第52夜 5・11 セロ弾きの病理
5・11 セロ弾きの病理
チェロを始めてみようと思った。何か、新しいことをしたかった。退屈な日常に、飽きたからだ。それで昼間、電車に乗った。音楽教室の扉を叩いた。
人は、現状に満足すれば、今いる場所が楽園になる。住めば都とは、そういうことだろう。終の住処を見つければ、幸福だ。
一方、此処ではない何処かへ。それは自分の今いる場所が、本当の居場所ではないと思う故の、落伍者の、敗者たちの、遁走。だが「彼方へ」の眼差しだけは、誰よりも純粋で、高潔だ。…と、本人だけは、信じている。
つまるところ、それは消費、瞬く間に嚥下され消化されるもの。それは現代の病理だと思う。どんなに時間をかけて拵えたものでも、サラリーマンのランチよろしく、五分足らずで掻き込んで、おしまい。僕もまた、同じ病理の患者だ。辿り着いた場所を食い散らかし、表面だけ取って適当に遊んで、飽きたらまた、次の場所へ。しっかり味わうこともしないくせ、やっぱり此処じゃなかったと思う。それでまた次へ、遁走、遁走。僕の病理は、慢性らしい。
チェロは、固くぎこちなく鳴った。開放弦の、ほとんど騒音。それでも、抱きよせて体に響く低音は、心地良かった。はじめて僕の鳴らした音。僕が聞いた、はじめてのセロの声。僕は、ゴーシュよりもやっぱり、ジョバンニの聞いたセロの声がいい。初期形にしか登場しない、最後にはまるごと消されてしまった、少年にしか聞こえないセロの声。それは、孤独な少年を、導く声。
僕の鳴らしたセロの声も、少しずつ僕の病理に蝕まれて、いつかは消されてしまうだろう。だがそれでも、今の僕は、今度こそ、本当の音を出したいと思う。遊んで飽きたらさよならではなく、僕にしか聞こえない、声を聞くまで。
それを忘れないために、今日はこれを書く。(了)
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