第72夜 5・31 生れ出づる悩み
5・31 生れ出づる悩み
馬鹿のが、幸福だったかも知れない。
柾木は、そんなことを思っていた。
――或いは、もっと天才だったら良かったのに。
『撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり』
彼はいつか読んだ一節を思い出していた。道を歩く彼の前には、頭の悪そうな男女の二人連れが、指を絡ませ、腰と腰を寄せ、怖ろしく緩慢な速度で歩いていた。柾木は、ああはなりたくないと思った。同時に、羨ましくて堪らなかった。
――あんな人生もあったろうか。
一度、小学校の頃の同級生たちの名を、ひたすらフェイスブックで検索していたことがある。かつての同級生だった女たちは、もはや黒子の位置くらいしか面影がなかった。隈取りめいた派手な化粧に、脱色と加工を繰り返した髪。彼の知っている名字ではなく、十九や二十で子供が二人。右下がりの丸文字に彩られたプリクラが、彼女たちのアイコンだった。だが、ひどく幸福に見えた。そのことを彼は思い起した。
――あんな人生も、あったろうか。
柾木はまた同じ文句を繰り返した。おれももっと馬鹿ならよかった。のあだのここあだの、飼い犬に付けるのも恥かしい名前を、子供につけて生きていた方が、余程幸福だったかも知れない。現に、おれはあいつらより不幸だ。いったい大学院なぞまで流れ着いて、おれは何に成れると云うんだ。どうしておれはもっと馬鹿か、或いは天才に生れなかったろう。中途半端に醒めてしまうのは、もはや悪夢を通り越して、喜劇だ。
いったい馬鹿はどっちだろう、と思いながら、柾木は前を行く背中を見つめていた。(了)
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