第53夜 5・12 空明と傷痍

 空が、よく澄んでいる。昼は夏日の快晴だった。この夜、昼間の熱はもう冷めている。東京でも、今日は星が見える。火星、土星、それからアンタレス。明るい三つの天体が、今宵かぎりの星座をつくって、三角形に輝いている。きっと三角標は、あのあたりにある。

  

  顥気の海の青びかりする底に立ち

  いかにもさういふ敬虔な風に

  一きれ白い紙巻煙草シガーレットを燃すことは

  月のあかりやらんかんの陰画

  つめたい空明への貢献である

               (宮沢賢治「空明と傷痍」)


 賢治がうたった、そのままのベランダ。その夜の底に、おれは立っている。顥気の海はよく澄んでいる。その海底から、夜を見つめる。東京の空は青く光っている。おれはいかにも敬虔な風に、一夜かぎりの三角標を見上げる。そうして目を細め、紙巻煙草を吸っている。


    ……ところがおれのてのひらからは

      血がまっ青に垂れてゐる……


 それは腥い血液ではない。右手から流れるのは、青い言葉だ。おれのまっ青な、言葉でできた血。何者にもなれないおれの、いつか血肉になろうとする言葉だ。こんな文章は書き捨てに過ぎない。それでもおれにとっては、生命だ。右掌から流れ出る、おれの青い血。それは若書きの青い言葉だ。今日も何者にもなれないまま、何者かになることに焦がれつづける、無様な青年の垂らす血漿。


    ……てのひらの血は

      ぽけっとのなかで凍りながら

      たぶんぼんやり燐光をだす……


 紙巻煙草は、もう燃え尽きた。火種が、コルクボードに落ちた。黒い焦げあとが、ひとつついた。(了)

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