第11話 最悪の不運

 その男の妻は、こんな筈じゃなかった──と、内心、焦っていた。

 表面上は至って普通ではあったが、内心は昨日からずっと吹きすさぶ嵐に翻弄されていた。


「ったく、災難だったな」

 自分と揃いの指輪を左手の薬指につけた夫は、そう言いながら車を走らせる。

 本来なら昨日チェックアウトだった旅館は、殺人事件が起きて旅行客は留め置かれてしまった。取り調べというよりは身元確認といった警察との話が終わった者から帰されたのだが、自分たちは夜も遅い時間になってしまったこともあり、結局もう1泊、その旅館近くの宿に宿泊して帰ることになったのだ。

 本当なら夜を押して帰ってほしかったのだが、夫は殺人事件という日常ならあり得ないことに関わった興奮からか、急きょ宿を頼んだ旅館の仲居にまで、「俺たち、あの旅館に泊まってたんだよ」と自慢さえしていた。


(あぁ、なんて愚かな男なんだろう)


 そう思えども、ずっとずっとこの人が好きだった。結婚してもそれは変わらず、どこか抜けてる愚かな男が、愛しくて仕方ないのだ。


(早く……早く……帰りたい……)


 この場所から早く出たかった。戻ってしまえば、自分の日常は変わらなくなる。そうなれば、もうこの場所と自分たちを結びつけるものは何もない。心残りは夫の携帯だが、あの数多くの【囁き】の中から、彼の声に疑問を持つ者などいないだろう。いてくれるな、と願わずにはいられない。


(どうしてこんなことに……)


 昨日、事件の後、夫の様子を見て、妻は自分のしてしまったことを知った。


 どうしようもない絶望が彼女を襲った。


 けれど、同時に、それならばきっと誰も彼女のしたことに気が付かないだろうとも思ったのだ。


 最悪の不運に見舞われたのは誰だったのか。


 妻は、早く、早く、と願いつつも、助手席で家路に着くのを切望していた。



 しかし。


 それは叶えられない。


「ん? 何だ?」

 いつもなら気にもせずに車を走らせる夫が、今日に限って前方の路側帯に停車している車に目をやった。

 煙草をふかす男性と、車の中に頭を突っ込んで何かしている女性のカップル。


(あなた、そんなに親切な男じゃなかったでしょう!)


 そう心の声は叫ぶのだが、声にはならない。

 夫は暢気に停まっている車の横で停車すると、助手席の窓を開けて、よせばいいのに妻を跨いでカップルに話し掛ける。


「車、故障したんですか?」


 のんびりと間の抜けた言葉に、煙草をふかしていた体格だけはいいがおっとりした顔立ちの男が、人の良さそうな笑顔を浮かべて、

「いや、違うんですよ」

と返事した。


 車の中に顔を突っ込んでいた女が、顔を出してこちらを見た。

 その瞬間、夫が「あ……」と思わず声を上げた。


 こちらを見た女も、声こそ挙げなかったが、夫を見て、大きく目を見開く。


(まさか。そんな……!)


 妻は声にならない悲鳴を上げた。


 そして、あり得ないことに、カップルの車も、誰も触れていないのにけたたましいクラクションを鳴らし始める。


 ビーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 響き渡るその音は、まるで警告音のようで──。

 夫を驚かせた女が、我に返り、車の中にまた頭を突っ込む。そして、次の瞬間、目に怒りを宿らせて、こちらにやってくる。


 ガシリ、と窓から入り込み妻の胸倉を掴んだ。

 夫が、

「ちょっ……! お前、今更何なんだよ!」

と叫んでくれた。あぁ、少しでも私の方が大切だと思ってくれているのか……と思ったが、その切ない気持ちは、次の瞬間、あり得ない言葉でかき消せれる。


「あんたが……、あんたが樹里愛を殺したのか──!!!」


 怒りに満ちた女の声は、クラクションが未だ響き渡るこの場所で、それでもしっかりと妻の耳には聞こえた。


「は、何言ってんの、お前?」

 夫が馬鹿にするような口調で女に話し掛けた。全くの赤の他人に話す口調ではないことは、夫の態度から見て取れた。


 それがこんな時でさえ悔しいと思ってしまう自分は、きっと夫よりも愚かな人間なのだろう。


「な、なんのこと……?」

と、言葉を返せばよかったのに、白を切りとおせばよかったのに、妻の心は限界に来ていた。


(何で……? どうして……?)


 何を間違えたのか。

 きっと、全て間違えていた。


 夫のTwitterの呟きを、こっそりと見るのが妻の普段の行いだった。愚かな夫は、それが誰でも見ることのできるものだと分かっていても、Twitterのアカウントを持たない妻は見ていないと高を括って、己の個人情報を垂れ流す。

 夫個人の携帯を盗み見れば、簡単に己が囁きなど見られてしまうことに、頭が回らない。



『今日は彼女の誕生日だった』と書かれた日、それは妻の誕生日ではなかった。


『彼女と泊まりwww』とホテルの写真が一緒に写された日、夫は出張だと言っていた。


『彼女と別れた。しんどい』と書かれた日、夫はいつも以上に妻に優しかった。


 そして、一昨日、夫は愚かな言葉を呟く。


『元カノ同じ旅館で発見。運命の再会?( *´艸`)』



 我慢の限界だった。夫が目を見張った女の顔はなんとなくだが覚えていた。男1人、女2人の3人で泊まっていた。どういう関係だか分からなかったが。

 

 早朝、夫はまだ起きていない時間に露天風呂に入りに行った帰り、

「死ね!」

と叫ぶ、物騒な声を聴く。


 思わず立ち聞きした内容は、男が恋人以外の女と寝ていたという内容で、思わず青ざめた。


 そんな軽い女では、また夫と寄りを戻すのではないか……?


 運命の再会だとのたまう夫の囁きが、私の心を冷たくする。


「も、もう、あの人に……、近寄らないで……」

 男が風呂に出かけたすきに、女の部屋に勝手に入り、そう告げた。

 女は布団に入ったまま、こちらを見ようともせずにのたまう。


「万菜美、私言ったよね? 自分のもの──そう思った時点で、あんたの負けなの。男なんて、絶対自分のものになりやしないって思ってなきゃいけない生き物なんだからって」


 女の言葉に、体中の血が一気に引いた。


 あぁ、この女は駄目だ。きっと、間違いなく、また夫を自分から奪ってしまう。


「だけど、ね、万菜美。誘ったのはアイツの方で、元からアイツはそんな噂ばっかりだったんだよ。あんたはいつも誰かのものになりたがるけど、あんた自身はあんただけのものなんだから、もっと自分を──」


 布団から顔を上げた女は、そこに立つ人間が、己の友人でないことに気付き、目を大きく見開いた。


「誰──?」

 そう呟くよりも早く、妻はテーブルにあった灰皿で、女の頭を打ち付けた。

 女が「ギャッ」と猫のような悲鳴を上げたが、それさえもかまわず、何度も、何度も、打ち付けた。


 それこそ、女が息絶えるまで──。



 女が、夫の女でないと知ったのは、警官と対峙した時だった。警察の人間に、死んだ女の名前を聞いても全く動じなかった夫に、妻は自分が殺したのが別の人間だったと知る。


『うは。泊まってた旅館で殺人事件www』


 その晩、盗み見た夫の携帯の、あまりにも暢気な一言に、己の過ちを知った。



「どうして?! どうして樹里愛を殺したのよ!!」

 夫の不倫相手だった女は、妻の胸倉を助手席の窓から乗り込んで揺さぶる。


「何言ってんだ、お前!! 離せよ!」

 夫が妻をかばってくれる。それが酷く嬉しくて、同時に切ない。


 妻がぼんやりと、焦点の合わない目を、目の前で泣きじゃくる女から、道路の前方へと見遣る。

 思わず笑いたくなるほどのタイミングだ、と女は思った。


 前方からやってきた車はパトカーだった。


 クラクションのなりやまない軽自動車と、その横で立ち往生しているこの車を見て、パトカーは当然停まる。

 中から出てきた老成した刑事とその部下は、昨日も見た。刑事たちは夫の不倫相手の連れだった体格の良い男に目をやると、僅かに顔を顰め、それからこちらへやってくる。


「刑事さん、この女が俺の妻に暴力を──!」

 夫の声が、ひどく切ない。


(どうして、どうして、もっと私を見てくれなかったの?)


 言葉にならない声は、心の中を流れていく。


 夫の不倫相手が叫ぶ。


「刑事さん、この女が! この女が樹里愛を殺したのっっっ!!!」


 妻はこんな状況だというのに、刑事たちを見ると思わず笑みを口元に浮かべてしまった。

 言い逃れをしようとも思わなかった。できない気もした。

 どうして夫の不倫相手が、自分が犯人だと分かったのかは分からないが、夫とこの女の関係がばれれば、自ずと自分の動機もばれてしまうだろう。


 単純で、そしてとても愚かな動機、が。



「だって、間違えてしまったんだもの。仕方ないでしょう?」


 妻は、ポツリとそう呟いた。

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