第45夜 5・4 鯉のぼりの泳がない東京の空

5・4 鯉のぼりの泳がない東京の空


 今日は雨が降ると思っていた。だが、雨は降らなかった。おれは凡人で詩人ではないから、雨が降らなければ詩は書けない。僕は詩を書けなかったことを、少し残念に思った。けれど、詩なんて書けない方が、幸福だ。

 僕の抒情詩は敗れし者の詩だ。抗いえぬものに抗えず、ただ失ってゆく者の詩だ。失って、そしてまた、失われることの判っているものを求め続ける。救われない宿業を背負った者の詩だ。僕は失われゆく少年を、それから失ってしまった少年の追憶を、雨という名を持つ少年に込めた。そして失われゆく雨への抒情を、雨と夕焼けに託して歌う。それが僕の、ただひとつ書ける詩だ。少年とはいつも悲劇だ。少年とはいつも不幸だ。

 少年を愛するというのは、そういうことだ。

 柾木は、ゴールデンウィークの最後を、彼と同じ名の少年と過ごすことにした。五日の節句を、少年と共に迎えたかった。

 東京で育つ子供たちは、鯉のぼりの泳ぐ空を知らない。両親や祖父母やが願いを込めて、空に泳がせる鯉のぼりを知らない。そんなもの、東京で掲げた日には、たちまち標準語の張り紙に見舞われる。だから、観光地へ見に行くしかない。柾木は、そのことを不幸だと思う。しかし同時に、幸福でもある。

 柾木にとって、成長することは、すなわち少年としての死を意味するからだ。戸惑う少年の眼差しは失われ、薹が立ち、時分の花は消えてゆく。時分の花に執着すること、それはまことの花を見失うことでしかない。そんなこと、とうに解ってはいた。それでも、彼は失われゆく時分の花に、執着することを止められずにいる。鯉のぼりが大空に泳ぐことは、失われゆくことの象徴でしかない。

 それがない東京の五月の空は、寂しくて、同時に幸福でもある。柾木は明日晴れたらきっと、少年と鯉のぼりを見に行こうと思った。(了)

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