第10夜 3・30 文学というラベル
3・30 文学というラベル
十日目。今日はベランダにこぎつけた。時間も十一時をまわったところ。今日は、何を書こうか。今日は、一日何もしない。だから書くことがない。こんな時、嘘のひとつでも書ければいいのだが。今日の三枚は、長くなりそうだ。
私小説、とは何なのだろう。純文学気取りでこれを書き出した。だが、純文学なんて、わからない。私小説を、読んだこともない。じゃあ、いま書いているこれは何だ。小説。エッセイ。はたまた、日記か。おれはいったい、何を書いている。
どうやら、これを読む人がいるらしい。文学、という名をつければ、駄文も文学か。文学ならば、罪はないのか。美術館の壁にあるコンセント。僕は、あれは美術だと思う。
雑貨を展示する美術館があるそうだ。コンビニの陳列棚を、そのまま展示する。コンビニにおいてあれば、商品。場所が美術館なら、作品。それを手にとることは、できない。純文学を、気取れば文学か。ならば文学は、書かれた文章の中にはない。文学は、それを分類するラベルにある。それが展示される場にある。名付けによって、変容される現実。文脈を置きなおす力こそ、文学か。
高村光太郎は福島の詩人だ。「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」福島第一原発の、爆発。太田隆夫という現代詩人は、書いた。「高村智恵子が『阿多多羅山の上にある空がほんとの空』と言ったが/いま こんなにも広く猪苗代湖を抱える朗らかな土地は/無色無臭な放射性物質のため 私たちの呼吸まで汚されている」。
文脈が変われば、詩の意味は変わるか。
文学は、所詮一枚のラベルに過ぎないのか。この文章の、分類は、純文学。そうラベルを貼ったから、これは文学。剥がれかけのラベルに、すがるしかない。(了)
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