阿倍野リンが隠していたこと――白雪姫編(完)
――結局。
阿倍野さんは天道院さんが言うように嘘吐きだったということです。六カ月前、スートーカーに腹部を刺されてしまったせいで、その時に刻まれてしまった傷のせいで、阿倍野さんは父親からの愛情を失い、その愛情が妹のランさんへ向ってしまったことに嫉妬して、ランさんを手にかけてしまったと言っていましたが、件のターニングポイントはそこではなく、もっと前だったのでした。
「わたしには――子供がいたわ」
意識を取り戻し、服を身にまとった阿倍野さんはそう言いました。その手はお腹の辺りを抑えています。
「そして、その子を殺したの」
ストーカー事件から遡ること三カ月。阿倍野さんは理不尽な暴力に遭ったそうです。学校からの帰宅途中、阿倍野さんの前に三人の男が現れ、こう告げました。妹を返してほしければ一緒に来てほしい、と。男たちはケータイを見せました。そのディスプレイには妹のランさんが映っていました。ランさんの表情に笑みはなく、どこかの部屋らしい場所で、一人、椅子に座らされていたそうです。その写真を見せられた阿倍野さんは男たちの指示に従ってとある部屋へ行きました。そこで理不尽な暴力に遭ったのです。
「ランはいなかったわ。もともと、いなかったのよ。ケータイの写真は顔の部分だけをランに加工しただけだったの。わたしとしたことが――迂闊だったわ」
男たちの狙いは元々、阿倍野さんだけでした。阿倍野さんを密室に連れ込むためにランさんを使ったのです。
「三浦崎さん。あなた、わたしにモテるのがいいとは限らないって言ったけれど、たしかにその通りなのよ」
わたしは何も言えませんでした。笑ったりもできません。世の中に綺麗な人はたくさんいます。でも、その性質の弊害を本当の意味で理解している人はどれくらいいるのでしょうか。本来ならば、美の弊害なんてものはほとんどないのでしょう。見た目が綺麗というだけで人生イージーモードなんて言う人もいます。美しい人の多くが、その美しさ故に不幸になるなんてことは、あまりないのです。はっきりとしたことはわかりませんが、おそらく世界には悪い人ばかりがいるわけではない、ということが原因なのではないでしょうか。しかし、逆に考えればそのことが原因であるのかもしれません。世界には悪い人ばかりがいるわけではない。それは世界には悪い人がいると認めていることなのですから。
そんな不幸に見舞われてからしばらくして、阿倍野さんは身体の異変に気が付きました。そして、その異変を取り除いたのです。
これこそがターニングポイント。
「呪いの説明の時に話したけどね、呪いには共感が関係している。白雪姫の物語は、母親が子供を殺す物語だ。だからね、わたしはおかしいと思ったんだよ。妹を殺したことが原因だとやたら主張するアベリンちゃんの言動がね。アベリンちゃん。きみが殺したのは自分の子供だ。そして――」
天道院さんはじっと阿倍野さんを見据えます。
「アベリンちゃんを呪った相手、それはアベリンちゃん、きみ自身なんだよ」
阿倍野さんはしばらく黙って目を閉じていましたが、やがてゆっくりと目を開くと、こう呟きました。
「……そうですね。そうかもしれません」
おそらく阿倍野さん自身、自分が自分を呪っていたとは思っていなかったのでしょう。自分で自分を呪う。それは無意識的に行われていたことだったのです。
「白雪姫の物語をこう解釈する人がいる」
天道院さんは言います。
「お妃はたしかに本気で白雪姫を殺そうとした。だけど、それが失敗に終わったと知ったとき、激しい後悔に襲われた。それ故に、変装をしてまで小人と暮らしている娘に会いに行き、胸紐やら櫛やらリンゴなんかをお土産として持って行ったってね。つまり、娘を楽しませるために、娘が興味を持ちそうなものを持って行ったということなんだ。最終的に、白雪姫はリンゴをのどに詰まらせて仮死状態になってしまうわけだけど、それは白雪姫が勝手にリンゴをのどに詰まらせただけで、母親であるお妃がやったわけじゃない。白雪姫が食べ物をよく噛まないで飲み込んでしまう残念な子だったと言うだけなんだ」
天道院さんの考えはわかります。けど、その考えが正しいとしたら、阿倍野さんは理不尽な暴力を振るってきた相手の子供を愛していたということになります。そのことに、素直に納得できない自分がいました。もしかしたら妊娠を経験したことのないわたしのような人間には理解できない気持ち――母性だとでも言うのでしょうか。子供に罪はない。そのことは理解できますし、実際、その言葉は正しいのでしょう。子供は親を選べません。父親が酷い人間だとしても、母親が望まない受胎だったとしても、子供には関係がありません。わかります。そんなことはわかっています。でも、だからと言って、その罪のない子供を殺してしまったことで、罪の意識はあったとしても、その意識の強さが自分を呪ってしまうほどのものになるとは思えないのです。そんな気持ちが表情に出ていたからでしょうか。天道院さんはわたしに向かって口を開きました。
「一つ忘れていないかい、サクヤ。アベリンちゃんは愛する人、つまり自分の父親と、ね」
「あ――」
わたしの中で何かが弾ける感触がありました。そうか、なるほど。阿倍野さんはこう思ったのでしょう。もしかしたら、自分が殺した子供の父親は自分が愛する人だったのかもしれない、と。
だとしたら。
だったとしたら。
胸の奥の方から熱いものがこみ上げて来て、喉元まで上昇し、わたしの言葉を詰まらせます。目蓋の奥からも同じようなものが湧き上がってきました。その熱いものの正体がわたしにはかわりません。大雑把に、便宜的に、感情、とでも呼べばいいのでしょうか。他に言葉が思いつきません。感情は血液のように全身へと広がっていき、指先の自由さえ奪いました。硬直する身体の中、心臓だけが鼓動を続けていました。わたしの身体の中には立派な心臓なんて存在しないはずなのに。
「アベリンちゃん。これはわたしの想像なんだけど、きみが父親からの愛を失ったのは、ストーカー事件よりも前、つまり理不尽な暴力を与えられたことか、その時に生まれてしまったものを消去した時なんじゃないかい?」
そうです、と呟いてから阿倍野さんは言います。
「でも、正確に言えば、わたしは父からの愛情を失ったわけではありません。愛情はありました。ただ、その性質が変わってしまっただけで」
「そうかい。で、元々アベリンちゃんに向けられていた、アベリンちゃんが求めていた愛情は、妹ちゃんへ向けられたってわけか」
「はい。そのせいで――妹は壊れてしまいました」
「壊れた?」
「妹はとても優しい子なんです。だから、父を遠ざけることができなかったし、わたしに対しても罪の意識を持ってしまいました。だから――」
「ハルシオンを大量に飲んでしまった」
「はい」
「なるほど、ね」
そう言った天道院さんは、わたしに目を向けます。
「ハルシオン百錠なんて、他人が飲ませられるものじゃない。ちょっと考えればわかることでしょ」
つまり。
騙されていたのは、わたしだけ。
「じゃ、じゃあ」
わたしの声は微かに震えていました。
「阿倍野さんは、妹のランさんを殺したわけじゃないってこと? 自殺だったってことなの?」
阿倍野さんは首を振ります。
「いいえ。わたしが殺したのよ。たとえ、世界中の人がそうは思わなくても」
わたしには何も言えませんでした。あなたのせいじゃない。そんな言葉を吐いたところで、誰の得にもならないことがわかっていたからです。上辺だけではなく、本心で心の底から思っている言葉であっても、それが絶対に相手の心に響かない状況というものは存在するのだとわたしは思います。
「わたしは罰を受けたわ。でも、それだけじゃ足りなかったみたいね」
そう思っていたのは、そう感じていたのは、世界中の中で阿倍野さんたった一人だったのかもしれません。しかし、そのたった一人が阿倍野さんを許せなかったせいで、阿倍野さんは白雪姫の呪いを受けてしまったのです。評価をするのは他人である、なんてことを聞いたことがあるのですが、それは間違ってはいないのですが、完全に正しいと言うわけでもないようです。
「アベリンちゃん。きみは他人に興味がない、みたいなことを言っていたけれど、実際にはそうじゃない。興味がありすぎるんだ。いや、『好き』、だと言い換えた方がいいかな。きみは他人、というか人間が好きすぎて、好きだからこそ、その醜さが許せず、人を遠ざけてしまう。それは自分に対しても例外じゃない。自分の中にある醜い部分を許せず、もとい許すことができず、その結果として自分に呪いをかけてしまったんだ」
期待するから裏切られる。
希望があるから絶望する。
だったら。
期待をやめればいい。
希望を捨てればいい。
「三浦崎さん」
阿倍野さんがわたしに声をかけてきます。
その声音は、わたしと目が合った時の表情は、今まで阿倍野さんがわたしに向けてきたもののなかで、最も優しく、美しいものでした。
「どうしてあなたは泣いてるの?」
☆ ☆ ☆
数日後。
よく晴れ渡った学校の中庭のベンチ座っていると、一人の女の子が近づいてきました。
井浦ナツ。通称——なっちゃん。
彼女はわたしの隣に腰をおろすと、開口一番、こんなことを言ってきました。その言葉を聞いて、やっぱり阿倍野さんは嘘吐きだったんだな、とわたしは再認識したのでした。
「サクヤ。そう言えば、黒い方、学校に来たよ」
ゴドキラサクヤ―Sは神殺し― 未知比呂 @michihiro
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