第6話 翌年の春
三月、桜は咲き、私はとおくに行けることになった。奇跡的に合格通知を受け取った私は、周囲に「本当に運が良かったねえ」と感心された。なけなしの集中力をはたいて努力もしたのだけれど、我ながら多分に運の強さが働いた結果であると思う。失恋パワーだな、と言う篠田を、髪の毛を毟る程度で許せるくらいに私は立ち直っていた。
篠田も着実な努力の積み重ねにより夢の実現へコマを進めた。私たちはお互い情報交換しながら新生活の準備をした。とおくへ自分の慣れ親しんだものの一部を連れて行けることは、正直ありがたかった。しかし、卒業式の後、教室で友だちと泣いたり笑ったりして別れを惜しんでいる中、篠田が改まった様子で私に近寄ってきて、これからもよろしく、となみだ目で握手を求めたりしたのには、さすがに不気味になって卒業証書の筒で頭をぽかりと殴ったけれども。
父も兄も、合格を喜んでくれた。父はあからさまに、さみしいなあさみしいなあと、夕飯で家族が揃うたびに連呼するので辟易したけれど。素直に寂しいと言う人はうさぎさんではないので、大丈夫だと思う。兄はお祝いに値の張る時計をプレゼントしてくれた。生まれて初めて兄を兄だと思った。
母は、少し私に親しくなった気がする。一つの縄張りに二匹の雌がいるというぎこちなさに私たちは疲れていたので、お互い胸のうちでホッとしていた。とおくに暮らせば、母ともいつか、素直に話をしたりできるようになる気がしている。
このように、私の日常は加速度的に回転を始めた。ひとの日常に巻きこまれ、もつれていた時間が、どんどんほどけて手もとに戻ってくるようだった。ただ私は、巻き込まれもつれていた日々が続くことを、本当は望んでいたのではあるが。
引越しの前の日、私はこわごわ、シナ子さんの庭を訪れた。訪れたといっても、シナ子さんの生活から退場してしまった私は離れたところからのぞきこむことしか出来なかったし、またそれ以上どうしたいと言うこともなかった。
彼女は縁側に腰かけて、日向ぼっこをしていた。髪が少し伸びていた。もうだいぶお腹の子もおおきくなっている。そろそろ臨月だろうか。もう、生まれてくる赤ん坊は立石サンの顔をしていなかった。きっと、かわいい子が生まれるだろう。
優しい顔つきでお腹を撫でながら、シナ子さんは歌を歌っていた。子どもに、聞かせているのだろう。よく歌っていた怪しい英語をもう一度だけ聞きたくて、耳をすました。
ねんねんよー、にゃんころりー、めをさましたらーたべちゃうぞー
ねんねんよー、にゃんころりー、めをさましたらーたべちゃうぞー
聞こえてきたのは予想外の幼稚なメロディーで、私はいつかの冬の日のようにのどもとをふさがれた。
私がシナ子さんの家に通っていた頃、二人が会うのはたいてい放課後だった。
夕方、私たちは子どもの遊びのようにむつみあった。私がシナ子さんの肌を思い起こす時、それはいつもオレンジ色をしている。
私は水晶の洞窟を探検するように、日に日にシナ子さんの体を知っていった。くすぐりあって笑いころげたり、汗ではりつく髪を丁寧に指ですいたりする、穏やかな戯れだった。ため息をつくようにこぼれでた彼女のあえかな声が、演技ではなかったと私は思いたい。
向かい合ってシナ子さんをひざに乗せ、ぴたりと胸をひっつけあっているのが好きだった。そうして背中を撫でると、シナ子さんはよろこんだ。
遊びつかれて、シナ子さんが目をこすりはじめると、私は自作の子守唄を歌ってあげた。自作といっても、小さい頃気に入っていた絵本のぱくりなのだが。野良猫が迷子のひよこになつかれる話で、猫はひよこを食べてしまう気でいるのに、ひよこは猫の背中ですっかり安心して眠ってしまうのだ。その時猫が歌う歌がいたく気に入り、私は勝手に節をつけ、よく幼稚園で歌っていた。
シナ子さんは聞いているのかいないのか、私のおしりを枕にうつらうつらしていた。このまま二人で眠ってしまうことは出来ないのだけれど、私は身じろぎもせず、単調なフレーズをいくどもいくども、繰り返し歌い聞かせた。
ねんねんよー、にゃんころりー、めをさましたらーたべちゃうぞー
春の庭は、淡い緑にあふれていてあたたかそうだった。
じゅうぶんだ、と、私は思った。目がくらみそうなくらいだった。
風が吹いて、シナ子さんの明るい髪が揺れた。くしゅん、と、シナ子さんは小さくくしゃみをした。
寝床 K @m02253
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