴィ」
アントナンが顔をしかめてたしなめると、マノンを振り返る。
「準備を。マノン」
「はい」
服を着替えに自室へ向かい、やがてポレットと共に僧坊へ戻ってくる。落ち着いたコスモス色のワンピース。綿ネルのそれは、マノンが持っている一張羅のよそ行きだ。同じ色のボンネットをかぶせ、リボンを結んでやるとポレットは肩を優しく撫でた。
「粗相のないようにね」
はぁい、と殊勝げに呟くマノンに息をつくと、こちらもいつもよりは身奇麗な服装をしたガスパールを見上げる。
「ガスパール、マノンを頼んだわよ」
「承知いたしました」
ガスパールはかしこまった素振りで一礼する。皆は中庭へ出たが、ふと辺りを見渡したマノンが聖堂へ向かう。拝廊の入口から中をのぞくと、侍祭の少年と共に祈祷の準備をしているアリスティードの姿が目に入る。
「司教様!」
振り返る司教に向かって両手を振る。
「いってきます!」
アリスティードは相変わらず眉を寄せた表情で返す。
「ガスパール、目を離すんじゃないぞ」
「かしこまりました」
一行が裏門へ向かうと、マノンは口をぽかんと開けて立ち尽くした。そこには、豪勢な二頭立ての馬車が客人を待っていた。傍らに佇んでいたオクタヴィアンが右足を引き、丁寧に腰を屈めて迎える。
「お迎えに上がりました、マドモアゼル・マノン」
そう言って扉を開き、手を差し伸べる。が、本人はまじまじとその手を見つめるばかりだ。
「お手を、お嬢様」
オクタヴィアンが笑いながらそう呼びかけ、マノンは顔を強張らせると慎重に小さな手を重ねた。馬車に乗り込むと、革張りの座席に居心地悪そうに座り、周囲を見渡す。そうするうちに、隣にガスパールが乗り込んでくる。
「うひゃあ、こいつはすごい。板ばね付きの本物の馬車だ」
わざと体を揺らし、車体がなめらかに上下する感触を楽しむガスパールに、マノンも顔をほころばせる。
「すごい馬車」
「ああ、さすが伯爵家だ」
最後にオクタヴィアンが乗り込むと、御者が馬に鞭をくれ、馬車は颯爽と走り出した。 蹄が地面を蹴る小気味よい音と共に、窓の景色が滑るように流れてゆく。が、それを目にした瞬間。マノンは息を呑んだ。目に飛び込んでは消え去る沿道の風景。軋む馬車。しなる鞭。それは、彼女の胸にしまってある記憶の箱を開いた。
荷台に押し込められた子どもたち。皆腹を空かせ、啜り泣いている。がたがたと軋む幌馬車は乱暴にマノンの体を揺り動かす。がたん、と大きく車体が持ち上がり、子どもたちは悲鳴を上げた。すると、御者座で鞭を振るっていた大男が鋭く振り返る。
「うるせぇ! がたがた騒ぐんじゃねぇ!」
「マノン」
はっと顔を上げると、隣のガスパールが真顔で見つめてくる。
「大丈夫か」
「……うん」
強がってみせるものの、顔の強張りはごまかせない。正面に座ったオクタヴィアンも心配そうに身を乗り出す。
「気分でも悪いのかな」
「大丈夫です」
幼い娘の気丈な一言に、オクタヴィアンは少し気の毒そうに眉をひそめる。知らない場所に連れていかれるのだ。怖がるのも無理はない。
窓からは相変わらず街並みが風と共に流れてゆく。見慣れた風景も、豪奢な馬車に乗っていると思うと別世界のように映る。そして、馬車はやがて宮殿にほど近い地域へと入ってゆく。洗練された邸宅が並ぶ、作り物のように美しい街並みだ。マノンは目にも麗しい屋敷の数々にうっとりと見とれた。
「さぁ、着いたよ」
オクタヴィアンの言葉に、再び緊張した顔つきに戻るマノン。馬車は大邸宅の前で止まり、扉が開かれた。先に降りたオクタヴィアンに再び手を差し伸べられ、マノンは覚束ない足取りで降り立つ。そして、目の前にそびえ立つ宮殿のような屋敷を見上げる。白亜の柱が並び、掃き清められた大理石の階段が屋敷まで導く。ポーチには執事らしき男性が出迎えている様子が見える。マノンとガスパールは思わず顔を見合わせた。
「……すごいお屋敷だな」
オクタヴィアンが客人を先導してポーチを潜ると、美しい大階段が見えるホールに出る。と、大階段から見覚えのある男が颯爽と降りてくる。その後ろには、小柄な初老の男性。
「やぁ、いらっしゃい。マノン嬢」
上機嫌で現れたアランブール伯爵に、マノンはワンピースの裾をつまむと膝を曲げる。
「クラピソン、今回の君のお客だ」
言われて初老の男が歩み出る。地味だが造りの良い上着を羽織り、洒落たキュロットを着こなした男は、人の好さそうな表情でマノンに笑いかけた。
「これは可愛らしいお嬢ちゃんだ。よろしく」
「クラピソンはプランタンでも指折りの仕立て屋だ。きっと君にぴったりのドレスを仕立ててくれるよ。早速取りかかってくれ」
「はい、採寸いたしましょう」
採寸と聞いてガスパールが思わず身を乗り出すと、ファビアンが手を上げる。
「大丈夫だ。小間使いを二人つける。君には例のものを用意する。オクタヴィアン」
主の呼びかけにオクタヴィアンが進み出る。
「こちらへ」
ガスパールは頷いたものの、マノンにそっと耳打ちする。
「失礼のないようにな。それと……」
「うん、気を付ける」
マノンの言葉に安心したように頷くと、ガスパールはオクタヴィアンに連れられて屋敷の奥へと向かった。
「では、お嬢ちゃん」
クラピソンに呼ばれ、マノンが緊張した面持ちで足を運ぶ。と、気づくと背後にはいつのまにか若い小間使いたちが控えている。大階段を上がってゆくクラピソンの後に続くマノンは、興味深そうに周囲を見渡した。吹き抜けの天井には煌めくシャンデリアが下がり、階段の手摺りはぴかぴかに磨き上げられている。大階段を上がった先の廊下には美しい彫像などが並び、マノンはひとつひとつに驚嘆の眼差しを向ける。やがて、小間使いが客間の一室を開き、皆を招き入れる。簡素で落ち着いた雰囲気の客間に、マノンは不安そうに立ち尽くした。クラピソンは用意しておいた大きな図譜をテーブルに広げた。
「どんなドレスがいいかな。今流行りのシュミーズドレスなどいかがかな」
そう言ってページを開くと、ふんわりとしたワンピースを身にまとった女性の絵が現れる。流行りの髪型に、豪華な羽根飾りをつけた帽子をかぶった美女。襟ぐりが大きく広がり、丸いパフスリーブが印象的だ。
「綺麗!」
マノンが思わず声を上げると、クラピソンはにっこりと笑った。
「刺繍のある白絹だとぐっとお洒落になるよ。腰のリボンは何色がいい?」
「桃色!」
「ああ、君は桃色が似合うね。お外にも着て行けるよう、
目を輝かせて図譜に見入るマノンだったが、スペンサーと聞いてはっと真顔に戻る。
「そんなに作ってもらってもいいのかしら」
「大丈夫だよ。伯爵からは一式揃えるよう仰せつかっている」
それでも少し心配そうな少女に、クラピソンが優しく言い含める。
「こんな機会はまたとないよ。今のうちに素敵なドレスを作ってもらいなさい。じゃあ、採寸しよう」
クラピソンが振り返ると、小間使いが巻尺を持って進み出る。
「お洋服を脱いで、下着だけになっていただきます」
マノンは顔を赤くして息を呑んだ。だが、二人の小間使いは慣れた手つきでさっさとマノンのワンピースを脱がしてゆく。木綿の肌着だけになり、心細そうに立ち尽くすマノンの肩にクラピソンが巻尺を当てる。思わずひゃっと声を上げるが、クラピソンは笑いながら手際よく肩幅や袖丈を測ってゆく。その様子に、二人の小間使いは唇を歪めて笑みを押し隠す。マノンは恥ずかしそうに眉をひそめ、顔を赤くして項垂れた。大きな窓に清楚なレースが揺れる静かな客間で、採寸は進められた。
やがて、ようやくクラピソンから「終わったよ、お疲れ様」と声をかけられたマノンはほっと息をついた。
「仕立てるのに何日かお時間をいただくよ。出来上がったら伯爵にご連絡を差し上げるから」
「はい……」
小間使いがワンピースを着せ付けると、「このままこちらでお待ちください」と告げる。
「ではお嬢ちゃん、楽しみに待っていてね」
クラピソンと小間使いらが客間を出てゆき、マノンはひとりでぽつんと取り残された。辺りを見渡すと優雅なソファが目につき、そっと腰を下ろしてみる。と、ソファはしなやかに姿を変え、マノンの腰を支える。
「ふわふわ……!」
思わず顔をほころばせて呟く。しばらく足をぶらぶらさせてソファの柔らかさを楽しむと、やがて静かに立ち上がる。改めて室内を眺め渡すと、見たこともないほど大きな暖炉や、流麗な陶器の器に飾られた瑞々しい花々などが目に入る。こんなに優美で華麗な世界があるのか。マノンは思わず溜息をついた。が、彼女の好奇心はこの部屋だけでは満たされなかった。思わず足音を立てぬように扉へ歩み寄り、そうっと開く。人気のない廊下。豪奢な絨毯がずっと奥まで続いている。マノンは身を乗り出して廊下を眺め渡した。彫像や甲冑、ガラスの花瓶といった調度品が等間隔で並べられている。扉をもう少し開き、一歩踏み出す。と、不意に絨毯を踏みしめる足音にびくりと体を震わせる。振り返ると、階段を上ってきたひとりの少年と視線がぶつかる。ふたりは、思わず無言で見つめ合った。
灰色の上着ジュストコール、白いジレにキュロット。ほっそりとした足は白い絹靴下に包まれている。見るからに上流階層の少年だ。マノンは、思わず粗末なワンピースの裾をぎゅっと握りしめた。少年は美しい眉をひそめると静かに歩み寄る。
「誰だ? 君は」
「……私は」
かすれた声で答える。一度口を閉ざし、唇を湿してから再び開く。
「伯爵に呼ばれてきたのよ」
呼ばれた、という言葉に少年の顔が強張る。
「まさか――、お父様は少女娼婦にまで手を出したのか」
わずかに怒りのこもった呟きにマノンの眉が吊り上がる。
「娼婦ですって?」
思わず声を高めた時。
「アルフォンス?」
階段の下から声がかけられる。
「お父様」
茶器を用意した小間使いを連れたファビアンは不思議そうに息子を見上げた。
「どうしたのだ」
「伯爵!」
扉に隠れたマノンが叫ぶ。
「この人に少女娼婦って呼ばれたわ!」
ぎくりとして振り返るアルフォンス。目を丸くするファビアン。だが、すぐに察した彼は笑い声を上げた。
「すまない、勘違いさせたようだな。マノン嬢はこの度商家に養女として引き取られることになってね。支度の手伝いをしてあげているのだよ」
ファビアンの出まかせにマノンはこっそり肩をすくめる。だが、生真面目なアルフォンスは慌てて居住まいを正した。
「こ、これは失礼いたしました。お許しください」
深々と頭を下げると、アルフォンスは足早にその場を立ち去る。その後ろ姿をじっと見送るマノン。ファビアンはほっと息をつくと、部屋に戻るよう促す。
「息子だよ。私と違って馬鹿がつくほど真面目でね」
「そうみたいね」
澄まし顔で返す少女に、ファビアンは機嫌を損ねることなく笑う。
部屋に戻ると、小間使いは静かに茶器をテーブルに並べた。雪のように白い陶器のポットにティーカップ。薔薇を象った皿に焼き菓子が盛られる。
「後は私がやろう」
主人の言葉に小間使いは黙って一礼して退出してゆく。ファビアンはポットを取り上げるとカップに香り高い紅茶を注いだ。どこか異国を思わせる、甘くて不思議な芳香。その一連の動作をマノンは黙って見守っていた。
「砂糖はいくつ入れようか」
「え」
まるで他人事のようにファビアンの手つきを見守っていたマノンは眉をひそめた。
「……私に?」
「そうだよ。客人をもてなすのは当然じゃないかね」
少し不思議そうに問いかけるファビアンだったが、それでもマノンは強張った顔付きでテーブルを見つめている。少女の戸惑いを察したファビアンは気を取り直すと穏やかに笑いかけた。
「遠慮しなくても良い。大丈夫だよ、マノン嬢。甘い方がいいかな」
マノンはようやくゆっくりとテーブルに歩み寄り、ファビアンは少女のために椅子を引いてやった。こんな扱いを受けたことのないマノンは困惑しながらも胸の高まりを抑えられなかった。
「モルノ王国から取り寄せた特別な茶葉だよ」
見るからに高価そうなカップに、マノンは怖々とした手つきで持ち上げると少しずつ啜る。やがて、柔らかな笑顔が生まれる。
「甘い」
「お菓子も食べるといい」
皿に盛られているのは貝殻の形に焼き上げられたマドレーヌ。マノンは小さな指でつまみ上げると一口かじる。口いっぱいに広がる優しい甘みに嬉しそうな笑みが弾ける。
「美味しい!」
少女の幸せに満ちた一言にファビアンは満足げに頷くと、立ったまま自分のカップに紅茶を注ぐ。そして、マドレーヌを大事そうに持つ小さな指を見つめる。
「しかし、君はよほど手先が器用なのだな。私は、先日の月祈祭で初めて君の起こした奇跡を目にした。鮮やかな腕前だ」
褒められたマノンは得意げな表情で笑う。
「あれぐらい、なんてことないもの」
「たいしたお嬢さんだ」
ファビアンはカップをテーブルに置くと身を乗り出す。
「手のひらから突然血が流れた。あれはどうやったのだね」
マノンは口をもぐもぐさせながら伯爵を見上げる。
「種明かしはしちゃいけないって、親方に言われてたから駄目」
親方。なるほど、サーカスか何かで得た技術か。ファビアンは相変わらず微笑を浮かべたまま頷く。
「せめて、何を使っていたか教えてくれないかね。不思議でならない」
手品の技術を褒めてくるファビアンに気を良くしたのか、マノンはマドレーヌを皿に戻し、右手の指で左手の指をつまんだ。
「絹糸を使ったの。指に引っかけて」
「なるほど……。絹糸か」
何らかの方法で隠された血糊の袋を絹糸で破ったのか。細い絹糸ならば、〈観客〉の目には見えない。
「演技力と度胸がなければ、あれほど見事に人々の目を欺くことはできないな。素晴らしい技だ」
「うふふ」
マノンは子どもらしい笑い声を漏らすと指先をつねる。
「魔法の指なのよ。何だってできるんだから」
白く柔らかな指先がしなる様子をじっと見つめる。マノンの表情は安心しきった屈託ない笑顔だった。ほんのりと薔薇色に染まるふっくらとした頬は、まるでスフレのように柔らかそうだ。なんて愛らしい。ファビアンの胸にちくりと痛みが刺さる。懐かしいあの娘も、今もこの少女のように健やかだろうか。瞼の裏に蘇る少女の笑顔に胸がせつなく締め付けられる。その痛みに促されるように、ファビアンは思わず腰を屈めるとマノンの頬に唇を寄せた。
「え」
不意に視界が暗くなり、マノンは目を上げた。と思う間もなく大きな手に頬を包まれた。
「いや!」
途端に悲鳴を上げると相手を突き飛ばす。椅子ががたんと倒れる。マノンは張り裂けそうな胸を押さえ、息を切らして目の前の男を凝視した。
「――これは、失敬」
ファビアンはどこか呆然とした顔つきで呟いた。
「……そうか、あの司教は君に手を出すような男ではなかったのか」
その言葉を耳にした途端、かっとなったマノンはティーカップを取り上げると伯爵の胴衣に紅茶をぶちまけた。
「あっ!」
動揺する相手の脇をすり抜け、扉を開け放つと廊下を走る。
「マノン嬢……!」
制止の声も届かない。マノンは必死で長い階段を駆け下りた。踊り場で小間使いや召使いらが驚いた顔で見送られ、やがて玄関ホールまで辿り着く。
「ガスパール! ガスパール!」
金切声を上げると屋敷の人々が何事かと集まってくるが、ホールに向かっていたガスパール本人にもその声は届いた。
「マノン?」
ガスパールはオクタヴィアンから手渡された金貨の袋を重そうに両手で抱えてホールに現れた。その腕を引っ掴むと、マノンは玄関を飛び出していった。オクタヴィアンは突然の出来事に戸惑いの表情で大階段を見上げた。そこには、胴衣に染みを作った主人が立ち尽くしている。
「旦那様」
眉をひそめて階段を駆け上がるが、ファビアンは顔を振るばかりだった。
オレオル聖堂の僧坊。古ぼけた扉をじっと見つめる青年司教。その表情は険しく、眉間には深い皺が刻まれている。背後では、ガスパールがいても立ってもいられない表情でそわそわと歩き回っている。部屋からは何も聞こえない。時折、衣擦れらしき音がかすかに聞こえてくるだけだ。アリスティードが目を伏せ、息を吐いた時。部屋から低い話し声が聞こえてきたかと思うと扉が静かに開かれる。現れたのは修道女ポレット。後ろ手に扉を閉める彼女に、アリスティードが待ち構えていたように歩み寄る。
「……なかなか話してはくれなかったのですが」
そう前置きすると、ポレットは深い溜息をついた。
「顔を触られた、と。それだけで、何もされてはいないそうです」
「顔だって?」
ガスパールが顔を歪めて声を上げる。
「絶対、邪なことを考えていたに違いない!」
「しっ」
ポレットが厳しい目つきでたしなめる。アリスティードは黙ったまま閉ざされた扉を見やった。握り締めた拳に力が入る。
「……どうしましょう、司教様」
低い声で囁くポレット。
「……伯爵を呼び出せ、ガスパール」
「え、こちらにですか」
「いいからここへ呼べ」
鋭い口調にガスパールが息を呑んだ時。背後からぱたぱたとサンダルの足音が響く。
「司教、アランブール伯がお越しです」
アントナン修道士の言葉に皆が振り返る。アリスティードはローブを翻すと、足を踏み出した。
向かったのは聖堂内の集会室。客人はここへ通されることになっている。集会室の扉は開け放たれたままになっていた。一行の目に、花束を抱えて所在無げに立ち尽くした伯爵の姿が映る。その傍らには眉をひそめたオクタヴィアン。
「司教殿」
アリスティードの姿を見つけたファビアンが小走りに駆け寄る。
「マノン嬢に会わせてくれ」
「マノンは部屋から出てきません」
鋭い口調にファビアンは悲しそうに顔を歪める。
「……無礼を働いてしまった。詫びを入れたいのだ」
アリスティードの表情がますます険しいものになってゆく様に、オクタヴィアンはごくりと唾を飲み込んだ。
「何をされたのか、私には話してくれない」
「……すまないと思っている。だから、謝りたいのだ」
「何をしたのです」
厳しく追及してくる司教に、ファビアンは困り切った表情で目を見開く。そして、恥じ入るように項垂れる。
「……たいしたことでは、ないのだ」
「マノンに何をした!」
ファビアンの身勝手な言葉に、アリスティードはついに声を荒らげた。顔を上げると、ポレットもガスパールも怒りに顔を引きつらせて凝視してくる。
「……旦那様」
背中からオクタヴィアンの囁き声がかけられる。彼は観念したように頷いた。
「……正直に白状しよう」
俯き、弱々しい声でぼそぼそと呟く。
「マノン嬢が、あまりにも可愛らしかった。私にとっては何でもないもてなしを素直に喜んでくれた。愛らしくて、触れたくなった」
思った以上に生々しい告白にポレットが口を歪める。
「実は、私には娘がいる。ちょうどあの年頃の。――だが、一緒には暮らせない」
オクタヴィアンは人知れず小さく息をついた。
「娘を思い出して、頬にキスをしたくなった。だが、マノン嬢は警戒心が強かったようだ……。頬に触れただけで突き飛ばされた。それから紅茶を引っかけられて立ち去っていった。……これが全てだ」
そこで一息つくと、ファビアンはちらりとアリスティードに眼差しを向けた。
「……私は卑しい人間だ。正直に言うと、キスぐらいならもう君が普段からしているのだろうと」
その言葉は、突然の物音で掻き消された。アリスティードが金貨の革袋を長机に叩き付けたのだ。
「ガスパールが持ち帰った前金です。一枚も手をつけていない」
「司教殿」
「お持ち帰りください。この度の話はなかったことに」
「待ってくれ!」
ファビアンは花束を握り締めたまま身を乗り出した。
「このままだと婚約は確定され、王太子はネーベルの王女と結婚してしまう。それでは遅いのだ。君とマノン嬢の協力が必要だ」
「では何故、マノンが嫌がることをするのです。大人として、人の親として、恥ずかしいとは思わないのですか」
二人の男が大きな声で言い合い、ポレットがはらはらした顔つきで見守る。ガスパールはひそかに両足を踏ん張り、不測の事態に備えている。
「だから、マノン嬢に謝りたいのだ。頼む、会わせてくれ」
「お帰りください。このことは他言しませぬ。だからもう、これ以上我々には関わらぬよう」
その言葉を耳にしたファビアンの顔が強張る。
「司教殿」
低めた声にポレットが不穏なものを感じる。
「こんなことはしたくないが……、オレオル聖堂の聖女はインチキだと吹聴することもできるのだよ」
「あんた……、よくもそんなことを!」
思わず気色ばむガスパールをアリスティードが制する。そして、冷静に言い返す。
「聖女が伯爵に辱められ、聖なる力を失った。そう喧伝することもできるのですよ」
「司教様」
ポレットが心配そうに囁く。だが、ファビアンは急に表情をゆるめると大仰に両手を広げた。
「悪かった、司教殿。お互いに冷静になろうではないか」
「冷静になったところで……」
アリスティードが表情を変えずに言い返した時。不意に外が騒がしくなる。顔をしかめる皆の耳に、「やめなさい、マノン」「行っては駄目!」などと聞こえてくる。
「マノン?」
皆が振り返ると、戸口にマノンの姿が現れる。後ろにはおろおろしながらも手を引こうとするシルヴィとマリエル。アリスティードはきっと鋭い眼差しを向けた。
「部屋に戻っていろ、マノン」
「マノン嬢!」
ファビアンは花束を抱え直すとマノンに駆け寄る。が、ポレットのふくよかな体に行く手を阻まれる。
「道を開けてくれ、修道女」
「いいえ」
きっぱりと突き放すポレットの背後で、アリスティードがマノンの腕を掴む。
「痛い、司教様」
「部屋に戻れ」
「大丈夫」
「マノン嬢」
ファビアンが這うようにして跪くと花束を差し出す。
「怖い思いをさせてしまった。許してくれ。反省している」
マノンは、一人前に腕組みをすると小さく鼻を鳴らした。
「着替えも覗いたし」
「あれもわざとではなかったのだ」
おろおろしながら弁解するいい歳をした伯爵に、マノンは目を細めてくすりと笑いをこぼす。しばしじっと見つめると、やがて桃色の小さな唇を開く。
「いいわ。引き受けた仕事は最後までやるわ」
「マノン!」
アリスティードの声にも動じず、彼女はなおも言葉を続けた。
「でもお願いがあるの。うまくできたらお金は倍いただくわ」
報酬の交渉。ポレットとガスパールがぽかんと口を半開きにする。アリスティードの方は再びマノンの腕を掴んで引き寄せる。
「勝手なことを言うな」
だが、ファビアンは大喜びで体を起こす。
「ありがとう! この計画は君がいなければ! 君の魔法の指ならこの国の未来を救える!」
「私は最後までちゃんとやり遂げる。だから、あなたも約束を守って」
「あぁ、もちろんだとも」
憤然とした顔付きのアリスティードなど目に入らぬ様子で、ファビアンは改めて花束を恭しく差し出す。クラピソンからマノンは桃色が好きだと聞き出したファビアンは、ぬかりなく桃色のチューリップを用意していた。マノンは顔をほころばせて花束を受け取ると、赤ん坊でも抱くように大事そうに抱える。
「謝礼も君たちの望む額を用意するよ。頼んだよ、マノン嬢。君にはもう指一本触れない。いや、一本ぐらいは触れるかもしれない」
「伯爵!」
ポレットの厳しい一言が飛ぶ中、ファビアンはひとり晴れやかな顔で立ち上がる。
「司教殿、何か必要なものがあればいつでも言ってくれたまえ。そうだ。肝心の〈お告げ〉だが、王太子の幸運を祈る礼拝を行うという名目で、殿下をこちらにお連れしようと思っている」
「伯爵」
「詳細は後ほど! 根回しをしておくよ!」
言うだけ言うとファビアンはオクタヴィアンが差し出すステッキを受け取り、意気揚々と踵を返す。が、思い出したように振り返る。
「マノン嬢、もちろんドレスは受け取ってくれたまえ。クラピソンが腕によりをかけて誂えてくれるよ!」
マノンはにっこりと微笑んだ。
「楽しみに待っているわ」
その言葉に満面の笑みを浮かべると、ファビアンは恭しく腰を屈めて最敬礼をしてみせた。そして、オクタヴィアンを伴って立ち去っていった。取り残された人々は呆気にとられたままその場に立ち尽くした。が、やがてアリスティードがマノンを見下ろす。
「どういうつもりだ。あの男は信用できない」
「でも、手伝ってあげれば貸しができるでしょう?」
幼い口から飛び出した言葉に大人たちがうろたえる。
「おまえ、どこでそんな言葉を覚えた」
「ガスパールと観に行ったお芝居で」
途端に皆から非難の眼差しを浴びたガスパールが慌てて手を振る。
「へ、変な芝居じゃないぜ。子どもが観ても大丈夫な奴だ」
「でも、親子と間違われたから迷惑したわ」
「勘弁してくれよ、マノン。おまえさんと一緒にいれば三五の俺は親父だと思われるさ」
情けない顔でぼやくガスパールにマノンがくすくすと笑う。が、「とにかく」と太い声を上げたアリスティードに黙り込む。
「もう後には引けない。だが、今後あの伯爵と会う時にはすべて私が立ち会う」
「うん」
マノンは素直に頷いた。そして、小さな声で言い添える。
「その方がいい」
その声色に不安を感じ取ったポレットが眉をひそめて司教を見上げる。彼は小さく頷くとマノンの頭を軽く叩いた。
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