第10話 幸運の女神
警察署総合1課の雉沼は苛ついていた。総合1課の職務は、主に殺人や傷害などの、人対人──、重犯罪を扱う。
一見して、温厚な町ではあるこの場所は、それなのに何故か物騒な事件が多い事でも、周辺の警察署では有名だった。今回もまた、どこの二時間ドラマだ、という勢いで、有り勝ちな殺人事件が管轄内の温泉旅館で起きた。
事件は極めてシンプルに思えた。
鈍器で殴られた二十代前半の女性。
彼女の恋人ではないが、肉体関係のあった男性。
そして、男の恋人であり、殺害された女性の友人である女性。
ここまでくれば、旅行中だというのに羽目を外した友人と恋人に逆上した女が、恋人を寝取った女を殺害した──と考えるのがセオリーで、実際、先に旅館を出た女性を重要参考人扱いで署に同行させた。そのまま彼女は容疑者として逮捕される……筈だったのだ。
彼女に完璧なアリバイがなければ。
殺された白羽 樹里愛の友人である小岩井 万菜美は、旅館を出て直ぐにたまたま傍を通りかかった男の車に乗車していた。田上 啓介が朝、風呂に行ったとされる5時30分には、彼の証言では彼女は生きており、その時間、小岩井 万菜美はパンクした車のタイヤ修理を手伝っていた。
白羽 樹里愛が死亡した時間とされる午前6時から7時の間、彼女はしっかりと駅ホームの防犯カメラに映っていた。正確には電車の来る6時45分までだが、それでもその時間まで防犯カメラに映っているということは、旅館から車で20分はかかる場所で、誰かを殺すことは不可能になる。
一番疑わしい人物が、一番完璧なアリバイを持っていたのだ。
当然、次点が殺人の容疑を着せられることになり、この場合の次点扱いは、一緒にいた田上 啓介になる。
その田上 啓介と言えば、自分は殺していないの一点張りで、決して罪を認めようとしない。いっそのこと、小岩井 万菜美に教唆され二人で共謀して白羽 樹里愛を殺害したと決めつけたかったぐらいだが、それにしては小岩井 万菜美のアリバイだけ完璧にして、自分のアリバイが全くないというのもおかしな話だ。
「当日の宿泊客、全部洗ってますが、白羽 樹里愛と知人の人間はいませんねぇ……」
そう部下が呟く。まだ死亡してから一日だ。誰か他にいるかもしれないので、当然捜査は長期化の様相を呈してくる筈、だった。
「あ──、くそ」
頭をガシガシと雉沼はかきむしり、昨日現れた自分の息子ほどの歳の男を思い出す。
「何でアイツは関わってくるかなぁ……」
それは偶然なのだろうが、出来得ることならばあってほしくない偶然だった。
上森 昴。
この辺りの警察関係の人間なら、彼を知らない人間はいないだろう。
特別、その男が何か犯罪を犯したことはない。真っ新で善良な一般市民だ。書類上では。
ただ、この、他の地域より殺人事件という物騒な事件が多いこの地域では、彼のことをよく思う警察関係者はいなかった。
「上森 昴って本当、死神みたいですね。いっそのこと、他の地域に引っ越してくれませんかね」
部下が不謹慎にもそんなことをぼやいたので、雉沼はギロリと、その犯罪者さえも竦ませる鋭い眼光で部下を睨んだ。
「すいません」と肩をすくませて部下は縮こまったが、雉沼とて内心ではそう思う気持ちがないわけではなかった。
「岡島たちは引き続き田上の調書。小出、お前は俺とドサ周りだ」
旅館には、昨日からまだ引き留めている宿泊者が何人か残っている。身元がはっきりして、尚且つ連絡もとれる者たちや、アリバイが完璧な者、比較的近県の人間は早めに返すことはできたのだが、ここを離れると飛行機で飛ばなければ出向くこともできない相手や、アリバイがはっきりしない人たちには、宿に無理を言って留め置いて貰っていた。
そこで何も出なければ、今度は一から白羽 樹里愛の人間関係を洗っていかなければならない。気の遠くなるような、泥臭い作業だ。
事件のあった温泉旅館に宿泊していた人数が、子供を含めて30人に満たなかったことは幸いだった。しかも、その温泉旅館から早朝、出ていったのは、小岩井 万菜美だけなので、犯人は旅館の中に残っていた宿泊者か、旅館を自由に出はいりできる旅館関係者と考えられる。
これが外で起こった事件であれば、犯人まで行き着くには、本当に気の遠くなるほど地道な作業で、怪しい人間をしらみつぶしで探していかなければならないが、人の出入りが明確に分かる場所だった為、捜査対象者はギュッと狭くなった。
それでも、全く関係のない人間と、死んだ人間の関係性を見出すのは、至難の業なのは確かで、痛くもない腹を探られて激昂する宿泊者も当然中にはいるのだから、頭の痛い話の筈、だ。他の管轄で同様の事件があったならば──。
しかし、ここは上森 昴の住む場所で、しかも、上森 昴が事件に間接的ではあるが関与した。
そうなると、事件の様相はガラリと姿を変えるのだ。
「まぁ、そう時間もかからず逮捕されるだろうがな」
「え……、やっぱり死神が絡むとそうなるんですか?」
この部下は去年の配置換えで入ってきたばかりなので、まだ噂でしか聞いていないのだろう。上森昴は『死神』と言われる反面、警察の一部では彼こそが『幸運の女神』と男なのに揶揄って皮肉られている。
それは、彼が関わった事件の検挙率に言えることで、どんなに複雑そうに思える事件であっても、彼が関わると、早々に解決してしまうのだ。
しかも、上森昴が探偵の真似事などして事件を解決するわけでもなく、スルスルと犯人の方が、火中に入り込む虫のような気持ち悪さで逮捕される。
地道な捜査努力で事件を解決していく警察組織としては、矜持を傷つけられかねないことだった。
何が起こっているのか、それを分からない状態で物事が終わってしまうことの気持ち悪さは、何度経験してもいいものではない。そんな調子で犯人という犯人がすべて捕まるのなら、警察に雉沼のいる総合1課のような組織は不要で、留置所だけあればよくなってしまう。
「なんか、困った時の神頼みっていいますが、困る前に勝手に上森昴頼みって感じですね」
「お前、それ全然うまくねぇぞ」
「あ、自分でもワカッテマス」
雉沼はため息を吐くと、旅館に向かうことにした。犯人が直ぐに捕まるにせよ自分たちは自分たちのできることをしなければならない。それが徒労に終わるとしても、犯人が捕まるのならそれは良い事なのだと割り切らなければ、やっていられない。
犯人が捕まることが一番の、被害者の供養になるのだから。
自分たちの存在意義なんて二の次だ。
そうヤケにでもならない限り、上森昴の関わった案件は、馬鹿馬鹿しくてやってられなくなる。
「俺たちは贅沢なんだと割り切るしかねぇぞ」
世の中にはどんなに憎くても、どんなに探し当てたくても、見つけられない犯人もいるのだ。それに比べれば、自分たちは十分運が良い方なのだろう。
上森昴という人間が間接的にでも関わる事件なら全て解決に向かうのだから──。
「どれ行くぞ」
「了解です」
部下を促して、雉沼はともすれば重くなりそうな腰をあげた。
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