第58夜 5・17 日常性に薄められた牛乳のように
5・17 日常性に薄められた牛乳のように
何のために、書いているのか。柾木は、雨の上がった夜に思う。月が西の空に出ている。今日は純文学的な夜だった。
「寂しいからさ。」
屹度、文豪ならこう言うだろう。
「あれは、私の苦しみのあとです。あれは書き捨てに過ぎないのですから、全部、燃してしまつてください。」
生前は無名だった詩人なら、こうだ。
「それはおれの生命だからだ。書くしかないからだ。これを書かなければ、おれの生きている証がないからだ。」
先月の柾木なら、そう書いただろう。
だが今の彼には、それは違った。それは少しだけ深い悩みだった。はじめてチェロが鳴ってから一週間。昼間は再びチェロを習った。ボウイングの飲み込みがはやいと褒められた。それは教室流のセールスで、初心者を逃さないための世辞にすぎない。偏屈な柾木にはそう思われたが、それでもどこか嬉しかった。彼は単純にできていた。
書くこととは、結局、代償行為なのだろう。
彼は、そう思いながら書いていた。畢竟、彼にとっての文学など、そんなものだった。三月からはじめた三枚のベランダも、なんとなく続いて、それなりに増えていた。書くことは日常のひとつの動作として、柾木に内面化されつつあった。だからこそ、その新鮮さも少しずつ薄れていっていた。雨の日の抒情詩でさえもそれは同じで、彼は文章を書き始めたころの、不安とよろこびとを失いつつあった。小慣れた三枚を書きながら、書くことを疑いはじめていた。
日常性に薄められた夜の底で、タバコの煙だけがまだ、新しかった。(了)
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