第71夜 5・30 ババアの厄日、或いは忘れ得ぬ人々

5・30 ババアの厄日、或いは忘れ得ぬ人々


 また電車に乗った。雨が降っていた。詩は書けなかった。

 昼前に家を出た。西武新宿線は空いていた。向かいの席に、気の弱そうなスーツの親父が座った。親父は缶チューハイを持っていた。ゲップをしながら飲み終えると、空き缶が入ったコンビニ袋を、とん、と隣の空席に置いた。高田馬場駅で降りざまに、あ、こいつは置いて帰るな、と思ったので、親父の目を数秒睨め付けてから、座席に置かれたそれを無表情で見つめてやった。親父はこちらに一瞥くれたかと思うと、諦めたように袋を持って帰った。

 つまり、その程度の人間だった。親父ではなく、おれのことだ。その程度のつまらない正義感で、その日一日が良い日になってしまう、おれはその程度の人間だった。

 大学では本を一冊借りた。

 帰りの電車は少し混んでいた。僕の両隣は空いていた。途中で二人組の中年女が乗ってきた。ひとつ席を詰めてやった。そしたら、ありがとうも言わずに座って、ものすごい音圧で喋り始めた。ババアのヴァイブスは最高潮だった。おれは死ねクソブスとしか思わなかった。つまりはその程度の人間だった。

 帰りにコンビニでセブンスターを頼んだら、店員のおばさんがあからさまに軽蔑の顔をした。ボロ雑巾を見るみたいな目。今日はババアの厄日だと思った。厄日だから、スーパーまで行って缶チューハイを買った。レジはババアかと思ったが、これがなかなかの美少年だった。いや、働いているのだから少年であるはずはないのだが、それでも美少年としか言いようのないそのエプロン姿に、今日はやっぱり良い日だと思った。

 缶チューハイは心地よい炭酸で、それから少しだけ苦かった。(了)

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