第4話
無数の色の光が、目の前を乱舞する。闇水晶を使う時、いつもみえる幻覚だ。ケインは色彩の洪水の中で、闇色の刃を自在に操っていた。
絹糸を使い、空中で刃の向きを変え、斬りかかる。一度やりすごさせ、背後から斬る。ケインは自分にできる全ての技を、試みた。
ブラックソウルは、その技をことごとく、跳ね飛ばす。水晶がぶつかりあい、煌めくような音があたりに響いている。まるで結晶化した音の破片が、飛び散っていくようだ。
(互角だ)
ケインとブラックソウルの技は、同じレベルであった。ケインの繰り出す技は全て阻止され、ブラックソウルの反撃も、同様にケインがブロックしている。
(気にいらねぇ)
同じレベルのはずにも関わらず、ブラックソウルには、変わらぬ余裕が見える。
まるで、勝負の決め手を隠しているように。
(あのアニムスという野郎を、動かす気か?)
もし、アニムスがユンクの技を使えるのなら、ケインはとっくに負けている。しかし、アニムスは棒立ちで、ケインはいつでも彼を殺すことができた。
(くそっ、判らねぇがいずれにせよ、らちがあかねぇ)
ケインは、右手を使う決心をした。左手と右手のコンビネーション、その技数の多いほうが、この戦いの勝者となるはずである。
ケインは、右手の水晶剣を放った。それはやはり、ブラックソウルの右手から放たれた水晶剣により、はじきとばされる。
「むぐうっ」
ケインの口から、呻き声がもれた。ブラックソウルの余裕の意味が判った為だ。
(あの野郎、左手と同じ位、右手を使いやがる)
ケインの右手は、左手よりスピードが落ちる。ブラックソウルが右手の水晶剣を、左手で操るのと同じ速度でできるのなら、コンビネーションでの戦いは、ブラックソウルの勝ちと決まっていた。
(負けたな、こりゃ)
ケインは、他人事のように、思った。
(こりゃあ、死ぬわ)
ジークは待ちの構えと、なった。自分から、しかけるつもりは無い。今度は二人とも、足を止めている。二人の間に空間が歪みそうな、緊張が流れた。
(来るか!)
フレディの殺気が極限まで高まった時、すっと張りつめていた気が消えた。フレディの視線が宙をさまよう。
(何?)
ジークは、フレディの目の中に、怯えがあった。その視線は、ジークを越え、ジークの背後にむけられている。ジークの背後には、この礼拝堂への入り口があった。
つまり、その入り口から何者かが、入って来たということだ。
魔族でないことは、確かである。魔族は、フレディの敵では無い。とすれば、魔族以上の敵が、出現したということだ。目の前のジークを忘れ、隙だらけになってしまうほど、畏るべき敵が。
ジークは後ろに退がり、ゆっくり振り向いた。
ブラックソウルが右手を使い始めたとたん、ケインは守勢にまわった。ブラックソウルの攻撃を防ぐのに精いっぱいであり、反撃の糸口が無い。
そしてついに、受けきれぬ瞬間がきた。ケインは、死を確信する。
(やられた)
しかし、その一撃は来なかった。無限に思える数秒が、過ぎる。ブラックソウルは、動きを止めていた。ケインは、ブラックソウルの黒い瞳の中に、感動の色を感じとる。
(何が起こったんだ)
ケインは、混乱した。勝利を手にする直前に、それを投げ捨てるようなことが今、起こっているらしい。おそらく、ケインの背後で。
ブラックソウルの目はケインの背後へ、いっていた。そこに、何かがある。
(くそっ、何んなんだよ、一体?)
ケインは素早く後ろに下がり、振り向く。衝撃が、ケインの精神を揺さぶった。
(こいつは)
礼拝堂の清浄な光の降り注ぐ下、そこを一人の巨人族の女戦士が歩いている。純白のマントを纏ったその姿は、地上に破壊と殺戮をもたらす為に降り立った、凶悪の大天使を思わせた。
金色の炎のように、歩にあわせて髪が揺れ、清冽な真冬の青空のような瞳は、地下の淀んだ礼拝堂の空気を貫く。4メートルはある長身に一分の歪みも無く、古代の美神の彫像のような、完璧さを誇示している。
そしてその巨人の美貌は、地上のものとはとても思えない。天上界に住まう天使ですら、彼女の前では色あせるであろうと思われた。
ケインは、思った。この完璧な巨人の前では、人間はまったく矮小で、とるにたらぬ存在であると。
白いマントと鎧を身につけた巨人の傍らには、黒い影のような男が、つき従っている。その男はつば広の帽子を目深に被って眼差しを隠し、冥界の死神のように漆黒のマントで身を覆っていた。
荘厳といってもいいあゆみを止めた白衣の巨人フレヤは、凶々しい笑みを見せる。
「くくっ」
人間達は、白い巨人が低く笑うのを聞いた。
「こんな最深部まで、ムシけらが入り込むとはな。魔族の守りも、おそまつなものだ」
フレヤは、人間達に、侮蔑の眼差しを向ける。
「地上へ帰れ、地べたを這いずるものたち。ここは、お前達の来るところではない」
竦みあがっている人間達の中で、ブラックソウルがただ一人、不敵な笑みをみせている。ブラックソウルが言った。
「用事が済めば、帰りますよ」
黒曜石のように、瞳を煌めかす。
「黄金の林檎が得られれば」
「お前には、無理だな」フレヤは静かに、宣言した。「ここに残るというのであれば」フレヤの瞳は、真冬の烈風を思わす光を宿した。「ムシけらにふさわしい、惨めな死を与えてやろう」
ブラックソウルは、哄笑した。ケインとジークは、とっくに姿を隠している。
「死は総ての者に、等しく与えられる。神ですら例外ではない。お前にもだ、最後の巨人」
フレヤの背後で、アニムスが跳躍した。火焔の入れ墨を持った戦士は、フレヤの頭を越えるほど高く跳躍し、空中で旋風のように身を回転させ、剣を振るう。
避けようのない速度とタイミングで、剣はフレヤの首筋めがけて走る。フレヤは、羽虫の気配を感じたというかのように、軽く片手を振った。
みちっと肉を打つ音がし、アニムスの体が宙を飛ぶ。まるで投げ捨てられた、子供のおもちゃの人形のように、アニムスの体は飛んで行き、柱にぶつかった。10メートル以上の距離を、跳ね飛ばされている。
濡れた音がし、柱にぶつかったアニムスの頭が、粉砕された。真紅の絵の具を、巨大な刷毛で塗ったように、柱に紅い線が引かれる。
ごみくずのように、床へアニムスの死体が落ちた。フレヤは、背後を見ようともしない。何かが死んだという意識すら、ないようだ。美しい笑みは、救いの女神を思わすが、その笑みの背後には、魔神の凶悪さが潜んでいる。
フレディは、膝が震えるのを感じた。人智を越えた、魔法的存在と戦ったことも、幾度かある。しかし、今、目の前にいる巨人は、圧倒的な物理的力であるとともに、得体のしれぬ神秘的存在であった。そんな物に出会ったのは、これが始めである。
「くそっ」
フレディは、剣を抜く。フレヤの前に、立ちふさがった。フレヤは、涼しげな青い瞳で、フレディを見おろす。
一瞬、風が起こった。フレヤが、腰のスリングから剣を抜いた為だ。それは、巨大な鉄材を思わす、剣である。
その剣は、フレディの頭上に掲げられた。フレディは鋼鉄の塊が、軽々と片手で持ち上げられ、頭上で舞うのを見、恐怖を感じる。
(飛び込むしかない)
フレディは、フレヤの足元へ向かって、跳んだ。そこであれば、剣も振るえないはずである。フレヤの臑へ斬りつけようと、構える。
フレヤの足が、ふっと動いた。フレディは、自分が暴風に飲み込まれたのかと感じる。フレディの体は、紙人形のように宙を舞っていた。
そのまま聖壇を軽々と越え、その背後の壁画へ激突する。黄金の林檎の木を描いた部分に、真紅の血飛沫がかかり、床へ落ちた死体は、鞠のように跳ね、転がった。
「せめて、剣で死なせてやろうと思ったが」フレヤの口元が、苦笑に歪む。「自らムシけらのような、死に様を選ぶとはな」
フレヤの背後から、黒衣のロキが進みでた。
「オーラの手のものだな、お前達は」
ブラックソウルは、配下の者の無惨な死を見ても、顔色一つ変えていない。
「おれは、オーラ参謀ブラックソウルだ。あんたは?」
「ロキ、といえば判るだろう」
ブラックソウルは、怪訝な顔をする。
「ロキ殿?ロキ殿は、オーラ首都の水晶塔におられるはず。お前は何者だ?」
ロキは、静かに言った。
「ロキとは、一人ではない。私もまた、ロキの一人」
「よく判らんが、まぁいい。あんたその巨人と、何をするつもりなんだ」
「おまえと同じさ。黄金の林檎を求めて、ここへ来た。おまえは帰るがいい、オーラのブラックソウル」
「あいにくとね、」ブラックソウルは、うんざりとした顔になる。「あんたに任せられないんだ。あんた、みつけた黄金の林檎を、トラウスのユグドラシルの根元にある、ヌース神が造った結界の中へ戻す気だろ」
「いかにも」
ロキが頷く。ブラックソウルはやれやれと、首を振った。
「あれは、オーラが持ってないと、まずいんだよ。なにせオーラは正当王朝を名乗って、トラウスを占拠しようとしている。黄金の林檎は、その為にいるんだ」
「愚かだな」
ロキは、疲れたように言った。
「同感ではあるが、しかたない。手を引いてくれよ」
「折り合いがつかなければ、死んでもらうしかないのだぞ。巨人族は、完全な戦士だ。おまえでも、かなう相手では無い」
「そいつは、どうかな」ブラックソウルが、皮肉な笑みをみせる。「ジゼルに捕らえられた巨人というのは、あんたなんだろ?」
フレヤの瞳が凶暴な光を宿し、ブラックソウルへ向けられる。ブラックソウルは、何も感じないように、笑った。
「図星だね。怒るこたぁない。ただ、ジゼルにできて、おれにできない訳は無い。そう思わないかね、ロキ殿?」
フレヤは、剣をブラックソウルへ向ける。
「試すがいい、小さき者。自分の命を賭してな」
ブラックソウルは、低く笑った。そして背後のクリスへ、声をかける。
「クリス!」
女魔導師が聖壇の上で立ち上がり、ブラックソウルを見る。
「こちらの巨人戦士に、夢を見せてやれ。とびっきりのやつをな!」
蒼白の冬の帝王が、地上を支配する時のように、白いマントを靡かせゆっくりとフレヤは歩む。そして、聖壇上のクリスと向き合った。
クリスは銀色の髪を乱し、聖なる白痴のごとく虚ろな青い瞳をさまよわせ、天上の美神を迎え入れるように、両手を高く掲げる。開かれた口から、天使達が降臨する時に鳴らされる喇叭のように、叫びが放たれた。
フレヤは見る。クリスの掲げられた両腕の間に、空に輝く太陽も薄らぐような、凄まじい光が出現するのを。フレヤは真夏の幻惑のように、視界を覆った白い光に目を眩ませ、数歩下がる。瞳を閉じ、死のような暗闇を見つめた。
そして再び、フレヤが南国の海のように青く輝く瞳を開いた時、熱く激しく渦巻く蒸気が立ち昇った。フレヤは、思わず顔を腕で覆う。
フレヤは、ゆっくり踏み出す。あたりは白いメイルシュトロオムのような蒸気と、乱舞するサラマンダのような炎に包まれている。そこは、混沌の王が支配する地のように、暴力的な熱気と破壊に満ちていた。
空を見上げると、ビロードの天蓋のような黒い夜空に、砕けた宝石のような星々が煌めいている。フレヤは漆黒の夜空の下の、白い闇の中を歩む。それは紛れもなく、どこかで見た光景であった。
(まさか…)
フレヤは、自らの肉体を見おろす。美の化身のように輝く肢体が、破壊神の抱擁のような、熱気の中に曝されている。彼女は、一糸纏わぬ裸体であった。
突然、混沌の神の領土から抜けでて、雪原と針葉樹が目にはいる。そこは、渓谷のはずれであった。フレヤの確信は、高まる。
「予言の通りだ」
星灯に輝く真白き雪原に、一人の老戦士と、屈強の戦士が立っていた。白い総髪を、風に靡かせている老戦士は、フレヤに語りかける。
「あなたこそ、我らラーゴスの民の守護神、フレヤ殿だ」
老戦士は、遠くを見る瞳をして、語り続ける。フレヤの、広壮な冬の蒼い空を思わす瞳が、静かに老戦士を見つめていた。
「あなたは三千年前、魔族の魔導師クラウスと共にこの地を訪れ、氷土の中で眠りに就かれた。しかし、予言では三千年後、天上より燃え尽きた星の墜ちる日に、あなたは目覚めると語られていた」
フレヤの口は、彼女の意志に関わり無く、かってに言葉を紡いだ。
「私は、フレヤという名なのか?」
「その通りです」
老戦士は頷く。
「我がなすべきことを告げよ、小さき者。我が記憶が戻るまで、汝にしたがおう」
老戦士は、明るく微笑んだ。
「まずは神殿へ。そこにあなたの武具と、剣があります」
フレヤの体が、動き始める。記憶の中の彼女が、そうした通りに。
(私は過去にいる)
フレヤは夢の中で、夢を見ていると感じるように思った。
(これは、夢なのか)
しかし、裸足で踏みしめる雪原の感触、肌に触れる夜の空気、総てがリアルであった。
(では、あのナイトフレイムの宮殿が夢で、今、真に目覚めつつあるのか?)
答を得る術は、無かった。
ロキは、フレヤに向かって踏み出す。フレヤは神の声を聞くシャーマンのように、硬直した状態で直立している。両手を掲げたクリスも又、聖なる狂人のように体を凍り付かせたままだ。
フレヤが魔導の技にかかったのは、明白である。次第にその存在が、希薄化しつつあった。完全に存在感が消え去った時、フレヤは別の時空へ送り込まれる。フレヤが留まっているのは、彼女の意識が一部、この時空間に残っている為だ。「おいおい、ロキ殿どこへいく」
ブラックソウルが、声を掛ける。ロキは、鉄鞭を抜く。彼の意図は、明白であった。聖壇上のクリスを倒す。術者が倒れれば、術も解ける。
「そうは、いかないよ」
ロキの歩が止まった。
「エルフの絹糸か」
ロキは、静かに言った。いつの間にか、ロキの体にエルフの紡いだ絹糸が、纏ついている。その糸は、虚空へと消え、そのもう一端がブラックソウルの手元にあった。ブラックソウルの手から放たれた糸は、時空の歪みを通り抜け、ロキの周囲に出現し、その体を縛りつけたのだ。
「魔繰糸術を身につけているとは、オーラの間者にしては上出来だ」
ロキの落ちついた言葉に、ブラックソウルは苦笑する。
「ロキ殿、あんたは人間じゃないな。普通糸に斬られて、首が落ちているよ」
ロキはブラックソウルを昏い瞳で見る。
「愚かなまねはやめろ、オーラの参謀殿。すでに戦いは終わった」
「ああ、巨人はもうすぐ術に堕ちる」
「違うな」
ロキの言葉と同時に、聖壇の棺が、ごとりと動いた。
「逃げるなら今だ、オーラの参謀」
それは、黒い虹が棺から立ち昇るのを、見るようであった。それ程強力で凄絶な瘴気と波動が、棺より立ち昇っている。そして、暗黒の太陽が世界の破滅を告げるように、ゆっくりと魔族最強の魔導師が立ち上がった。
その長身の魔導師は、美と青春の若神のように美しい肢体を、晒す。奈落の果ての闇を思わす漆黒の肌は、闘争の為に生きる獣のような生命力に輝き、地上で人間が繰り広げたあらゆる虐殺より遥かに深い罪を宿した、真夜中の太陽のごとき金色の瞳が、神々しく、そして邪悪に輝く。
西の地平へ消えゆく、太陽の最後の残照のように、金色に燃える髪を靡かせ、魔族の最も強大で邪悪な神官は、ゆっくり棺の中から歩みでた。骨のように白い僧衣を身につけ、魔界の王が謁見するように礼拝堂を眺める。
ふと、珍しいものを見るように、クリスに目をとめ、手を触れた。その瞬間、クリスの体は弾け跳び、聖壇の下へ叩きつけられる。その様を満足げに見たクラウスは、ブラックソウルを見た。
「眠っているうちに、世界は変わったのだな」
クラウスは凶星が煌めくように、陰惨な笑みを見せる。その笑みは、まともな人間であれば意識を失うほど、邪悪な瘴気を放っていた。
「我が寝所まで家畜が、迷い込むとはな」
すっ、とクラウスは天使が宙を飛ぶように、聖壇から跳び降りた。クラウスは大地に一枚の黒い花びらが落ちるように、静かにブラックソウルの前へ立つ。
「畏れることをしらぬ、獣のようだな、黒い髪の家畜よ。名を聞いておこう」
ブラックソウルは不遜な顔で、見下したように言った。
「我が名は、ブラックソウル。忘れられぬ名となるぞ、おまえが生き延びればな」
クラウスは、楽しげに笑う。
「私の前で魔繰糸術とは、大胆というより、無謀だな」
ロキを縛っていたエルフの絹糸は、ロキの戒めを解くと、虚空を通りクラウスの手の中へ来た。そしてその絹糸は、再び空間の歪みを通じ、ブラックソウルの体を縛る。
クリスの術から抜けでたフレヤが、戒められたブラックソウルの後ろへ立った。
クラウスは、フレヤに微笑みかける。
「久しぶりだな、フレヤ殿。といっても、記憶は戻っていないようだな。封印を解かねばなるまい。しばしまってくれ、フレヤ殿」
「急ぎはしないさ」
フレヤは笑みを返す。
クラウスは邪悪な欲望に満ちた顔で、ブラックソウルを見つめる。
「ブラックソウル、このまま君の糸で、君の首を斬ってもいい。しかし、君には別の死を与えよう。魂の奥底まで昏い恐怖に侵される、崇高な死を与えてあげよう」
そしてクラウスは、右手をブラックソウルの首へかけた。空間が歪むような、瘴気が立ち昇る。それは、揺れ動く死の海底の光景を、思わせた。
歪んだグラスの中のような、邪悪な瘴気に閉じこめられたブラックソウルは、常人であれば、干涸らびた死体となったであろう。しかし、ブラックソウルは春の日差しを浴びているように、穏やかに微笑んだ。
「どうした、魔族最強の魔導師。おれを殺すんだろ」
クラウスは無言である。闇色の炎が渦巻くように、凶暴なまでに激しい邪悪な波動が、ブラックソウルのまわりを、覆う。それは地底の奥底から甦った、暗黒時代の野獣達が身を捩らせながら、のたうちまわる様を思わせた。
「無駄だ、無駄!」
ブラックソウルが叫ぶとともに、一瞬、左腕が揺れる。黒い炎のような色の剣が、稲妻のようにクラウスとブラックソウルの間を走った。
ブラックソウルを縛っていた絹糸は、断ち切られ地に落ちる。ブラックソウルは平然と立ち、一歩退った。同時に、クラウスも後ずさる。その僧衣の右肩に、真紅の線が走っていた。血の染みである。
とん、とクラウスの右腕が床に落ちた。何かを掴もうとするように、床に落ちた右手は手のひらを開いている。血が金属質の輝きを持って、迸った。白い僧衣が紅に染まってゆく。
ブラックソウルは魔界の貴公子のように、微笑んだ。その笑みの影に潜む邪悪さは、魔族のクラウスの前ですら、歴然と感じとることができた。
「ほう、奇妙な人間だな、おまえ」
フレヤが、呆れたように言う。クラウスは、ゆっくりとした動作で腕を拾うと、右肩にあてた。幾度か指先が痙攣し、やがて自由な動きを見せ始める。クラウスはふっと、ため息をついた。右手を、軽く動かす。
「やれやれ、驚いたよ。こんなことは、昔一度あったな」
クラウスは美しい笑みを浮かべ、金色の瞳を遠くを見るように、そっと細めた。
その姿は美と青春の神を思わせたが、一瞬浮かんだ表情は、数億年以上生き続けている、魔族の魔導師にふさわしいものである。
「エリウス・アレクサンドラ・アルクスルⅠ世。彼の者もそうであったな。我らの力を受け付けぬ人間」
「そして、王家の血を受け継ぐ者に時として、同じ体質の者がいる。その者は常にエリウスと名付けられる。暗黒王ガルンを葬ったエリウスⅢ世も同様だ」
ブラックソウルは、詠うように言った。
「では、貴様は王家の血筋か」クラウスは夢見る者のように、美しい金色の瞳でブラックソウルを見つめ、問いかける。
「さあな、おれは、おれの父親を知らない」
ブラックソウルは、黒い宝石のように瞳を煌めかせ、言った。
「どうするんだ、古き者、旧時代の支配者。もう一度昔の夢に帰ったらどうだい」
音も無く、空気の動きも無かったが、ブラックソウルはクラウスを中心に風が動いたのを、感じた。災いと死を乗せた、凶々しい黒い風である。
世界は色を失い、地上の死を宣告するように、景色が醜く歪む。クラウスは真の魔導の力を解放しつつあった。
「私は、目覚めてしまった」
その、地上のものに属しているとは思えない、人間には到底及ぶこともできない、完璧な美貌を微かに曇らせ、憂鬱げにクラウスは言った。
「目覚めてしまった以上は、地上に幾万もの人間の死体の山を築いた後でなければ、眠るつもりは無い」
あたかも呪われた死霊達が、目覚めの喇叭を吹き鳴らし、天空を飛び回っているようであった。邪悪な気配が辺りを支配し、瘴気は暴風と化し、礼拝堂を満たす。
ブラックソウルは、夏の嵐を楽しむ子供のように、大きく笑った。
「地獄の封印を開くか、魔族の支配者。それも重畳、やってみるがいい」
すべてが死滅し、静寂の世界となった地上に、最初に昇る太陽のような金色の瞳で、クラウスはブラックソウルを見る。
「さらばだ、奇妙な人間よ。次に眠りに就く前に、お前のことは思いだそう」
ごっ、と黒い球体がブラックソウルを包む。ブラックソウルの言葉どうり、それは地底の果ての、暗黒界への入り口であった。ブラックソウルの精神波動は、黄泉の闇と同調し、肉体ごと地獄へ飛ばされつつある。
「クリス!」
ブラックソウルが、叫んだ。
「クリス、思い出せ、おまえはここへ来る前から、死者であったのを」
すでに影だけの存在となったブラックソウルは、狂おしげに叫ぶ。
「偽りの姿は消え失せろ、真実を、夜明けに輝く太陽のごとく、我が前に示せ、魔族の真の支配者よ」
クリスの死体が、幾度か痙攣する。そして、死者がゆっくり、ぎこちなく立ち上がった。冥界の王の目を盗み、戻ってきたかのように、数歩歩む。
かつてブラックソウルであった黒い影は、絶叫した。
「汝の真の名をここに告げる、魔族の正当なる支配者である女王、ヴェリンダ・ヴェック!」
叫び終わると共に、クリスの死体は、黄金色の炎に包まれた。邪悪なものを死滅させるかのような、神聖な金色の炎が燃え盛る。そしてその中から、黒い人影が歩でた。
その人は、漆黒の女神の像を思わす、魔族の女である。大地の豊饒を暗示するような豊かな乳房、波を分け海原を走る黒い船のような肢体、漆黒の闇夜を駆逐する真夏の太陽のように金色に輝く髪、そして古よりあらゆる邪悪、あらゆる残忍な戦いを見つめてきた金色の瞳。
そのすべてが、廃虚に昇る満月のように、クラウスの前へ姿を現した。
「化身の術で魔族が人間になりすましていたか、それにしても、そなたは?」
その魔族の女の、漆黒の美貌を見つめたクラウスの顔が、驚愕に歪んだ。
「いや、あなたは我が王セルジュ・ヴェックの王女、ヴェリンダ様、なぜ家畜と共に我が宮殿へ?いやそれよりも…」
ヴェリンダは、人間の王族すら家畜と呼ぶものにふさわしい気高い笑みを見せ、影として消え去ろうとしているブラックソウルに触れた。闇が野獣に怯る小動物のように遁走し、不遜な笑みを浮かべるブラックソウルが姿を現す。
ヴェリンダは官能的といってもいいような、艶かしい笑みを見せ、ブラックソウルの肩に手を乗せたまま、言った。
「紹介しよう、クラウス。我が夫、ブラックソウルだ」
クラウスは、一瞬、狂死してもおかしくないような表情になる。しかし、すぐ平静を取り戻し、静かに言った。
「お戯れを」
「事実だよ、クラウス」ブラックソウルは、嘲るように言った。「あんたはもう少しで、あんたの真の主を冥界へ送るところだったんだぜ」
「おまえは黙れ!汚らわしい家畜」
「我が夫に対し、無礼であろう、クラウス」ヴェリンダが泰然と、たしなめる。
クラウスは傷ついた獣のように、憎しみで輝く瞳を、ヴェリンダに向ける。ヴェリンダは、宮廷で謁見する王妃のように微笑んだ。
「ヴェリンダ様、あなたはガルンの手により、異界へ飛ばされ、幽閉されていたと聞きます。いつ戻られたのですか」
「確かに私は魔導の力も届かぬ、異界の地に閉じこめられていた。ガルンがエリウスに殺されたのちも、私はこの世界へ戻ってはこられなかった」
ヴェリンダは、楽しげに微笑む。
「我が父、セルジュはガルンに密殺された為、王位は我が弟、ヴァルラが継いだ。
弟は、私を救った者には私を妻にする権利を与えると、ふれを出した」
「まさか」
「私を異界の地より、連れ戻したのがブラックソウルなのだ、クラウス」
クラウスは無表情となった。
「おれの言った通りだろ、クラウス」
ブラックソウルは、勝ち誇ったように言った。
「おれの名は、忘れられぬ名となっただろう」
「確かにな」クラウスは、自分に言い聞かせるように、繰り返した。「確かにそうだ」
哄笑が響いた。フレヤである。
「呆れた時代になったものだな、え?クラウス」
フレヤは美しき青き瞳を、皮肉気に煌めかせている。
「それはそれとして、聞きたいことがある」
クラウスは、疲れたように言った。
「何のことだ、最後の巨人」
「私よりも、我が相棒の望みだ」
黒衣のロキが、ゆっくり進み出る。
「黄金の林檎のことだ、クラウス殿」
「黄金の林檎か。ロキ殿、そなたまだ、あれを見つけ出していなかったのか」
「残念ながら」
「確かに、ラフレールは黄金の林檎を携えて、ここへ来た」
魔族の王女、ヴェリンダの傍らに立つブラックソウルの瞳が、昏く輝く。ロキは、ブラックソウルの存在を意に介していないようだ。
「しかし、ラフレールは、そのまま持ち帰ったよ」
ロキは、無表情のままである。
「ラフレールは、どこへ黄金の林檎を隠したのだろう。四百年も人の目に触れぬとは」
クラウスは、笑って答えた。
「さあな。奴自身が、今だに持っているのだろうよ」
ロキは、撫然として言った。
「人は、四百年も生きぬものだ」
「奴は、黄金の林檎を持ち歩いていたのだ。その力を全身に浴びている。奴を人間と考えぬほうがいいぞ、ロキ殿」
ロキは、少し戸惑ったような表情を見せた。
「ラフレールはどこへ向かうと言っていた?」
「はっきりとは、聞いていない。多分、西の方へ向かったのだろう。エルフの城の話をしていたからな」
「西か」ロキは遠くを見る瞳をして、言った。
「ラフレールは、何を求めてここへ来たのだろう、クラウス殿」
クラウスは、夜の天使のように美しい顔を、わずかに歪めた。
「あれは、ただ一人、黄金の林檎の意味に気づいた人間だ」
クラウスはゆっくりと、ヴェリンダとブラックソウル、それにフレヤとロキを見渡す。そこにいる者は、すべてクラウスに注目していた。
「黄金の林檎は何百億年も昔に、地上へもたらされた。あれは星船の動力源として使用されていたが、元々は死の神サトスによって殺された、神々の母なる女神フライア神の心臓だ」
クラウスは、ロキに微笑みかける。
「このことの意味は、ロキ殿そなたが一番よく、ご存知であろう」
「そうだ。フライア神は、生命を育み、進化させる力を持つ」ロキは聖地で祈りを捧げる、修験者のように静かに語った。
「その心臓が地上にもたらされたということは、地上に過剰な生命を育む力が、もたらされたということだ。すべての生命現象は加速され、破綻していく」
「違う」クラウスは、重々しく言った。
「生命というものが、そもそもこの宇宙では異形の破綻した存在なのだ」
クラウスは静かな怒りを秘めた目で、ロキを見る。
「ヌース教の教義では、そうなっているはず」
「否定はしない」ロキは、冷たい瞳でクラウスを見る。
「生命現象は、我々魔族も、人間も、あらゆる動物、植物も含め、宇宙の神聖な調和を乱す存在なのだ。グーヌ神が神々の定めに逆らい、黄金の林檎を地上へ持ち込んだがゆえに、生命は産まれた。この呪われた存在である生命を否定し抹殺しようとするのが、ヌース教であり、その生命を地上にもたらす源である黄金の林檎を天上へ、正確には金星にある次元牢の中へ戻すのが、ヌース神により人間に与えられた使命」
「黄金の林檎は危険だ」
ロキが静かに言う。クラウスは、首を振った。
「そなたの役割は、神々の定めによるもの。私はそなたに協力を惜しまぬつもりだ。誤解されるな。しかし、当の人間であるラフレールは迷っていたのだ。地上から黄金の林檎を持ち去れば、総ての生命は死滅すると知っていたからな」
クラウスは苦笑した。
「ラフレールはこう言った。この黄金の林檎を私に預かってもらえぬかとな。できうれば、永遠にと」
「しかし、」ロキが言った。「断ったのだな」
クラウスは、あざ笑った。
「できるわけが、無い。天使達が殺戮をもたらす為に、天上から降りてきた、あのヌース神とグーヌ神の戦争、あれをもう一度起こせというのか」
クラウスは首を振った。
「私はガルンほど、狂気にとりつかれてはいないよ。ガルンが助力を求めた時に断ったように、ラフレールの申し出も断った。黄金の林檎を天上に返すか否かは、人間が決めることだ。私が受け取れば、ヌース神とグーヌ神の取り交わした約定に逆らうことになる」
クラウスは金色に燃える瞳で、ブラックソウルを見た。
「もし、貴様ら人間が、真に考えるという行為を行ったなら、必ずラフレールと同じ苦悩に行き着くはずだ。にも関わらず、おまえ達は愚鈍にヌース神の教えに従うばかりだ。だから家畜でしかないんだよ、おまえ達は」
ブラックソウルは、肩を竦める。
「我々にとって、どうでもいいことなのだよ、生命の死滅など。黄金の林檎を天上に返すのが、何千年先になるかは判らないが、その時に少なくともおれは、生きてはいないからな。我々に必要なのは、大義だ。ヌース神は、それを与えた。宇宙の神聖な調和を取り戻すという、大義をね」
クラウスは、ヴェリンダを見る。
「この者の言う通りだ。人間は、瞬くような短い生を生きる。この者たちと我々魔族が共に暮らすなど不可能です」
クラウスの目には、哀しみがあった。
「人間の世界を、ご覧になるといい。まるで病に侵され、肉体が崩壊してゆく動物のように、一時たりとも同じ姿をとどめることが無い。狂気のスピードにとりつかれ、無限の変化と生成を行ってゆく。あなたは、フレヤ殿と同様、記憶を封印されるおつもりか」
ヴェリンダは、夢幻の花園の中で微睡む乙女のように、微笑んだ。
「お前の意見など、聞くつもりは無い、クラウスよ。再び、太古の夢へ戻るがいい。
未来を愁えるな、古の夢だけを抱いていろ」
クラウスは、口を閉じた。その金色の瞳は、ヴェリンダを見てはいない。その視線は魔族の王女を通りこし、礼拝堂の入り口へ向けられていた。
その大きな入り口の扉の影に、黒衣の魔導師が佇んでいる。ドルーズであった。
「これは、おそろいで、皆様」
その顔は死者のように蒼ざめ、その声は墓地を渡る風を思わせた。荒廃した大地を哀しむ女神のようなその美貌は、黒衣の上に白く輝いて見える。
訃報を知らせる為、大地に降り立った黒い鳥のように、マントを靡かせドルーズはあゆみだす。死せる神を悼むように、その目を伏せたまま。
一同は、無言でドルーズの登場を見守っていた。ドルーズは、あたかもこれから喜劇を演ずる道化のように、魔族の王女と神官、最後の巨人と神の造った模造人間、そして人間にして魔族の夫である男の前で、優雅に一礼する。
「オーラの間者殿、まずは礼を言っておきましょう。この宮殿の真の主ともいえる邪神ゴラースは、我が掌中に納めました」
ブラックソウルは慈父のように、微笑んだ。
「ほう、いったいいつの間に?」
「たった今ですよ」
巨大な獣達が、どこか地下奥深い所で目覚め、唸りをあげ始めたように、その瞬間空気が蠢いた。宮殿自体が巨大な生き物であり、その生き物が息を吹き替えしたように、奇妙な波動が地底より立ち昇ってゆく。
「それでこの宮殿を、支配したつもりかね」
クラウスは、いたずらをした子供を見つめる親のように、笑っている。ドルーズは平然と笑みを返す。
「さてね。この宮殿の存在する空間、これ自体が、我々の生きる宇宙から切り放された、虚空としての小宇宙といえます。その小宇宙に意志があり、その意志が邪神ゴラースになるのですが、この小宇宙は様々な物理的接点を我々の宇宙に持っています」
ドルーズは、教義を伝導する信徒のように、語った。
「つまり、無数の次元回廊というべきものがあり、その接点としてこの小宇宙がある。例えば、こんなふうに」
ドルーズの足元に、五芒星が輝いた。空気の焦げる臭いが、あたりに立ちこめる。
礼拝堂全体が電気を帯びたように、透明な輝きが拡散した。
「貴様、」クラウスが呻いた。
「ゴラースの道を開いたな」
ドルーズは夢見る乙女のように、美しく微笑んだ。礼拝堂の中に、エネルギーの塊が生じていく。それは、白く輝く光の球体となり、クラウスの回りを囲んだ。
光の球体は、全部で五つある。ドルーズは黒衣に包まれた右手を上げ、さっと降ろす。それと同時に、輝く球体はガラスが砕けるように拡散し、光の中から青灰色に光る鋼の巨人が姿を現した。
「機動甲冑だと!」クラウスが、呻くように言った。
五体の鋼の巨人は、フレヤとほぼ同じ背丈である。その体の厚みは、フレヤの倍以上あった。鋼の巨人達は、その手に持つ4メートルはある槍を、クラウスに向けて構える。
「貴様ら!」
クラウスは叫んだ。しかし、魔導の力を使う暇は無かった。五本の長大な鉄柱のような槍が、クラウスの体を貫く。真紅の血が、漆黒の肌の上に散る。
「なめたまねを」
クラウスの金色の瞳は、死んでいない。むしろ、激しい怒りに燃え盛っている。
ドルーズは親しい友人を見るように、クラウスの視線を受けとめた。
「さようなら、旧世界の支配者」
クラウスは、両手を天に掲げる。目映い極彩色の球体が、出現した。青灰色をした鋼の巨人達は、光を受けその姿が霞み始める。異界への扉が開こうとしていた。
ドルーズはその様を、嘲るような笑みを浮かべて見ている。再びドルーズの手が天を指し、振り降ろされた。六つ目の光の球が、クラウスの眼前に出現する。
「おおっ」
クラウスは咆哮した。白い光が弾け、闇を纏ったような黒い鋼の巨人が姿を現す。
漆黒の巨人を目の前にし、クラウスは最後の力を振り絞った。空間が歪み、無限に変化していく光の渦が巻き起こる。漆黒の巨人は、光の渦を断ち切るように、巨大な鋼の剣を振るった。
黄金に輝く髪を頂いたクラウスの頭が、地に墜ちる。輝く月が、黒い太陽の前で地の底へと沈んでいくように。
潮が退くように、張りつめていた緊張が解かれた。空間に満ちていたエネルギーは、すでに消えている。聖拝堂には、元の静寂が戻った。
鋼の巨人達は、フレヤのほうを向く。白衣のフレヤは、剣を抜いた。漆黒の巨大な甲冑の前面が開き、人間の女が姿を現す。ジゼルであった。ジゼルは荒野を駆ける獣のように気高い瞳で、フレヤを見る。
「女トロール、お前を見せ物小屋に送るのは諦めた。ここで殺してやるよ」
「機動甲冑とは、呆れたものを持ち出したな、虫けらの女王」
機動甲冑は、それ自体が亜生命体である。鉄の表皮を持つ、ある種の甲虫が巨大に進化した姿であった。それは、古の王国の秘技が産みだした、古代兵器である。
四百年前の、暗黒王ガルンの侵攻により、王国が崩壊した為、古代の秘技も失われてしまった。しかし、古代兵器のいくつかは、オーラの武器庫に残っている。ジゼルの乗っているのは、そうした物の一つであった。
人工進化により創り出された古代兵器は、自分自身の意志は持たず、乗り手の意志に従うこととなる。その体内に持つ空洞に乗り手を納めた機動甲冑は、繊細な触手を乗り手の体へ這わす。触手は乗り手の皮膚に溶け込み、その神経電流を機動甲冑へ伝える。機動甲冑の脳は乗り手の意志を感じとり、あたかも乗り手の四肢のように自在に動くのだ。
ジゼルは、夜を纏ったような黒衣で、漆黒の機動甲冑の中に収まっている。ジゼルは、狼のように笑った。
「こんな大層なものは趣味に合わぬ、しかし、貴様と戦うには必要だからな」
フレヤは哄笑した。
「それで互角になったつもりか、矮小な体にはりぼてを纏った姿は滑稽なだけだぞ」
「すぐに黙らせてやるよ、女トロール」
黒い装甲が降り、ジゼルは再び機動甲冑の中へと戻った。青灰色の鋼の巨人達が、フレヤを囲む。フレヤは楽しげに微笑んだ。
「お前をここで殺せるとは、礼を言いたくなる程だよ、虫の女王」
ジゼル達の動きを無視し、ブラックソウルはドルーズへ近づく。その後ろには、影のようにヴェリンダが従っている。
「ゴラースを、物質転送装置として操るか。見事だな、ドルーズ殿。あんたは確かにラフレール以来の天才だよ」
黒衣の魔導師は、白い美貌を満足げに歪め、優雅に一礼した。
「この物質転送装置を使えば、オーラの水晶塔に武装兵団を転送することも可能。
王国を再び混乱の時代へ逆行させることも、たやすい。あんたとジゼルの望みはそういうことだろう、ドルーズ殿」
ドルーズは無言である。ブラックソウルは、困ったように笑う。
「余計な仕事が、増えてしまったな。おれは、あんたを見くびっていたよ。しかし、あんたは殺さなくてはならないようだ」
「あなたの闇水晶の剣は、私の体に届きませんよ」
ドルーズは、優しく言った。
「おれ達を、どこかへ転送してしまうこともできるわけだな。おれが、あんたを殺す前に。だがな」
ブラックソウルは、仄昏い笑みを見せた。
「本当にできると思うか?」
言い終えると同時に、目映い光がブラックソウル達を包む。光は、目に見えぬ鏡に反射したように、弾け飛んだ。
魔族の女王、ヴェリンダ・ヴェックが一歩踏み出す。その漆黒の美貌には、古の宮廷画家が描いた肖像画の美女のような、気高く穏やかな笑みが浮かべられている。
「そなたごときにできることが、魔族の主にできぬと思っているのか、家畜の魔導師」
「そこまで慢心してはいませんよ、魔族の支配者」
ドルーズは、楽しげに言った。
「どうやら、あなた方を殺す理由ができたようだ」
そして、黒い竜の翼が、ドルーズの背に出現した。夜明けの太陽を覆う暗雲のように、黒い翼がドルーズの背後に広がる。巨大な蛇のような尾が、床で身を捩らた。
最後に、黒衣の下から銀色の髪の女の頭部が、姿を現わす。堂々たる威厳を持った竜族の主がドルーズの体内から出現した。
ドルーズが眠りに落ちる乙女のようにそっと瞳を閉じた時、神々を相手にする高級娼婦のような美貌のエキドナが目を見開く。
「久しぶりだな、ヴェリンダ嬢や」
竜族の女王が魔族の女王に、挨拶を送った。闇の波動が、礼拝堂の空気を揺らす。
天使達が死に絶えた夜に地上へ降り注いだ月の光のように、銀色に輝く髪をゆらせ、エキドナは笑った。
「可愛い旦那を見つけたようだな、嬢ちゃん」
「そしてあなたは、家畜の使い魔?お互い変わったものね、老いたる竜よ」
エキドナは、艶かしく笑った。
「まず、あんたの愛しい旦那を味あわせてもらうよ。とっても旨そうだね、あんたの旦那は」
夜明けの太陽が夜の闇を引き裂くように、ヴェリンダの黄金の瞳が輝いた。
「竜よ、おまえが本来属していた世界へ帰るがいい!」
エキドナの足元に、光の渦が出現した。光年の彼方に横たわる真白き銀河の渦のように、異次元への扉が礼拝堂の床に広がる。
エキドナは巨大な翼を羽ばたかせ、足元に広がった宇宙の上を飛ぶ。エキドナはしたたかな街娼のように、笑った。
「嬢ちゃんにできるかい?私を消し去るなど」
聖なる乙女のように神々しい笑みを浮かべた、黒い膚の女王が答えた。
「魔族が呼びだした竜を、呼びだした元へ返すだけ。たやすい話よ」
目に見えぬ力が、二人を包む。その戦いは、互角に見えた。
ケインは、右手でエルフの絹糸を操っている。ケインとその胴につかまったジークは、ゆっくりとナイトフレイム宮殿の吹き抜けの底へと向かっていた。
あたかも魔界の海底へと沈んでいくように、邪悪な瘴気は力を増していく。二人は邪神の住処と言われる、吹き抜けの底へと辿りついた。
そこは巨大な縦穴の底であり、二人は大きな砲身の底へ入り込んだように感じる。
足元には幾重にも、なんらかの魔法に関係していると思われる、巨大な円形の模様が描かれていた。
「ねえ、」
ジークは、その円の中心を指さした。そこには、黄金に輝く像が置かれている。
「あれじゃないの、この宮殿のお宝っていうのは」
二人はそのゴラースの神像らしい、半神半獣の金の像へと近づく。黄金の像は人間の頭くらいの大きさで、台の上に置かれている。その緻密な細工で造られた彫像は、本当に動きだしそうに見えるほどリアルであった。
「高く売れそうだな」
ケインは、にっこり笑った。苦労した甲斐も、あったというものだ。その神像であれば、城をひとつ買えるくらいの値段で、売れそうな気がした。
「どれ」
ケインが慌てて止める前に、無造作にジークが手を伸ばして神像を手に取った。
「馬鹿、この手のものには、大抵罠がしかけてあって」
「でも、大丈夫だったじゃん」
ジークは晴れた青空のような瞳を輝かせ、にこにこ笑った。子供を抱くように、黄金の神像を手に持つ。
「おれの野生の勘が、平気だっていったんだよ」
「しかし、」
ケインが窘めようとした時、地鳴りが起こった。
「なんだ?」
それは、地球の中心が震えていると感じさせるような、奥深い地下で起こった地鳴りのようだ。
「あれ!」
ジークの指した所に、闇が凝縮しつつあった。それは、丁度黄金の神像の置かれていた真上である。
それは、闇というよりは物理的な漆黒の物質のようであった。暗黒のエクトプラズムとでもいうべきその物体は、蠢きながら姿を整えつつある。
そして、その姿はゴラースそのものの形態をとった。
ケインもジークも、言葉を失った。気高く凶暴な狼の頭を持ち、破壊の凶天使のような黒い翼を背負い、立ち上がった野獣のようなしなやかな筋肉を纏った肉体を持つその神は、ケインとジークの頭上に浮いている。
それは、やたらとリアルな夢の光景のようであった。ゴラースの姿は凶暴なまでの存在感を持ちながら、麻薬の幻覚のように現実感が希薄である。
それはあまりに想像を越えた自体の発生に、二人の脳が思考を停止してしまい、正常な感覚を失った為にそう感じられているらしい。ケインは強烈な目眩を感じていた。
「お前たちか、我が封印を取り除いたのは」
ゴラースが厳かに言った。天から降り注ぐ雷のように、その言葉は二人を打ち据える。ケインは膝をついた。
「礼を言っておこう。私は自由の身となった」
ゴラースはかき消すように、消滅した。ケインは、動く気力も無くしている。ジークも同じ状態のようだ。
「どうなると思う、ケイン?」
ジークの問いかけに、ケインは力無く首を振った。
「判らないよ、おれには」
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