第4話 酷く非現実で寝ざめの悪い夢の中
万菜美が警察署から解放されたのは、その日の夜だった。どうやらかなりの重要参考人──というより、寧ろ被疑者扱いだったのだが、万菜美の無実は午後に現れた男が証明してくれた。
「どうもありがとうございました」
警察署前で深く頭を下げた万菜美に対し、少し疲れたような声で「いや」と返事をしているのは、今朝、会ったばかりの上森だった。上森は応接室で途方に暮れていた万菜美の顔を確認すると、刑事に「彼女ならずっと自分といましたよ」と証言してくれたのだ。
まだ確実に万菜美への疑いはとれていないのだが、被疑者扱いではなくなったお蔭で釈放はされた。働かない頭で、元カレの田上のことを尋ねれば、彼は今晩、この警察署で夜を過ごすらしい。
よく考えれば当然の成り行きではあった。
万菜美が犯人でなければ、疑われるのは啓介の方だろう。同じ部屋で寝ていた男に疑いが行くのは当然だ。しかし、万菜美が疑われたことも考えれば、啓介は容疑を否認しているのだろうし、万菜美としても啓介が樹里愛を殺すとは到底思えなかった。
「証言してくださってありがとうございます」
もう一度深く頭を下げれば、上森は苦笑いを浮かべながら、
「いいよ、慣れているし」
と返してくれる。そう言えば、刑事とも知り合いだったようだ。でもそのお蔭で万菜美は警察署で一晩過ごさずに済んだので有難い。
「今日はこれからどうするの?」
上森の問いかけに、万菜美はさて、どうしようかと考えてしまう。
幸いにも被疑者扱いでもなかったので、親に身元引き受けの連絡は行かなかったようだが、帰ったらきちんと実家に電話して説明をしなければならないだろう。一人暮らしの気安さで、旅行のことなど一切親には連絡してなかったし、彼氏がいることも知らなかった筈だ。
脳裏に激昂する親の顔が過り、ますます気が重くなった。
「本当は帰りたいんですけど、乗換の電車があるか分からないので、今日は駅近くのホテルにでも泊まります」
「そう。じゃあ、そこまで送っていくよ」
上森が善意の提案をしてくれるが、万菜美は警察署の駐車場に泊まっている上森の軽自動車に目をやって、一瞬躊躇う。
もし、またあの子供が見えたら……と思うと、少しだけ怖かったのだ。
上森もそれは分かっていたのだろう。
「今まで結構いろんな人乗せたけど、お化けとか幽霊なんて話、一度もされたことないんだよ? 君もさ、もしかすると朝早くて寝ぼけていただけかもしれないよ?」
早口で上森がそう言った。その顔色はどことなく青いのは、意外にお化けや幽霊が得意ではないのかもしれない。十も年上の男の、そのちょっとビビリなところに思わず肩の力が抜ける。
もう一度軽自動車に目を向けてみる。
(何もないよね……)
きっと、あれは何かの虫の知らせだったのかもしれない。とんでもないことに今まさに巻き込まれている最中なのだから、あれは嵐の前の前兆みたいなもので、脳が見せた幻覚だと無理やり思い込ませる。
土地勘のない万菜美にとって、この警察署から駅まで、タクシーを使ったらどれくらいかかるのか分からない。その上、この旅行は啓介の車で来ていたので、実は帰りの電車賃などは自腹だった為、財布の中身も心許なくなっている。背に腹は代えられないので、上森の提案を有難く受けることにした。
おっかなびっくりではあったが、軽自動車の助手席に乗ると、またふんわりと森のような香りが鼻孔を擽った。
「朝も思ったんですが、いい匂いの芳香剤ですね」
「え? 芳香剤なんて入れてないんだけどな」
「そうですか? でも凄く落ち着く香りがしますよ」
シートベルトを着用して椅子にもたれかかるだけで、ふぅ、と思わず深い息が漏れてしまうほどに、身体の力が抜けていく。あえて後部座席は見ないままに会話をすすめると、上森は満更でもないのか、
「まあ、乗りやすいとは思うけどね」
と嬉しそうに答えてくれた。
免許を持たない万菜美には、車の種類など皆目見当もつかないが、今時のワゴンタイプとは違って、昔ながらの形の軽自動車だ。体格の良い上森にはやはり少し小さいように思えたが、本人は至って普通に運転し始める。
「お友達、災難だったね」
運転しながら、ポツリと上森がそう言った。万菜美は前を見ながら、
「あー……」
と言葉にならない声を上げる。
「不謹慎かもしれないんですけど、なんか実感わかなくて。
死んだとか、殺されたとか、テレビドラマの世界にしか思えなくて」
今にも携帯に、樹里愛から、『今日はごめんね!(:_;)』と全然反省しているようには思えない顔文字付でメールが来そうな気さえする。
友達の彼氏を寝取ったくらいで、あの樹里愛が懲りるとは思えなかったからだ。
だけど、懲りることはなくても、殺されるような人間でもないと、万菜美は思う。
樹里愛は、どこか愛嬌があって憎めない、本当は真っ直ぐな気質の友人だ。
啓介との付き合いはまだ三か月だったが、樹里愛とは大学に入学してすぐからなので、二年は経っている。
いくら彼氏を寝取られたといっても、付き合いだけみればまだ樹里愛の方に愛着が残るのは確かで。
こんなことで死んでしまうなんて、やはり信じられなかった。死体と面会してないせいもあるかもしれないし、啓介とも話をしていないからかもしれない。
酷く非現実で目覚めの悪い夢の中にいるような気持ちになってくる。
「そうだろうね。俺も経験あるから分かるよ」
穏やかな声で同意されて、万菜美が横を見ると、上森は前を見ながら言葉を続ける。
「中学生になる直前に、両親が死んでね。あの時は、何が自分に起こったか理解できなかったな」
思った以上にハードな内容に、思わず万菜美が息を飲めば、上森は笑いながら、
「もう二十年近く前の話だから。いい加減色褪せちゃっておぼろげなんだけど」
と付け足した。
「まあ、今日は眠れないかもしれないけれど、とりあえず休んで。
犯人、早く捕まるといいね」
「犯人、ですか……」
言われてみれば確かにそうだ。樹里愛は殺されたのだから、殺した犯人がいるはずだ。
(だけど、こんな旅先で、どうして樹里愛は殺されなくちゃならなかったんだろう)
万菜美は短い付き合いだが、啓介が犯人だとは思っていない。
それに、物捕りの犯行ではないことも、万菜美たちが取り調べられていることで分かる。何も盗まれてはいなかったのだろう。ただ、樹里愛だけが殺されていた。
(部屋の鍵とか開けっ放しだったんだろうな)
夜中に啓介が忍び込むのを分かっていて開けっ放しにしていたのだろう樹里愛の部屋の鍵を、馬鹿正直に啓介も閉めなかった。だからこそ、あんな場面を万菜美は目撃してしまったのだが、その後も、啓介は風呂に入りに行くのにワザワザ鍵を閉めていくことはしなかったのだろう。
外から見れば部屋鍵がしまっているかどうかなんて分からない造りの旅館だ。
それ位の気のゆるみは考えるに容易かった。
「その女に殺される理由なんて、なかったろうさ」
黙りこくったままの万菜美に、そう、声が掛かる。いきなりのぞんざいな口調に違和感を覚え、万菜美は顔再び上森の方へ向けて──
「ひいっ!!」
思わず短い悲鳴を上げてしまった。
「どうしたの?!」
上森は運転中の為、前を向いている。だが、突然の万菜美の悲鳴に驚いたらしく、直ぐにこちらに顔を一度だけ向けた。その表情は何の驚きもない。
だが、万菜美だけは違かった。
心臓が驚きで止まるとしたら、正に今、だった。
目前には、後部座席から顔を出してきた、朝見た時と同じ少年がこちらを見ていたからだ。
「女は間違えて殺された」
「えっと……小岩井さん……? どうしたの?」
二つの声が重なる。しかし、どちらの声にも万菜美は言葉を返すことができない。
何故ならその内の一つは、明らかに上森のものではなかったからだ。
「小岩井万菜美。お前の友達は巻き込まれて殺されたんだ」
最後通牒のようにそう突きつけられ。
「じゃあ……、何に巻き込まれたの……?」
(私の友達はどうして死んだの?)
酷く寝ざめの悪い夢の中にいるような気持だった。
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