第5話

 青灰色に輝く五体の鋼の巨人に囲まれたフレヤは、猛々しく叫んだ。

「死を畏れよ、愚かな小人ども」

 機動甲冑はその叫びに促されたように、槍をフレヤに向かって突き出す。しかし、槍は総て宙を突いた。フレヤは高く、自らの背後に向かって跳躍している。真白き風となったフレヤは、自分の背後に立っていた機動甲冑の背後におり立った。

 機動甲冑の兵が事態に気づく前に、フレヤの剣の柄が機動甲冑の背中へ叩きつけられていた。鋼の巨人は、地面へ沈む。その様を見届けたフレヤは、剣を腰のスリングへ戻す。

 フレヤは倒れた甲冑の足を掴み、棒きれを持つように振り上げた。青ざめた颶風と化した甲冑は、手近な鋼の巨人を薙ぎ倒す。フレヤは凶暴な笑みを、天使のような美貌に浮かべる。

「私はお前たちの死だ、愚かな虫たち」

 残った機動甲冑は、槍を繰り出す。その槍は、フレヤの手にした甲冑を貫いた。

白い巨人は再び棍棒のように、甲冑を残りの鋼の巨人達へ向かって振り回す。

 それは、風の神が自らの力を顕現させたかのようであった。三体の機動甲冑は、暴風に晒された草花のように、根こそぎ宙へ舞う。

 巨大な甲冑はガラクタのように跳ね飛ばされ、礼拝堂の柱に、壁に激突し、動きを止めた。フレヤは息を乱す様子も無く、大地の女神のように微笑んで立ち尽くしている。

 ジゼルの乗る黒い機動甲冑が、剣を青眼に構えフレヤに迫った。フレヤは手にしたままの甲冑を、黒い鋼の巨人に向かって投げつける。青灰色に輝く鉄の塊は、素早く動いた黒い機動甲冑の傍らを飛び去っていった。激しい音を立て、壁にぶちあたる。

 その音を背中に浴びながら、黒い巨人が動いた。礼拝堂の清浄な青ざめた光の中で、動く闇のような鋼の巨人が巨大な剣を振り上げる。

 風を巻き起こし、巨大な剣がフレヤの目の前を走った。フレヤは上体を僅かに後ろへ反らし、その剣をかわす。風が、黄金色に輝くフレヤの髪を揺らせた。冬の青空のような青い瞳を悽愴に輝かせながら、フレヤは再び剣を抜く。凍り付くように冷たく輝く鋼の剣を、高々と掲げ、美貌の巨人は闇色の機動甲冑と対峙した。

 動きだした暗黒のような鋼の巨人は、フレヤと同じように上段に剣を構えようとする。しかし、上段の構えをとる前に、フレヤは無造作にジゼルの間合いの中へと踏み込んでいた。

 冬の日差しのように冷たく輝く鋼の刃が、風を起こし振り降ろされる。ジゼルは躱しきれぬと知り、自らの剣でフレヤの剣を受けようとした。

 キン、と甲高い音を立て、ジゼルの剣はへし折れる。そのままフレヤの剣は闇を切り裂く光のように、漆黒の甲冑を縦に切った。

 前面を二つに断ち割られた黒い甲冑は、背後に倒れる。ジゼルは機動甲冑の中で絶命した。フレヤは優しく微笑む。

 裁きを下し終えた大天使のように、白衣の巨人は漆黒の鋼の巨人の上に立ち尽くす。礼拝堂の蒼ざめた光は、サファイアのようにフレヤの瞳を輝かせた。復讐を終えた巨人は、そっとその瞳を閉ざし、瞑目する。死者の魂を冥界へ送る戦場乙女ワルキューレのように。


 ブラックソウルは、ヴェリンダの背後で言った。

「道を作れ、ヴェリンダ」

 魔族の女王は、漆黒の手をあげエキドナに向かって翳す。白い光の道が、ヴェリンダの手からエキドナの背のドルーズの額に向かって走った。

 それを見届けたブラックソウルの左手が、ふっと揺れる。その瞬間、紅い血を閉じこめたような闇の色の水晶剣が、白い光を裂いて飛んだ。

 ドルーズの白い額が割れ、鮮血に染まる。エキドナが、空間が軋むような叫びを上げた。凶星が天空に出現したかのような光が、エキドナを包む。

 光が消え去った後に、黒衣の魔導師と分離した竜の女王の姿があった。エキドナは若い獣のように身を捩らせ宙を舞い、高々と叫んぶ。

「自由だ、私は自由だ!」

 ドルーズは頭部を斬られ、地面に横たわっている。エキドナは笑い、叫んだ。

「嬢ちゃん、礼を言うよ。すべての契約は終わり、私は自由の身となった。私は帰る。我が故郷へ」

 ヴェリンダは慈母のような笑みを浮かべ、頷く。

「お前を縛っていた、呪縛の魔法の施行者は死んだ。行くがいい、竜の女王」

 エキドナは身を踊らせ、地面に開いた宇宙へ向かい、飛び込んでいった。足元に開いていた輝く光の渦は消え、異界への扉は再び閉ざされる。後には影のように横たわる、ドルーズの死体だけが残った。

 死者と化したドルーズの血塗れの頭が、すっと持ち上がる。ドルーズの死体が立ち上がった。ブラックソウルが、静かに語りかける。

「あんたは死者だった。最初からね。あんたは死人となっても尚、世界を破壊しようとする程、この世界を憎んでいた。しかし、エキドナが帰った今、あんたに力は残っていない」

 ドルーズの死体は、無言で立ち尽くしている。虚空に穿たれた黒い穴のような瞳が、呆然とブラックソウルを見つめていた。

「冥界へいくがいい。多分あんたの憎しみより、おれの憎しみのほうが大きかった。そういうことだよ、ドルーズ殿」

 ドルーズの死体の顔に、笑みのようなものが浮かんだ。そのまま死体は崩れ落ちる。今度は、動かなかった。

 ブラックソウルは気配を感じ振り向く。そこには白衣の巨人、フレヤが立っている。その傍らには、死神のような黒衣に身をつつんだロキが佇んでいた。

「これで終わりかな?」

 ブラックソウルが、黒い瞳を輝かせて言った。ロキが静かに首を振る。

「いや、ようやく終わりが始まったところだ。オーラの間者にして、魔族の女王の夫である男よ」

 ブラックソウルの背後で、ヴェリンダが頷く。

「事を始めたものは死んだけど、決着は誰もつけていない。闇の時が始まるようね」

 一瞬、礼拝堂が昏くなる。巨大な闇がフレヤ達の頭上で、渦巻いていた。やがて、暗黒は塊となり、ドルーズの死体へ吸い込まれてゆく。ドルーズの死体がゆっくり立ち上がった。

「なるほど」ブラックソウルが、呟くように言った。「邪神ゴラース、ご本人のお出ましかい」

 ドルーズであったものは、白く輝く美貌に、笑みを浮かべた。

「我が封印は解かれた。さて、そなたらはまた、奇妙な者たちだな。人と魔族、巨人にヌースの造った模造人間がつるんでいるとは。私が封じ込められている間に、酷く世界は変わったようだ」

 ブラックソウルは、あざ笑った。

「旧世界の者は、みんな同じ事を言う。変化を認めぬのなら、駄眠から目覚めなければいいのに。いずれにせよ」

 ブラックソウルは、ロキに微笑みかける。

「ここから先は、あんたの仕事のようだ、ロキ殿」

 ロキは無表情に、ブラックソウルを見た。

「お前はどうする。オーラの間者」

「さよならだ。ヴェリンダ!」

 ブラックソウルが叫ぶと共に、ブラックソウルとヴェリンダを白い光が包んだ。

二人は光の中に、消え去った。

 ロキは、かつてドルーズであった者へ、向き直る。

「お前は何が望みだ、グーヌの僕よ」

 邪神に憑依されたドルーズは、美しい笑みを見せる。

「さてね。私は戦いの為にこの世に生み出された。戦いが終わって封印されたが、我が本来の存在意義は戦いの中にある。やることは、一つだな」

 邪神は夢見るような、表情で言った。

「ヌースに戦いを挑む。まずあんたを破壊し、地上に満ちた人間どもを全滅させる。そうすれば、ヌースも古き協定を破棄し、天上から降りてくるだろうな。あの、凶暴な天使共をつれて」

 ロキは、一歩下がった。そして叫ぶ。

「フレヤ!」

 ロキの叫びに答えるように、ゆっくりと白い巨人が歩でた。その美貌に大地の女神のごとき、慈愛に満ちた笑みを浮かべながら。

「お前達の時代はもう終わったのだ、古きものよ。お前にふさわしい太古の夢へ、帰るがいい」

 フレヤは嘲るように、言った。その言葉にかつてドルーズであったものは、昏く笑う。その笑みは漆黒の闇夜の終わりを告げる、明けの明星のごとく煌めいていた。

「記憶を封じられた巨人か。お前の力、我がものとさせてもらおう。そなたの力を得れば、グーヌ神やヌース神も畏れる必要はない」

 フレヤは凶悪な笑みを美貌に浮かべ、剣を抜いた。真冬の夜空に輝くオリオンのように、フレヤの剣が光る。

「できるものなら、やるがいい! 古の使い魔よ」

「剣で私を倒すというのか」

 ドルーズの体に憑依したものは、楽しげに笑うと、その力を発現させる。ドルーズの黒衣が夜空に広がる黒雲のように、フレヤの目の前で膨れ上がってゆく。ドルーズの白い美貌は冥界に輝く月のように、黒衣の上に浮かんでいた。

 やがて背後に巨大な黒い翼が出現する。闇が立ち上がったかのような、ゴラースの獰猛な巨体が黒衣から姿を現す。

 ドルーズの顔は歪み、その白い美貌を内側から突き破るように、獣の顔が出現した。凶暴なまでに気高く見えるその狼の頭部は、黄金色に煌めく瞳でフレヤを見おろす。

「愚かさにも程があるぞ、最も古き巨人よ」

「黙るがいい、闇の獣よ」

 フレヤは暗黒を貫こうとする夜明けの日差しのように光る剣を、ゴラースへ向かって叩きつけた。全く手ごたえのないまま、フレヤの剣はゴラースの体を突き抜け、地面に刺さる。

「遊びはここまでだ、最後の巨人」

 ゴラースが叫ぶと、その胴体が縦に裂け、腹部に白い闇が出現した。ゴラースは恋人を抱くように、フレヤの体を捕らえる。フレヤはあらがう術もなく、ゴラースの体内に出現した白い闇の中へ飲み込まれていった。

 何事もなかったように、ゴラースの体に出現した裂け目は閉じられる。ゴラースは狼の顔に、獰猛な笑みを浮かべてロキを見た。

「持ち駒は尽きたのかね、ヌース神の模造人間よ」

「さてね、」

 ロキは全くの無表情で、ゴラースを見ていた。

「そう思うかね、古き神よ」


 フレヤは世界が崩壊する瞬間のような、巨大な白い光の流れの中へ放りだされた。

しかし、その光の流れは一瞬にして消え、再び黒い闇があたりを支配する。

 フレヤはナイトフレイムの礼拝堂へ戻ったのかと、一瞬あたりを見回した。しかし、ただ闇が広がっているばかりで何も見ることはできない。

 フレヤの白いマントを纏った姿は、暗黒の地底に降りた立った天使のように、闇の中で薄く輝いている。フレヤはゆっくりと、歩き始めた。どこへ向かうともなく。

 やがて、視界の中に白いものが出現した。それに向かって、フレヤは進む。白いものは次第に形を整え始める。それは、僧衣であった。

 フレヤの目の前に、白い僧衣をつけたクラウスが姿を現す。クラウスは哲学者のような瞳で、フレヤを見上げる。クラウスの背後には、漆黒の扉があった。その扉はあたりの闇よりも、さらに濃くさらに深い闇に覆われている。

 クラウスは、祈りをあげる僧侶のように静かに、そして厳かに言った。

「あなたの封印を解くことができなかったが、ここにあるのがあなたの封印だ、フレヤ殿」

 フレヤは優しい笑みを見せて、言った。

「そこをどくがいい、死せる魔族よ」

 クラウスは悟りを得たもののように、静かな笑みを浮かべて首を振る。

「やめたまえ、私にしか封印は解けぬ。しかし、私はすでに」

 フレヤは無言でクラウスの体を、押し退けた。実体化した闇のような扉の前に、フレヤは立つ。

「無理に破壊すれば、永遠に記憶が破壊されるぞ。無茶をするな、巨人よ」

 フレヤは笑った。

「一度捨てた記憶ならば、二度と得る必要はない。我が望みは再び地上へ戻ることだ」

「馬鹿な」

 クラウスが呆然と呟く。フレヤは拳を振り上げ、扉へ叩きつける。二度、三度と。

闇にひびが入り始めた。

 フレヤは体ごと扉にぶつかる。甲高い音と共に、闇が砕け散った。光の奔流がフレヤを包む。フレヤの意識が薄らいだ。


 フレヤは様々なものが、自分の中を駆け抜けるのを感じた。それは、自らの記憶の断片であると、判っている。多彩のイメージの切れ端が心の中に浮かんではては、消えてゆく。


 深い地底の闇の中で、漆黒の肌に黄金に輝く瞳を持った神が、静かに自分を見おろしているのを感じる。そこは、次元渦流に閉ざされた金星の地下の牢獄であった。

黄金の瞳の神は、グーヌ神であり、そここそ、自分の産まれた場所であるとフレヤは理解した。

 闇の底、その邪神の牢獄の中で、フレヤは何かとても大切なものを失ったような気がしている。彼女の傍らには、失ったはずのとても大切な人、唯一彼女に安らぎを与えるはずの人がいた。しかし、フレヤにはどうしてもそれが誰なのかを思い出すことができない。


 金星の奥深く、次元渦流が荒れ狂う中、虹色に輝く星船がゆっくりと浮上してゆく。宇宙の最果てのような闇の色と、星々が誕生する瞬間のような原初の赤、太陽が死滅する時に発する光のように目映い白、それらの色がからみあい、捻れながら走り抜けてゆく。

 フレヤ達巨人族は黄金の林檎の力に守られた星船の中でその様を眺めている。時折、次元のかなたの風景が垣間みえた。それは巨大な真紅の花であり、蒼ざめた世界を覆い尽くすような空であり、漆黒の肌をもち物憂げに微睡む竜の姿である。

 フレヤたちは幻覚が乱舞するような、カレイドスコープの中に巻き起こった嵐のような次元渦動を突き抜けていく。そこを走り抜けていく光は様々な波紋を巻き起こし、神々の啓示を示すように荘厳な景色を演出する。


 フレヤは、真っ白に天使達が覆い尽くした空を見上げている。それはグーヌ神とヌース神の、何億年も続いた戦いであった。ただ絶望だけが心を覆ってゆくような、長く不毛な戦いであった。

 大地はただひたすらに、焼けただれた荒れ地が広がっている。その赤茶けた荒野のあちこちに、黒々としたぬかるみがあった。それらは、神々が戦いの中で流した血溜まりと言われている。

 闇の生き物達が、周囲で身構える。魔族に呼び出された竜達が、戦いの雄叫びをあげていた。フレヤは静かに剣を振り上げる。

 そして、灰色の雲から粉雪が降り落ちるのようにゆっくりと、破壊と殺戮の戦闘機械、天使達が地上へ降臨してゆく。凶悪な戦いの歌を歌いながら。


 紅蓮の炎が渦巻く中、フレヤは微睡んでいた。大地の熱が巻き起こす炎を自らの寝床としたフレヤは、総てを焼き尽くす凶暴なマグマに身をゆだね、安らぎを憶えている。

 その彼女を、眠りと忘却から引きずり出そうとするものがいた。遠い所から呼びかけて来る者が、いる。フレヤは紅く染まった世界から、水面のように澄んだ青空の見える地上へとゆっくり浮上していく。

 炎の中で立ち上がったフレヤは、自分を見上げる青年を見た。青い瞳に金色の髪、そして白い肌の人間である。青年は問いかけるように、フレヤを見ていた。

(そうだな、)

 フレヤは心の中で呟いた。

(私は人間の為に戦うと約束したのであったな、エリウスよ)

 その青年こそ、古にアルクスル王国を築いた初代の王、エリウス・アレキサンドラ・アルクスルⅠ世であった。


 フレヤの記憶はさらに目まぐるしく、かけぬけていく。


 フレヤは何か広大な世界にいた。そこが彼女の心の中であることは、理解している。天上には自らの姿とそっくりの死体が浮かんでいた。その胸は空洞となっている。

 (フライア神の死体か)

 フレヤは直感的にそう悟った。フライア神は虚ろな死者の瞳で陰鬱な灰色の雲に覆われた空に浮かんでいる。それは、暗く沈んだ冬の海に浮かぶ、乙女の死体を思わせた。

 淀んだ空は、底のほうでは激しく渦巻いているらしく、金色の閃光がときおり雲の切れ間を走り抜けていく。フライア神の姿は灰色の世界の中で唯一色を備えているように、鮮やかで美しい。フレヤはその姿を見つめるうちに、涙が溢れでて来るのを感じた。

「フレヤか」

 突然、背後から声を掛けられ、フレヤは振り向く。そこには、漆黒の肌と金色に輝く髪を持つグーヌ神がいた。

 この静寂と死滅の世界の中で、生そのものの混沌としたエネルギーを内包した神の姿は、凶暴なまでに、リアルである。フレヤは見上げようと巨大な神を前に、数歩後ずさった。

「次元界に混乱があるのか。私がお前をつくり出したのは、この時空間よりもう少し後だ。まあ、次元流に閉ざされたこの牢獄の中では、よくある事だがな」

 フレヤは困ったように首をふる。

「私はただの夢だ、見捨てられた神よ」

「ほう」

 グーヌはどこか皮肉な笑みを見せる。

「ここより遥か離れた地の戦いの中で、私の精神は歪んだ時空間の構成する迷宮の中へ入りこんでしまった。私は自らの記憶を破壊したが、それでも尚、戻るすべがない」

「いっておくがな、フレヤ、我が炎と光を纏う狂乱の娘よ。ここが夢で、戻ろうとする世界が真実だなどと思うのは誤りだぞ」

 フレヤは天上に浮かぶ女神の死体と同じ美貌で、猛々しく笑った。

「私は私の戦いの場を真実と呼ぶ。ここは、死の統べる場所。私の居場所ではない」

 グーヌは苦笑のようなものを浮かべる。

「私はおまえを産みだしたが、フレヤ、お前は、お前自身を造り上げたようだな」

 グーヌは手を上げた。空から光の塊が落ちてくる。地上に、巨大な闇が口を開けた。

「もどれ、お前が真実と呼ぶ場所へ、我が光の娘、もう一度近いうちに会おう。今度は、夢としてではなくな」

 暗黒の口からは、蒼ざめた気の流れが立ち昇ってくる。フレヤは優しく微笑むと、その闇の中へ身を投じた。


 そして、様々なものがフレヤの心を駆け抜けた。


 重く暗い神の血の中で最初に目覚めた人間の、放った叫び。


 天使達との戦いの中で乱舞し、凶暴な怒りを持った咆哮をあげる竜たち。


 漆黒の肌をもち物憂げな金色の瞳で、殺戮をくりひろげてゆく魔族たち。


 魔導の生み出す色鮮やかで美しい光景。


 忘却の眠りの中でふれる死の闇。


 猥雑な人間達の街、その片隅で流される美しく赤い血。


 数億年に渡るであろう、フレヤの記憶は、細切れになり、意味のない物語や情念をまき散らしながら、闇の奥へと飛びさっていく。

 それらは二度と戻らぬ、ひとつの小宇宙である。

 それは、確実に一つの死であった。

 フレヤはその死の闇を超え、地上へと向かってゆく。


 獰猛な笑みに嘲るような色をのせて、ロキを見つめていたゴラース神は、ふっと動きをとめた。まるで、少し戸惑ったように、首をかしげる。

 ロキは、黒衣の下から剣を出す。それは黄金色に燃え盛るような、ユグドラシルの枝より造られた剣であった。その剣をゴラースに向かってかざす。

「フレヤを吸収しようとしたのは、失敗であったな」

 ゴラースの顔が、驚愕で歪む。自分の体内に溢れてくるエネルギーが、想像を絶するものであった為だ。

「なるほど、我が小さき身体で、死せる女神の血を受けた娘の力を吸収しようとは、愚かなことだったようだ」

 ゴラースの体内から漏れてくるエネルギーを受けとめているかのように、ユグドラシルより造られし剣は、ますます激しく輝く。

 ロキは、夜空に突如出現したような新星のごとく輝く金色の剣を、闇色のゴラースの体へ突き立てた。ゴラースの絶叫と共に、その体に金色の穴が出現する。そこから、金色の光の奔流が迸った。

 黒衣のロキは光に押されるように、後ずさる。金色の光は形をとり始めた。やがて、それは人の形となる。その光が薄らぎ、人の形がはっきりしだした。

 それは白衣の巨人、フレヤである。フレヤは燃えるような天上の女神の美貌を輝かせ、暗黒の邪神の前に立つ。

「長い旅だったが、我が場所に戻れたようだ。ただ、これも新しい夢なのかもしれぬがな」

 フレヤの呟きに、ロキが苦笑する。

「戯れごとをいってる場合か、フレヤ」

 ゴラースの黒い姿は混沌とした、暗黒星雲のように姿をとどめず、ゆれ動いている。暗い夜空が凝縮したようなゴラースは、無言のまま輝く瞳でフレヤを見おろす。

 冬の乾いた蒼い空のような瞳で、フレヤはゴラースを見つめ返す。その目の中には、嘲笑があった。

「フレヤ!」

 ロキが叫び、金色の剣を投げる。フレヤはそれを、宙で受けとめた。金色の剣は炎を纏ったように、さらに強くフレヤの手の中てせ輝く。それは闇の終わりを告げる、明けの明星の光にも似ていた。

「終わりだ、ゴラース」

 フレヤは叫ぶと、金色の炎を浴びせるように、ゴラースの身体へ剣で斬りつけた。

ゴラースの身体を構成する闇が、夜明けの光を受けた夜のように薄らいでゆく。

 空気が蒼ざめ、物体化したような闇は、半透明の霧と化していった。ゴラースの思念が時折、薄暮を照らす稲光のように、走り抜けてゆく。死を迎えた暗黒の消滅のようにゴラースの姿は消えていった。後には、ドルーズの死体だけが残る。

 轟音が響き、宮殿が揺らぎ始めた。

「何ごとだ」

 フレヤの問に、ロキが静かに答えた。

「ゴラースは致命傷を負った。お前に長く、触れすぎた為にな。この次元界を維持し続けるのは、困難になってきている。元々この宮殿そのものが、ゴラースの身体であるといってもいい。それが崩壊し始めているんだ」

「だとすれば、我々もゴラースと共に次元のかなたへ消えてゆくわけか?」

 ロキは笑みを見せる。

「ゴラースにしても、まだ多少は力がのこっているはず。おい、ゴラース」

 ロキはドルーズの死体へ呼びかける。ドルーズの死体が、ゆらりと立ち上がった。

(何か用か、ヌースの模造人間よ)

 ゴラースは直接心へ、語りかけてくる。ロキが言った。

「我々を元の次元界へ、戻してくれ」

(よかろう、私はこの次元界から開放されたようだ。礼のかわりに、お前の望みを果たそう)

 ロキとフレヤの足元に、五芒星が出現する。その五芒星は輝いていた。五芒星の輝きは、夜明けの太陽の光のように、次第に強く明るくなってゆく。やがて、その光が極限に達した時、フレヤとロキの身体は白い光につつまれ消え去った。


「こりゃ、やばそうだな」

 激しくゆれる宮殿の中で、ケインが呟いた。

「出口がないね、ここ」

 ジークは、落ちついているのか、諦めているのかよく判らない口調で言った。

「出口がないなら、探すんだよ!」

 ケインが叫ぶと、右手を動かす。透明の水晶剣が、宙を飛ぶ。シルフィールドが乱舞するように、透明の剣が部屋じゅうを飛び回った。

 やがて、剣がケインの手に戻り、ケインが言った。

「あったぞ、そこだ」

 ケインは壁の一角へ、駆けよる。揺れが激しい為、多少よたつきながら壁へたどり着く。壁を拳で叩いた。中が中空になっているようだ。水晶剣で切りつけた感触は、間違っていなかったらしい。

 ケインは、左手の闇水晶を構える。

「待てよ、ケイン」

 ジークが後ろから声を掛けた。ケインが苛立たしげに、振り向く。

「なんだよ、急いでるんだぞ、おれたちは」

「お前の左手は限界だろう。闇水晶でも無理だと思うぞ。ここは、おれに任しとけって」

 ケインは、心配そうにジークを見る。確かに、ケインの左手はブラックソウルとの戦いで酷使しすぎた為、動かせる状態では無かった。といってもジークに任すには不安がある。

 ジークはケインの想いをよそに、不逞不逞しい笑みを見せた。その左手は、剣の形となっている。

「黒斬手か」

 ケインの問に、ジークが頷く。剣と化した左手を意身術で動かし、鋼鉄の鎧すら断ち斬る技である。極度の精神集中を必要とし、反動で肉体に過負荷が発生する為、実戦ではめったに使えない。しかし、壁相手であれば、役に立ちそうだ。

「やれ、ジーク」

 激しく揺れる宮殿の地下で、ジークが静かに気を凝らす。ジークの口から気合いが迸った。漆黒の左手が風となり、壁を斬る。

「やった!」

 ケインの歓声と共に、壁の一角に丸い穴が開く。ケインはその穴へ飛び込む。通路が続いていた。どこへ行くかは判らないが、とりあえず今のまま留まっているよりは、ましに思える。

「いくぞ、ジーク!」

 ケインがジークに声を掛ける。ジークは、うずくまったままだ。激しく嘔吐しているようである。ジークの肉体も、フレディとの戦いで、極限状態になっていたようだ。

「もうだめだ、ケイン」

 ジークが力なく言った。

「一人で行ってくれ」

「馬鹿野郎!」

 ケインは、素早く考える。このまま先へ進んでも、何があるかわからない。魔族とばったりの可能性も、十分考えられる。ジークをつれていけば、戦力にならないにしても、おとりくらいにはなるかもしれない。

 ケインはジークを背負った。あまりの重さに、数歩よろめく。

「すまない、ケイン」

「太りすぎだぞ、どう考えても」

 ケインはジークを背負って、通路を歩きだす。けっこうきつい道中になりそうだ。

「ケイン、もし助かったらお前の言う事何でもきくよ」

「本当だな」

 ケインは、歯を食いしばりながら言った。

「まず、馬鹿喰いはやめろ。もう少し痩せることだ」

「判ったよ」

「それと、めったやたらと人を殺すのもよくない。やめろ」

「判ったよ」

「それと、女を見るととりあえず犯すというのもよくない。やめろ」

「判ったよ」

「それと、強盗は程々にしとけ。ある程度は法も守るべきだ」

「判ったよ」

 こうして二人は暗い通路へと、消えていった。


 ロキとフレヤは、古の神殿の廃虚に立っていた。東の空は朝焼けで、薄い紫色に染められている。その空の下に、ノースブレイド山が黒く聳えていた。

 ノースブレイドの南側、ジゼルの城があったところは、崩れ落ち廃虚と化している。ナイトフレイム宮殿が崩壊した衝撃で、ジゼルの城も破壊されたようだ。

 フレヤは、朝日をうけ燃え上がるように輝く金色の髪を靡かせ、静かに言った。

「クラウスが死に、封印を強引に破壊した今、私の記憶はもう戻らないはずだ。お前との契約は無効だな、ロキよ」

 フレヤの背後に立ち、未だに昏い西の空を背負った黒衣のロキは、答えた。

「方法はあるぞ、フレヤよ」

「ほう…」

「星船へゆけば、記憶を取り戻す術がある。それを俺は知っている」

 フレヤは苦笑した。         

「いいだろう、ロキ。ではどこへ向かう?」

「西だ」

 フレヤは、消えつつある夜の闇が留まった西の空を見る。その青い瞳が、冬の海のように深みのある輝きを見せた。

「西か」


 ナイトフレイムから脱出して二ヶ月後、ケインとジークはオーラにある高級娼館で豪遊していた。ジークは喰っては、女を抱くを繰り返す毎日である。

 ナイトフレイムで手にいれたゴラースの神像は、一銭にもならなかった。ゴラースの呪いがかかっていたためであり、処分する為に多大な費用を費やすはめになった。

 やけくそになった二人は、強引に山賊のアジトを襲った。山賊を皆殺しにして手にいれた財宝は、かなりの金になった。おかげで、こうして遊べているわけである。

しかし、ナイトフレイムでの苦労はなんだったのかと思わずにはいられない。

 女の子といちゃつきながら、東方のエキゾチックな料理を喰っているジークを見ているうちに、ケインは思わずため息をついた。

「なんだよ、ケイン」

 ジークの問にケインは首を振る。

「何でもない」

(ナイトフレイムの地下でした約束は、なんだったんだ。てめぇあの時より、一回り太ったぞ)と心の中で思ったが、口に出しても意味が無いため言わなかった。

「ケイン」

「なんだ」

 ジークは東方の果物をほうばりながら、言った。

「これ旨いぜ、ケイン。喰ってみろよ」

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雪原のワルキューレ 憑木影 @tukikage2007

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