第44夜 5・3 東京遁走曲
5・3 東京遁走曲
昨日も書けなかった。旅行から帰ってきて、また東京のうらぶれた夜に、押しつぶされて、書けなかった。
一日休んで、今日は風だ。風が、音を立てて吹いている。六階のベランダに、風は吹き上げる。ともすれば、コルクボードごと飛ばされそうになる。それでも、ベランダで書くのは止めない。東京の風に、僕は負けない。この風に雨が混じれば、僕の領分だ。そしたらその時はきっと詩を書こう。
昼間、商店街を散歩していた。何もすることがなかったからだ。すると、道路で一本の鉛筆を拾った。鉛筆はちびていて、人に踏まれたのか傷だらけだった。
商店街の隅で拾った鉛筆は、どうしてそれが捨てられようか。
子供の頃、鉛筆のおしりを噛む癖があった。木の崩れる感触とにおいと、舌に感じる芯の苦さと。それはなめらかな冷たさを持っていて、鉛筆の「鉛」という名のもつ危うさに、少しのスリルを感じさせた。それで、噛むのを止められなかった。筆箱のなかの鉛筆はぜんぶ、おしりがガジガジに噛み潰されていた。拾った短い鉛筆には、ちょうどそんな傷が全身についていた。僕はそれをポケットに入れた。
商店街の隅っこで拾った鉛筆で、チラシの裏に書くのがいい。原稿用紙なんていけない。あんなもの、書く前からマス目に呑まれてしまう。タルホは、かつてそう書いた。彼は無一物の黴臭い部屋で、古いカーテンにくるまって書いた。極貧の何もない四畳半から、彼はどこにもない宇宙をつくった。それは、天族のコスモロジーだった。僕は、彼のようにはなれない。
僕は、原稿用紙に立ち向かう。拾った鉛筆は、飾ることにした。風が、ひどく荒れはじめた。雲はものすごい速さで北へ流れている。手の甲に、雨粒がひとつ落ちてきた。きっと、明日は詩の雨が降るだろう。(了)
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