第56夜 5・15 影

5・15 影


 昨日は、またしても書けなかった。いや、昨日は書かなかったんだ。昨日のは戦略的撤退だ。おとといから、停滞していたからだ。何も書けないのを絞り出すくらいなら、いっそ何も書かないほうがいい。それで、昨日は書かない日にしようと思った。

 書かない一日は、その代わり、よく読んだ。自分で書くことを禁じて、久しぶりにいろいろ読んだ。本棚から引っ張り出した本を、適当にめくっては、一章くらいずつ。気の向くままに、拾っては読んだ。

 そのことが、たぶん良かったんだと思う。書かない一日は、いい日だった。やはり書くなんて行為は苦しみだ。何も書かない生活のが、幸福だ。手にとって開いた本のなかに、古井由吉の「影」があった。もういつ買ったんだったか、積んだままホコリを被っていた本の、片隅にその一篇はあった。

 見つけた。僕はここにいたのだ。古井由吉。僕はこの人をはじめて読んだ。その言葉が、僕の人生に落とした影。それは無関係な人生の、はずだった。都会の夜のベランダに立って、外を眺めている、或る男。咳き込みながら、煙草を吹かす彼。ヘッドライトに、大きく揺れる影。それは見知らぬ男の影であり、どうしようもなく私の影である。僕はあの文章のなかに、そこにいるはずだった僕の影を見た。

 それから、太宰の小さな一篇。フォスフォレッスセンス。僕の知らない、横文字の掌編。

  

   食慾も、またあの性慾とやらも、何も無い涼しい恋の会話が続いて、夢で、以

  前に何度も見た事のある、しかし、地球の上には絶対に無い湖のほとりの青草原

  に私たち夫婦は寝ころぶ。

  「くやしいでしょうね。」

  「馬鹿だ。みな馬鹿ばかりだ。」

   私は涙を流す。


 僕が涙を流すには、一節で十分だった。馬鹿だ。みな馬鹿ばかりだ。その一文で、持って行かれた。何気ない一文を読んだ途端、すべての情景は了解された。

 怖ろしいほど、天才だった。

 これが書かれてしまったあとで、我々はいったい何を書けばよいのか。だが、触発された後発のボンクラは、また書き捨てを重ねたくなる。

 そして僕は不遜にも、再び書き出す。(了)

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