第57夜 5・16 創造と借り物に関する試論

5・16 創造と借り物に関する試論


 本を読んだ名残りで、色々な言葉が、僕のなかにある。そんな状態で書こうとするならば、たとえ意識していなくても、文章は須らく借り物になる。僕のなかに渦巻いている、誰かからの借り物を吐き切ってしまうまでは、僕の言葉は書けない、と思う。

 だが、それを吐き切ってしまったあとで、そこに残るものなんて、あるだろうか。人が言葉を使うこと。そもそもそれ自体、借り物でしかない。その人の生れ落ちた一群の眷属に、編み成された言語の体系を少しずつ貰って、人は育ち、血肉にしてゆく。そうして、色々な場所からの借り物を束ねて、いつか出来上がった借り物の総量が、その人の成しえた言葉の重さになる。

 生み出される言葉はすべて、借り物にすぎない。

 何処からか借りてきた言葉たちのなかから、何を選択し、組み換え、書き直すか。言葉を生むものに与えられた「自由」は、その限りにおいて成り立つ。たとえば、「生れてすみません。」これだって、本当は太宰の言葉ではないらしい。彼は、同時代の無名の詩人から、その言葉を、友人を介してもらった。だがその言葉は組み換わることなく、そのまま彼の血肉となった。借り物はたんなる仮物であることをやめ、真に彼に近い借り物になった。言葉が彼の血肉となったとき、彼はもはや、それをそのまま、書くしかなかった。彼は、引用した。そしてそれは、やがて彼自身の言葉と呼ばれた。

 こんな大仰な蘊蓄を書いたのも、無論誰かからの借り物にすぎない。

 無からの自由な創造など、ありえない。あるのは、自由な引用と、組み換えだ。それがたんなる仮物を超えて、その人を貫く借り物になったとき。或いは、そのように見えたとき。その借り物は、「創造」と呼ばれる。

 無論この文章は、借り物にすぎない。(了)

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