第28夜 4・17 東京の速度

4・17 東京の速度


 真鍮のジッポーが復活した。Amazonというのは便利なもので、東京で唯一好きなのがこれだ。東京は、とかく速さの街だ。この街の速度は、僕には速すぎる。だが時にはそのおこぼれを、貰うこともある。

 速さ。東京を刻む速度は、アレグロ。熱情さえも押し流していく、無機質で圧倒的なアレグロ。圧倒的でも、偉大さはない。無数の靴音の鳴らす変拍子。一小節に押し込められた、怖ろしい数の無限連符。その中に僕の求める足音は、いくつある。少年のたどたどしく、寂しい足音。速く、だが情感豊かに、繊細に。Allegro ma Espressivo e Delicato。かき消されたただひとつのその音を、探すことだけが救いだ。それが僕の東京の救済だ。

 アレグロに支配された街でも、遠くから眺める時だけは静かだ。夜は東京にも訪れて、ベランダに立つかぎり夜は静かだ。住宅街に人の影はなく、新宿の赤い灯はゆったりと燃えている。それと同じ色で燃えている煙草の火は、それよりも遅く、ゆっくりと燃え尽きる。煙を昇らせながら、灰になっていく。ラルゴより遅く、ゆったりと、感傷的に。この東京の速度のなかに、緩徐楽章の小節を区切ること。そこに六〇〇字の音符を刻むこと。小節のなかから、街を眺めること。それをひとつの休符に、書いてみること。それがこの街に不適合な僕の、見つけた東京での生き方だ。

 この夜の静けさのなかに、目の前の住宅街のなかに、無数の人間が蠢いていること。あの新宿の明かりのなかに、無限の足音が隠されていること。それを想像しては、いけない。たとえ、思い起こされてしまうとしても。ラルゴ、LARGO ET DELICATO。

 見ようとしないことも、何かの見方だ。(了)

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