第6話 宥めてくれた手は、もう、ない

「まぁまぁ、お目目開けたらぱっちり、めんこい娘さんで。

 昴ちゃん、若くて可愛いお嫁さんが来てくれて、良かったねぇ!」


 翌朝、結局お風呂を借りて、粗方出かける準備を整えた万菜美は、この家の主人であろう上森の祖母と、これぞ日本食といった風情の朝食が用意された食卓で面会した。

 朝、起き掛けにも挨拶をしたが、その時はニコニコとして普通の優しそうな小さいおばあちゃんだとしか思わなかった。

 だが小さいおばあちゃんは、口を開けばパワフルだった。


「どこから来たね? あぁ、そっちの方け。こっからなら、車なら三時間もかからんべ。良かったなぁ、昴ちゃん。同じ県内ならお嫁ちゃんも苦労せんやろうし。大切にせんとねぇ!」


 この辺の訛りの混じったポンポンと弾むような声に、思わず「はぁ」と返事をしてしまえば、上森が慌てる。

「ばあちゃん、違う! 昨日も話したけど、たまたま行きがかり上、世話した子だから! 君も「はぁ」なんて返事しないでよ! ばあちゃん、本気にして婚姻届用意しちゃうから!」

「なあに、言ってんの、昴ちゃん。婚姻届けなら、ホラ、ここに。ばあちゃんが昴ちゃんの証人欄に名前書いてるから、お嫁ちゃんにこっちさ書いてもらえ!」

 上森のおばあちゃんは戸棚の引き出しから薄いペラペラした紙を取り出したと思えば、それをグイグイと上森に突きつける。それは万菜美が初めて見るものだったが、どうやら婚姻届らしく、上森はそれを見て、ギョッと目を丸くした。


「いつの間にこんなもの……! てか、俺の名前、既に書いてあるし! ばあちゃん、これじゃ公文書偽造だよ!」

「コウブンショでも市役所でもいいから、早く書いてだしてこぉ!」


「ぐふっ……!」


 ついに我慢できずに、万菜美は吹き出してしまった。オタオタと慌てる上森もおかしかったし、おばあちゃんのパワフルさも楽しすぎる。それに何より……


(昴ちゃん……っ!!)


 いい歳した男のちゃん付けが、こんなに似合うとは思わなかった。

 体格だけはガッシリといいのに、顔がおっとりしているから、ちゃん付けが嫌味でない。下手すれば、似合ってしまう。それが可笑しくて可笑しくて、笑いをこらえることができなかった。


「小岩井さんも笑ってるじゃないか! ばあちゃん、しまって! 本当にその紙、しまって!」


(それでも破いたり捨てたりしないんだなぁ……)

 そんなところに、上森がいかに祖母を大切にしているか感じ取られた。

 両親は亡くなっていると上森が昨日言っていた通りに、仏間の仏壇には、若い夫婦と、年老いた男の人の写真が飾ってあった。年老いた男は上森の祖父だろうが、若い夫婦は、古い写真であった上に、どう見ても今の上森より少し上ぐらいの年齢に見えたので、

 随分早くに亡くしてしまったのだろうな、と推測できた。

 そう思うと、この二人の祖母と孫の関係が、なんだか切なくて暖かく思えた。


「昴ちゃん、早く結婚して、早く孫みせねば、ばあちゃん、先におっちんじまうど!」

「孫は俺だし! 俺の子ならひ孫だろ!」


 祖母と孫のほのぼのコントは、結局朝食が終わるまで続けられた。


 朝食後、おばあちゃんが食器を片づけるというので、万菜美も自分の食べた食器を持って、おばあちゃんと台所へ行く。


「お手伝いしてもいいですか?」

 万菜美がそう問えば、しわくちゃの顔をくしゃりと嬉しそうにゆがめて、おばあちゃんは「ありがとぉ」と頷いてくれた。


 二人で並んで、万菜美が食器を洗って、おばあちゃんが布巾で拭いていく。

 おばあちゃんはニコニコと優しく万菜美に笑いかけてくれる。


「お嫁ちゃん、本当にうちに嫁さ来ねえけ?」

「うーん、うれしいお誘いなんですが、まだ学生なんですよ」

 やんわりと断りを入れてみるが、おばあちゃんもやはりやんわりと迫ってくる。


「昴ちゃん、優しいし、身体もいいし、顔も韓流スターに似てんべ? あの、今やってる韓国ドラマの!」

 公文書は分からなくても、韓流スターは分かるらしい。しかも、きちんと『カンリュウ』ではなく『ハンリュウ』と言っているところに、おばあちゃんの韓流への嵌り具合がうかがえる。

 万菜美自身は、昼間は殆ど家にいないので、韓流スターにどんな顔の人がいるのかあまり分からないが、確かに、上森のようなあっさり目の顔立ちの人もいたような気がする。


 おばあちゃんは頷いてくれない万菜美に少しがっかりしたようで、寂しそうに布巾でお茶碗を拭きながら、小さく、ポソポソと言う。

「久……昴ちゃんの親があんなことで死んじまって、その後もやなことばっかり続いたから、この辺の人間は、昴ちゃんとこさ嫁にこねぇんだわ。昴ちゃんは何もしてないし、一番近くにいるオレだってこんなにピンピンしてるのに、何で町の人間はそういうこと、分かんねえんだか……」


(ん……?)


 あまり立ち入ったらまずそうな言葉に、思わず万菜美は引っかかってしまう。


「町の人と……仲、悪いんですか?」

「こっちの温泉街はオレの住んでるところだし、面向かって悪いこと言う奴はいねぇが、下さ降りた方は、まだ昴ちゃんのこと悪ぐ言う奴さ、いる」


(下って、駅の方……?)


 ふと、昨日の夜、昴が言っていたことを思い出す。


『何か言われちゃいそうでさ……。俺にとっては地元だから、結構知り合いが駅前なんかザラにいるんだよ』

 

 上森の顔見知りが多いのだろうとしか思っていなかったが、その顔見知りの類は、若しかしなくてもあまりよい感情を昴に抱いていないのだろうか。


(どうして? あの人、凄く親切なのに……)

 車の中で万菜美を慰めてくれた時も、昨日の夜のぬいぐるみを渡してくれた時も、さっきおばあちゃんと話している時だって、上森はずっと優しかった。

 あの優しい人が、嫌われる理由なんて全くないと思う。万菜美は思わず洗っていた皿をグッと握りしめる。


「上森さん、凄く優しい人ですよ。知り合ったばかりの私にだって親切だし! 何で町の人が悪く言うのかわからないけれど、それは本人をきちんと見てない人の言うことだから、気にしちゃダメですよ、おばあちゃん!」


『あいつ、ビッチだよね』

 そんなことを万菜美も大学で何度か言われた。樹里愛とつるんでいたせいもあったし、自分の見た目もそういう風に見られるのだろう。だけど、万菜美自身としては尻軽だと自分は思っていない。確かに、六人という交際人数は少し多いかもしれないが、肉体関係を結んだ数だけで言えば、半分だ。あとの半分は、危うくというところはあったが、情が深まる前にお別れしている。しかし、世間一般から見れば、付き合った人数=経験人数なのだろうし、万菜美がどんなに真剣に付き合っているつもりでも、コロコロ相手が変わるというだけで、万菜美の評価は著しく悪くなる。


 そんな時でも、樹里愛だけは万菜美を笑いながら、受け止めてくれていた。「気にしないのよ〜」なんて軽く言いながら、ポンポンと万菜美を宥めてくれた手は、もう今は、ない。


(何で、啓介と寝ちゃったの……? 何で死んじゃったの、樹里愛……)

 昨日の夜、ブサ猫を抱きしめながら思い詰めていたことがまた溢れだしそうになった時だ。


「小岩井さん、いつでも帰れるよ」

 そう言いながら、上森が台所に顔を出す。

 万菜美はハッと我に返り、「あ、じゃあ、片づけたら荷物とってきます」と返事をした。


 そんな万菜美の手にあった食器を、おばあちゃんがニコニコしながら手にとった。


「いいよ、いいよ、お嫁ちゃん。あとはばあちゃん、やっとくから。お嫁ちゃんは昴ちゃんとイチャイチャでもしておきなさい。お手伝いはまた今度、遊びに来てくれた時でいいから」

「ばあちゃん、今度はないから。あと、嫁じゃないよ」

「ばあちゃん、早く孫の顔が見たいよ。可愛い女の子がいいねぇ……」

「その、聞きたくないときだけスルーするのやめてよ、ばあちゃん! あと、孫は俺!」


 毎回のことなのだろう。おばあちゃんもきっと分かっててやっているのだろうな、と思うと、可笑しくてまた万菜美は笑ってしまった。

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