第5話 今年の冬
シナ子さんの腹部は、日々ふくれていった。彼女自身もさらにふくよかさを増し、太っているとはいわないにしろ、前よりもだいぶ肉がついた。それと同時に、シナ子さんに染みついた翳りは、にこにこ笑っている時でさえ滲んでおり、もうとうていぬぐえそうになかった。
電話を受けた次の日、訪れると、シナ子さんは鍵もかけずにリビングのソファで膝を抱えてちぢこまっていた。妊娠したって、ほんと?と私が尋ねると、青白い顔で頷いた。
「病院で調べたの?」
「昨日、行ってきた」
「……どうして、」
尋ねかけ、言葉が舌に絡まった。シナ子さんはますます青ざめて、どんよりと押し黙っている。
夏の日、寝室に閉じこもって泣いていたシナ子さんが思い出された。それと同時に、その朝出くわした立石サンの、筋張って陰気な顔つきも思い出していた。それで不意に得心がいった。シナ子さんは夫に、無理矢理組み敷かれたに違いなかった。千花ちゃんだけ、と言うシナ子さんの言葉を、私は信じていたのである。
私は胸が潰れる思いがした。お門違いだと分かっていても、あの男、と、頭に血がざあっと昇った。
シナ子さんが急にがばっと立ち上がった。私の胸に縋りついて、しよう、あっちのベッドでしよう、と張りつめた声を出した。口の聞けなくなった私は言うことを聞いてあげるしかなかった。
シナ子さんは乱暴に私をベッドに押し倒した。私は身をこわばらせてされるがままになった。シーツから、知らない、男の人の匂いがたった。たぶん今、私たちはセックスをしている場合ではないのだ。少なくとも、私は彼女に応じるべきではないのだ。シナ子さんのにせものの性欲を、受け入れるべきじゃない。だってそれじゃ、みじめすぎる。
とにかく何か言わなければ、と焦る私の口を、シナ子さんが痛いくらい吸った。私の舌を飲み込んで、私が喋るのを拒むつもりなのだ。それなのにみじめな私は濡れてきた。シナ子さんは私のスカートをまくりあげ下着に手をかけた。彼女のお気に入りのチョコレート色のショーツ。いやだよ、と私は何とか声を出した。でもシナ子さんはそれを無視してショーツを膝まで引きずりおろし、うそ、こんなに濡れてるじゃん、と言ってお尻の方からむちゃくちゃに舐め始めた。そんなAVまがいのシチュエーションなんて演じられたくなかった。誰かが筋立てを作ったセックスをしている。セックスするためにせっくすをしている。私はそれでもまだ濡れた。ああ、今まで自分を甘やかしてきたつけが回ってきたのだ。
シナ子さんに股間をじゅるじゅる吸われながら、やめて欲しい、今自分ははっきりと悲しい、なんで立石サンと寝たの?あなたは子どもを産むの?あなたは今ほんとうは悲しいの?さみしいの?なんなの?と聞かなければならないことで頭が一杯なのに、口はあんあん喘ぐばかりだ。
人差し指で中を何度かかき回され、私はあっけなくいった。
シナ子さんはしばらく、私の太ももの間に顔を埋めたまま動かなかった。私も彼女の顔を見るのが恐ろしくて動けずにいた。やがて、シナ子さんの吐く息が熱くなるのが、内ももに感じられた。彼女の涙が私の体液にまじった。
私の言葉は完全に拒絶された。それを跳ねのける勇気のない私はもう、彼女の頭をひたすらやさしく撫でさすることしか出来なかった。
それから、ソファや絨毯の上で交わることはなくなり、私たちは寝室のベッドで寝た。私は前にも増して、シナ子さんに優しくしなければ、甘やかしてあげなければと自らを鼓舞した。それは彼女を癒しはしないけれど、何かの穴埋めにはなるのだから。シナ子さんは私が来ている間じゅう、私にはりつくようにして離れなかった。腹部は着実に成長し、シナ子さんは石のように重たく私にぶらさがった。それでも私は、彼女を毎日のように愛撫し、労わり、望まれることは全部した。聞きたいことや自分の気持ちは押し殺した。望まれることからはみ出す方法が分からなかった。
私たちはもう、身長がとんとんの体をぴたりとくっつけて抱き合うことは物理的に出来なかった。二人でいるのに、三人だった。まだ姿かたちを成していない相手であるのに、私はそれを扱いかねて、ほとほと困った。
私は毎度、シナ子さんに指を挿し入れるのがそら恐ろしかった。シナ子さんに絶対気取られぬように努めたけれども、手が震えるのはどうしようもなかった。ありえないこととは知りつつも、胎内の生命体にじかに触れてしまいそうで、あまつさえ、指に噛み付かれ食いちぎられるような気さえした。私の頭の中で、この闖入者は立石サンの顔をしていた。
それでも私が拙い技巧を尽くすのは、シナ子さんがかすれ声で、いれてと言うからだ。とにかく肌を合わせる以外、何をしていいか、自分が何をしたいか、分からない。
シナ子さんはだんだん、あの夏の日のように私の名を呼ばなくなり、目はぼんやりと焦点が合わないようになっていった。砂を噛むような思いがした。腹の中の立石サンに、せせら笑いをされている気がした。
今年は暖冬で、私は十二月になってもマフラーを巻かなかった。むきだしの細い首を見て、痩せたんじゃない?と篠田が言った。そうかな、と、私は今日受けた模試の問題を眺めながら適当に答えた。放課後の教室で、篠田に誘われ居残って答え合わせをしていた。毎日シナ子さんのところへ直行しているので、このところ篠田の家に行っていない。篠田と二人でいるのも久々だった。
「シナ子さん、元気?」
「…まあ」
「うまくいってんの?」
「…なんでそんなこと聞くの?」
「最近お前、全然シナ子さんの話しないじゃん」
「そうだっけ」
ぼんやりを装いながら、私は身をこわばらせた。
「元気ないし、ぼーっとしてるし」
「ぼーっとしてるのはもともとだよ」
「でもなんか、おかしいよ。だいじょうぶ?」
「何がよ」
「何がって、なんか、全部」
私の前に座っていた篠田はこちらにぐるりと体を向け、じっと私の顔をのぞきこんでいる。集中しているときの顔だった。何もかも見通されそうで、私はうつむいた。
「まあ色々悩みも多いだろうなあ。シナ子さん人妻だし、このまま地元に進学したって、結婚とかできるわけじゃないし」
「なんでそういう話になんの」
「お前の悩みそうなことと言ったら、今それくらいじゃん。だって本気で好きなんだろ?だったら、そういうのって、考えない?」
考えてなかった。先のことなんて、本当はなんにも考えていなかった。楽しいこととか、うれしいこととか、そのほかのことを考えないようにしていたのだ。考えないようにしていたことが吹き溜まって、出口を探しているのを、無理矢理押し込めているのだ。
いつもなら、例のように発作的にいじけた気持ちで、ほっとけよ、と言うのに、今日の私はただ黙るばかりだった。上手く言えないのだ。自分のマイナスの感情を、私は上手くさらすことが出来ない。たまに狂気じみてねじくれてしまうのだって、きっと負の感情ののさらし方が分からないからなのだ。そしてそれは、相手に対して考えなしに怒り狂ったり泣き叫んだりして暴発するのと同じくらい、幼い。
私はこわごわ顔を上げた。篠田の真剣な、全力の心配顔。そんな表情を気負いなく私に見せられる彼が、とても大人に見える。
「とにかく、元気出せ。チョコ食え」
篠田はがさがさと鞄をあさって、齧りかけの板チョコを私によこした。黙ってそれを受け取り、ぽりぽり食べながら、鬱憤を篠田にぶちまけたい気持ちに駆られた。でも生真面目に私を凝視する篠田を見ているうちに、それも違うな、と思った。私がまず言葉を発さなければならない相手は、彼ではないのだ。
「ありがと」
四分の一ほどになったチョコレートを篠田に返して、私は立ち上がった。
「帰る?」
「うん」
鞄に荷物を詰めながら窓の外を見た。校舎を囲む桜の木が、葉を一枚も残していない裸の枝を伸ばしている。その鋭さが痛かった。私は篠田にさよならを言って、シナ子さんの家に向かった。
チャイムを鳴らすと、いつものようにシナ子さんが作り笑いで私を招き入れた。寒かったでしょう、と聞きながら私の手を取る彼女の手も冷たかった。部屋は寒く、ストーブさえついていない。早くあっためて、と、彼女は私を引っぱった。私はぎゅっと体に力を入れた。
確かに痩せた、と、いつものようにシナ子さんと立石サンの寝室で、そのベッドで、シナ子さんにショーツを剥がされながら思った。もとから細めだった私の足は、今では棒のようにみっともなく痩せこけている。
シナ子さんはもくもくと服を脱ぎ、私を押し倒した。私も口をきかず、されるがままに横たわった。シナ子さんの指が唇を割って入ってくる。唾液が溢れるのは、悲しい条件反射だった。下を向くと、シナ子さんが無心に、ひたすら無心に私の乳首を吸っているのが見えた。顔は、見えない。
もうこのごろでは、シナ子さんにどうされても、やってくる快楽は激しさを持たなかった。体を突き抜けると言うよりはむしろ、その奥底に漠然と広がっていった。火が燃えるようであるならばいずれ鎮まる。しかし体の行き着く感覚は、果てしない波が静かに打ち寄せるようなのだ。もはや性欲ではなかった。
シナ子さんはもう、私じゃなくてもいいのかもしれない。そう思い、絶望で指先が冷えに冷えた。私の指を口にくわえながら、シナ子さんはそのことに気がつかない。彼女の頭が私の体を下り、股の間に行き着く。シナ子さんは私の足首をつかみ、自分の太ももの間に挟んだ。でも、たとえ相手が誰でも良かったとしても。私の足の指はシナ子さんに動かされ、彼女の襞をなぞった。今の彼女には私の他に相手はないわけで。シナ子さんのそこは蛇口をひねったように濡れているが、やはり、彼女の顔は見えない。ならばそれは、私でなくてはならない、のと結局同じことなわけで。自分に言い聞かせながらも、思わず涙がこぼれた。シナ子さんは私のクリトリスを舌で丁寧になぶっていたが、やはりそのことに気がつかない。
「ねえ、」
私は声をしぼる。
「ねえ、」
シナ子さんは答えない。ほとんど必死に、私を舐める。
「ねえ!」
私は力任せに彼女の頭を引きはがした。汗で張りついた長い髪の間で、シナ子さんの目が黒々としている。
「やなの」
私はしゃくりあげながら言った。
「シナ子さんが、どう悲しいとか、寂しいとか、怖いとか、わからなくて、なんにも話してくれないし、私もちゃんと聞けなくて、ごめん、だけど、だってそれじゃあ、」
上手く言えない。泣いている場合じゃないのに、息がつげない。
シナ子さんは私の足もとで、唇を噛みしめ、でも眉を歪めることなく目を閉じた。化粧ははげ落ち髪はぼさぼさで、ひどい格好なのに、それでも私には、やっぱりどうしても美しかった。
「好きなの」
私は全霊を込めて、小さく言った。
シナ子さんは沈黙を守って、微動だにしなかった。
私は洟を啜り上げながら、下着を拾い、服を着た。シナ子さんは貝の様に、静かなままだ。何もかもを停止して、気持ちを垣間見させてもくれなかった。
失恋って、これか。
私は彼女を残して、部屋を出た。外は今更ながら寒すぎて、ボタンを掛け間違えたシャツから、容赦なく風が吹きこんだ。
その日を境に、私はシナ子さんの家に行くのをやめた。
もう十二月に入っているというのに、私は再び第一志望校を元の大学に戻した。最後に受けた模試で、判定はDだった。担任の教師は、第二希望が確実に安全圏だったので好きにしろと言い、父親だけは弱々しく反対したが、最後には諦めて、許可をくれた。篠田は、訳わかんねえ、と言いながらも、分からないところなどは復習も兼ねて教えてくれたりした。シナ子さんのことは、もう一切話さなかった。というか、話すことが何もなかった。
私は逃避するように勉強に集中した。日本の教育体制に心から感謝した。余計なことを考えないですむよう、ひたすら知識を詰め込んだ。手段が目的になり代わっていたが、それも結構なことである。
とおくの大学へ行く、と言うことだけが、目下のところ私の曇りない目標だった。とおくの大学に行く。一昔前ならば、押しも押されぬ才能や、特別な野心とか、のっぴきならない事情でもなければ、とおくへ行けはしなかっただろう。とおくへ行き、古巣を捨て、新しい城を築くということ。それに対する時代の気軽さも好都合だった。
もともと、家を出ようとは思っていた。初心にかえっただけだということにしよう。
学校でも家でも図書館でも、私は机に齧りついた。生まれ育ったこの町から離れることだけが、今の私にとっては、ひとすじの光明のように思われた。
年の瀬も迫り、冷え込みもいよいよ厳しい冬の晩だった。私は例によって机に向かい、英語の長文にあたっていた。問題用紙を引きちぎって食べてしまう勢いで、読んでいた。眠くなるので暖房はつけない。木製の学習机は冷たく、椅子の上に行儀悪くあぐらをかき、ひざ掛けの上から太ももをさすった。
目が疲れたら三十秒だけ窓の外を見た。遠くに街灯がぽつりぽつりと見えるだけで、家の周りを囲む田畑は真っ黒だった。
黒い硝子に、私の顔が映っている。目の下に隈がくっきりできていた。髪は粗雑に束ねられ、おくれ毛がそそけ立っている。たいそうぶすである。こんな格好、見られたら死にたくなるだろうな。家でジャージ着てるなんて、間違ったって言えない。
……誰に?
いらないことを思い出しそうになった。私は素早く、問題用紙にびっしりと羅列されたアルファベットの中に逃げ戻った。
その時、携帯電話が鳴った。静かな中で一日過ごしていたので、びくっとした。やたら神経に障る。放っておいても鳴り止む様子がなく、仕方なしに手にとって画面を見ると、ここ数週間ふたをして閉じ込めていた名前が表示されていた。
私の手は瞬時に冷たい汗をかいた。
取るか取るまいか、長いこと逡巡した。それでも電話は鳴り止まず、私は意を決して通話ボタンを押した。
「今、そこに姿子がいませんか」
出し抜けに、切羽詰った声で電話の相手が尋ねた。男の、低い、けれども金属質な、初めて聞く声だった。しかし誰であるかはすぐに分かった。私は石になった。
「もう十時を回ったのに、帰らないんです。あんた、なんか知りませんか」
私はやっとのことで、知りません、いません、と答えた。
「心当たりもないですか」
……ないです。
「そうですか」
チッ、という舌打ちを残して、立石サンは電話を切った。私の体はがくがく震えだした。
なぜ彼は私に電話を寄こしたのだろう。私のことを、彼は知っているのか。だとしたら、どこまで。いや、それより彼女は。一体、彼らに何が起きたのか。
いなくなった?彼女が?
私はほぼ無意識の内に、コートを着こんで外へ飛び出していた。捜さなくては。携帯も持たずにどこへ行ってしまったのだろう。最悪の事態が頭をよぎった。
私に思いつくのは、ただ一度、二人ででかけたデートの場所だけだった。動揺していた私は、立石サンにその場所を伝えるべきかどうか判断をつけられなかった。目的の場所は遠かった。私は自転車で駅まで走り、急行の電車に飛び乗った。
電車の中は暖かかった。空いていたので楽に座れた。座席の下の暖房に足を交互にひっつけながら、私は少しずつ落ち着いてきた。すると、自分がまったく見当違いのことをしているように思えてきた。シナ子さんは本当にあそこへ行ったのだろうか。どうも違うのではないか。疑わしい気持ちが次第に膨らんでいく。そしてはたと思い出した。あの公園の閉園時間は、確か午後六時だった。
私は電車を一度降り、逆方向の電車で引き返した。
いまだに自分が彼女に必要な存在なのだと、己惚れていたことが恥ずかしく、直接何をされた訳でもないのに、一人でうちひしがれた。
しかし、だとしたら本当にどこへ行ってしまったのだろう。
ドアの近くに立って、窓に額をこすりつけながら考えた。そして、シナ子さんが以前話ていした、散歩の義務のことを思い出した。
結婚したての頃、日曜日には二人で散歩するのが決まりだったの、とシナ子さんは言った。目的もなく外に出たがって、私がついてこないと怒るから、嫌々だったけど。海まで車で行ってね、黙って浜をえんえん歩くの。あんな気まずいことってなかった。
おかげで今では外出そのものが嫌いになっちゃった。肩をすくめて苦く笑っていた。
今度こそ間違いなかった。もと来た駅に戻ると、私は再び自転車に乗って、海へ向かった。
真冬の夜の海は、まったくひとけがなかった。暗く、寒く、砂浜に靴が沈み、まっすぐ歩けない。ひゅううごおお、ひゅううごおお、と、刺すように冷たい風が吹きすさび、私は亀のように首をすくめ、浜辺を見渡した。
シナ子さんはいた。明りの消えた露店のおんぼろのベンチに横たわり、眠っていた。そしてその隣に、立石サンも座っていた。私より先に、自分たちのつまらない過去を思い出したらしかった。
背の高い外灯が二人をうすぼんやりと照らしていた。立石サンは間をあけて座っていたが、やがておもむろに手をのばすと、シナ子さんのぽっこりとふくれた腹を、いとしげに撫でた。
彼は、シナ子さんの腹の中身をすでに愛しているのだろう、と私は思った。しかし彼が、その中身を宿しているシナ子さんを愛しているかは、分からない、とも思った。彼の手が撫でているのは彼女の腹だが、その愛撫は彼女の肉体ではなくその胎内にのみ向けられているのかもしれなかった。
ああ、そうでないといい。蚊帳の外にいる私が、なぜだか泣いた。
シナ子さんの顔は、ここからはよく見えない。しかしその眠る姿が、数年前の冬の日の母とだぶった。
私が小学生の頃である。夜中、ふと目を覚ますと隣で母が寝ていた。私に布団を奪われて、ベッドの上でがたがた震えながら眠っていた。あの日、私は寝ぼけて、間違って両親の寝室で寝ていたのだった。私は驚いて、手をのばして母の肩を揺すった。さむい、さむい、と母はうわ言を呟いた。無性に母が可哀想になって、布団を丁寧に掛けなおして、私は母の手を握った。母は私の手を強く握り返し、指を絡ませた。その感触に、私は全身の毛穴がスンと開いた。ぎょっとした。その仕草は別なふるまいに続いているように思われたからである。今母の求めている温度は、娘のそれではないと、直感的に悟った。母の震えは止まった。
その時、私は母が雌であることをなまなましく思い知った。仕事が忙しく、父はほとんど家に帰らずに会社で寝泊りしていた時期だった。女である母。身体としての母。よろこぶ器官を持っている母。待っている母。ひとり寝の母。
私はベッドを抜け出し、逃げた。
あの時、母が欲したのと同じ類のものを、シナ子さんも欲していたのだ。初めて会った時、私はそれを察知した。甘やかでふわふわした、安楽な、すこやかで安心な、くらくあたたかな寝床のような。
かつえているのに与えてあげられない母の代わりに、私はシナ子さんと時を過ごしたのかも知れなかった。自分の高慢に、私は今さら恥じ入った。
しかしもう、私ははじき出されてしまった。外灯の落とす小さな明りの中に私の入っていく隙はなかった。それでも不思議と、私はそのことに満足を覚えた。
しあわせになればいいと思った。シナ子さんを匂い立たせるのは、女の持っている甘く染み溢れる液体のような感情であり、それにはそそぎこめる器が必須なのだ。なぜならそれはたれ流したそばから寂しさへと変質する性格のものだからである。それを、あまさずすすり上げるほど、愛セ。彼女の腹を撫でる男に、心中で高慢に命じた。
私はくるりと背を向け、今度こそきっぱり、彼女の日常から退場した
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