第4話 去年の冬

篠田は、篠田の今まで付き合ってきた中で一番可愛い女の子と、一番長いおつきあいをし、一番派手な破局を迎えた。つきあって四ヶ月めの、去年の師走である。


相手の子は同じ高校の後輩で、私も何度か見かけたことがあった。美人ではないが、肌がつるつるの可愛い子で、小さな鼻に星のように散ったそばかすが印象的だった。色素が薄く、栗色の髪に白い肌だった。うさぎっぽくて可愛いね、と私は篠田に感想を述べた。

「かまってやんないと、あいつ、うさぎさんは寂しいと死んじゃうんだって言って、怒んの」

篠田がそんなのろけ話をしたのを覚えている。何がうさぎさんだ、ばか、と、うさぎに似ていると言っておいてなんだが、私は呆れかえった。


人間はうさぎではない。確かに〝寂しいと死んじゃう〟かもしれないが、たいていはそうなる前に、かまってくれる別の相手を新たに見つけるものである。


その子もやはりうさぎさんではなく人間さんだったので、篠田がちょくちょく意識を宇宙の彼方にあくがらせている間に、別の男と懇ろになった。篠田は学校の渡り廊下でドラマのような愁嘆場を演じた末、ふられた。


結果、〝寂しくて死んじゃ〟いそうになったのは篠田の方だった。その年の冬はとくべつ寒かった。私は彼が死んじゃわないように、毎日彼の両親が帰宅するまで見張っていた。


篠田家の居間の灯油ストーブの前で、来る日も来る日も二人でごろごろしていた。篠田はしなびたなすびのように無気力に転がっており、私は篠田家所蔵のドカベン高校野球編を読破すべくページを繰っていた。篠田が、なんか面白い話して、と暗い声で邪魔をする時は、仕方がないのでシナ子さんの話をしてやった。


秋口に再会してから、私とシナ子さんは本格的に友だちになった。土曜日は毎週彼女の家に遊びに行き、シナ子さんの手料理をご馳走してもらったり、一緒にホラー映画を見たり、庭の手入れをしたりして過ごしていた。数年来の親友のように、私たちは気が合った。寝室に入らない限り、彼女の家は篠田家と並ぶくらい居心地がよいのだった。


篠田がふられて以来、シナ子さんの家には行っていなかった。篠田を一人にしておくのが忍びなかったからなのだが、そのせいでシナ子さんに会えない日々に、私は存外にストレスを溜めていた。篠田に対して口を開けば、シナ子さんのことしか話さないようになってきた。しまいにはもう、怒ったみたいな喋り方になった。


「そんなに会いたいんだったら、うちに来てないでその人んち行けばいいじゃんか」

篠田がそう言い出したのは、ふられた日から数えて三週間目のことだった。ストーブの周囲に私が積み上げたドカベンを自分も読みながら、いい加減お前の話飽きた、と、げんなりした様子だった。どうやら私がドカベンに手に汗握っている間に、篠田は再生したらしかった。


じゃあそうする、と私は言って、残りの巻をごっそり鞄に詰めてから、ちょっと、俺今それ読んでんだけど! という篠田の抗議の声を無視して家に帰った。


次の日は冬休み初日だった。土曜日ではないけれど、シナ子さんは家にいるだろうか。午前中のみの課外授業を終えると、昼食もとらずに私はシナ子さんの家に直行した。自転車で風を切りながら、自然とペダルを漕ぐ足に力が入った。動悸がして、それでもさらに速度を上げた。


私の住む町は日本のだいぶ南に位置しているとは言え、冬ともなればやはり冷え込み、その日などは10℃を下回っていた。それなのにシナ子さんの家のドアの前に立った私は、薄く汗さえかいていた。かじかむ指でチャイムを鳴らすと、シナ子さんが玄関に走り寄ってくる気配がし、ドアが勢いよく開いた。


あったかそうな白いぶかぶかのセーターを着たシナ子さんが立っていた。目をぱちぱちしばたかせて私を見た。来訪者が私であることを、何度も確認しているようだった。つややかな桃色の口もとが半開きになっている。微笑もうか怒ろうかちょっと泣こうか、どうとも決心のつかない不安定な顔だった。それこそうさぎさんである。

私は思わず、彼女を抱き寄せた。抱きしめてしばしして、あれ、と我に返り、腕をほどく方法に困っていると、シナ子さんが顔をあげて、ここは寒いから、中に入ろ、と私の手をひいた。


台所で、シナ子さんはお湯を沸かした。今あったかい飲み物淹れるから、リビングで待ってて、と言われ、私は、うん、と答えつつも彼女のそばを離れがたく、冷たい壁に寄りかかって、立ち働く彼女の背中を見ていた。やかんの口から湯気が立った。同時に、シナ子さんの甘い香水の匂いも鼻をかすめた。それとあと、塩素の匂い。

「シナ子さんちの台所って、中学校のプールの匂いがする」

「え、そう?なんでだろ」

「別にやなにおいじゃないけど、なんだろ、洗剤かな」

 シナ子さんはコーヒーを淹れる支度をしながら、少し考えて言った。

「ああ、キッチンハイターかな」

「塩素、入ってる?」

「うん、消毒用の。あたししょっちゅう使ってるから」

 潔癖症なの、私、とシナ子さんは付け加えた。

「懐かしい感じがする。うちの高校、プールないから」

私の通っていた中学校は屋上にプールがあった。屋根がなかったので、夏になると皆見事に日焼けした。シナ子さんの台所の匂いは、肌がひりひり痛み出す感覚を思い起こさせた。地上五階にあったというのにそのプールでは、たまにアメンボがついつい泳いでいたりした。


そういう話を、とりとめなくシナ子さんにした。彼女はいつのまにか手を止めてこっちを振り向き、私の目を見ていた。私もふと口をつぐみ、シナ子さんを見つめ返した。


唐突に、言い知れぬ懐かしさがこみあげてきてのどをふさいだ。いや、懐かしさに似ているけれど、それよりもっと熱を帯びた、まぶしいような、胸のうちが焦げつくような、甘い、酸い、なんだろう。私はその感情に名前をつけあぐねた。そのくせ、手はもう勝手に動いていた。指の腹がシナ子さんの頬に触った。彼女の手も私の方へのびた。近寄って、口をかさねる。かさねたあとで、あ、と思った。シナ子さんのうしろで、やかんがしゅんしゅん蒸気を噴いていた。


引き返すなら今かな、と頭の隅で思った。少しでも時間を逃がせば、なかったことになるだろう。それを分かる余裕はある。しかしすかさず、シナ子さんが私の口をもう一度ふさいだので、その余裕こそ、なかったことになった。




元旦に、篠田と初詣に行った。近所の小さな神社で、祝い酒が振る舞われていた。偶然ペアルックになったもこもこのダウンに、首が埋まりそうになりながら、二人して紙コップの燗酒を立ったまま舐めた。私は篠田に言った。

「やっぱり、どうも、恋だったみたい」

照れて足もとの砂利を蹴ったくる私に、今度は篠田が驚いて呆れかえる番だった。




帰宅すると、新年の挨拶に父の会社の人が十数人も訪ねて来ていた。広めとは言えリビングはすし詰めの状態だったので、私は早々に自室に引き上げようとしたが、兄がこっちへ来て挨拶をしろ、と声を尖らせたので仕方なく従った。


下座にちんまりと座って、おじさんたちの言葉に、はい、とか、ええ、とかの合いの手だけ入れて、ひたすら時間が過ぎるのを待った。彼らになついておしゃべりするには私は大きすぎ、一人前の大人として口をきくにはまだ若干幼かった。ぎこちない笑顔を作りながら、自分が自分で気持ち悪かった。ふと、酔っ払って気持ちよくしゃべくっている父の隣に、静かに座っている母が目に留まった。母は適当な笑顔を作り、人の言葉に頷いたり相づちを打ったりしていたが、自分からは口をきかなかった。自分が母と全く同じように振る舞っていることに気づき、寒くなった。もう部屋に引っ込んでもいいだろうと、勉強があるからと言って席を立った。


その時、目のはじに見覚えのある人物を捉えた。兄の隣にすわっている男で、年は兄と同じくらいだと思われたが、ずいぶんとくたびれて見えた。組んだ足を神経質に揺すりながら煙草をくわえ、兄の言葉に口もとを歪めて笑ったりしていた。眼鏡をしょっちゅう手の甲でずり上げている。痩せこけた猿のようだ、などと失礼千万な印象をもった直後、彼をどこで見かけたか思い出した。花火の夜に、シナ子さんが指差した男だった。再び私は血の気が引いた。あまり凝視していたものだから、向こうがこちらに気付いた。私はぎょっとした。立石サンは、軽く目で会釈して、また視線を外した。今度こそ、私は部屋に逃げ込んだ。

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