第3話 今年の秋
今年の秋口はとても冷えた。あんまり冷えたので私は風邪をひき、シナ子さんはまだ十月だと言うのにストーブを引っぱり出した。シナ子さんの家は今どきエアコンがないのだ。立石サンが気管支の弱い人で、冷房でも暖房でもあたっていると咳き込んですぐのどが痛くなるからだという。
土曜日が来るたび、私とシナ子さんは裸でぴったり抱き合って、ストーブのそばにころがっていた。なにしろ、寒かったので。
夏のあの日以来、シナ子さんは少し変わった。あれほど取り乱していたのは一日だけで、一見、シナ子さんはかわりなくふるまっていた。しかし時おり、白熱灯が幾度かぱちぱち瞬いて消えるように、くらい顔になった。明るいピンクの絵の具に黒が混ざって、色彩が濁ってゆく。それをまるきりぬぐいパレットを白に戻そうと、シナ子さんは私にキスを求めた。私は彼女の意のままに応じ、柔らかにくびれた腰に手をまわした。
しかし、リビングのソファに彼女を横たわらせる段になると、シナ子さんは身をこわばらせた。私たちはいつも、リビングの白い大きなソファをベッドの代わりにしていた。寝室を使うのをシナ子さんは嫌がり、私は立石サンに遠慮したためだ。かたくなったシナ子さんの体をほぐすために、私は時間をかけてあちこちを撫で、舐めた。ぼんやりして、どこか違うところに目をやっていることもしばしばで、私は自分の名前を呼ばせようと必死だった。
「私とするの、もう飽きた?」
限界になって、ある日私が尋ねたら、シナ子さんは怒ったような目になり、私に意識をぎゅっと戻して、言った。
「何で、そんなこと言うの」
「だって」
「千花ちゃんしかいない。千花ちゃんだけ」
千花ちゃんだけ、ほんとに千花ちゃんだけ、と繰り返しながら、シナ子さんはやっぱり怒った目をしていた。
結局、あの日どうしてこの人が泣いていたのか、私は聞けなかった。シナ子さんの思いつめた顔を見ていると、私はたまらなくなるのだけれど、何か言おうとすれば彼女は話を逸らすか、私の唇をふさぐかしてしまう。ごまかされ、私は悲しかった。悲しいし、胃の辺りがぎゅっと縮こまった。それは腹立ちでもあったのかもしれない。でも私はそれを、弱っている彼女に対して露わにすることが出来なかった。今まで二人の間で慎重に取り除かれていたマイナスの感情は、恋い慕うシナ子さんのものだからこそ私にはどぎつすぎる、と、見てもないのに怯えていたのだ。好きな人のストレートな感情は、今の私には影響が大きすぎる。しかもそれを相手が隠したという事実が、時を追うごとに不安を増幅した。中身の腐ったお弁当箱のように、時間が経てば経つほど、ふたを開くのが恐ろしくなった。仕方がない、と、私は彼女を甘やかすのと平行して、自分も甘やかした。
それでも、十月になりストーブが引っぱり出された頃には、シナ子さんがくらい顔をすることはほとんどなくなり、楽しい情事に二人とも集中した。ただ、すっかりあの日あった何事かがリセットされたわけもなく、シナ子さんは苦くてまずい何かを飲み下してしまったみたいに思えた。
シナ子さんの髪に指を絡ませて遊んでいたら、くしゃみが一つでた。
「服、着たら?風邪ひどくなっちゃうよ」
「うーん」
「受験生でしょ」
「うん」
うんうんと頷きつつも、あまり気が進まず、シナ子さんを抱きおこしてうしろ向きに膝に乗せた。彼女の腹の上で手を組んで、ゆりかごのつもりでゆらゆら揺れた。
「人間椅子」
「意味が違うよ」
シナ子さんは笑いながら私の手の上に自分の手を重ねた。私はまたくしゃみが出た。
「ほら、また」
「うー、うん」
シナ子さんはふりむいて、私にキスをはじめた。五分くらいしていた。
「風邪がうつっちゃうね」
私は急に申し訳なくなって体を離した。
「うつしてよ」
シナ子さんが真面目な顔で言った。
「どうして?」
尋ねると、シナ子さんはくるりとうしろを向いてしまった。風邪ひきたい、風邪ひいて、すごい高熱だして、死にそうんなって、でも死んだりはしないで、元気になるんだけど、で、そしたら、もしかしたら。私の指をいじくりながらそこまで呟いて、言葉を切った。
「そしたら、何?」
「んーん、ただ、あたしにうつしたら、千花ちゃん治るかなって」
「えー」
「だってほら、受験生だし。元気に勉強しないと」
「んー」
あー、でもあたしその受験生をたぶらかしてるんだった、ごめんなさい、とシナ子さんはも一度こちらに向きなおり、上目遣いに私を見た。
「やだなあ、何を今さら」
「今さらかあ」
「そうだよ、何言ってんの」
二人で笑った。シナ子さんはストーブの温度を上げた。黒いおんぼろのストーブはがあがあ音をたてて熱い吐息をさらに強くした。近くに置かれた幸福の木の葉がふるえている。シナ子さんにのっかられ、へその辺りを舌でくすぐられながら、こういう場合も、あたしの立場は若いツバメって呼ぶのかなあ、とやくたいもないことを考えた。
しかし、今さらとはいっても、私の日常は一応受験勉強が主軸である。受験をすることを選ばない人も世の中には多数いるのかもしれないが、私には敢えて受験をしない理由が見つからなかったし、将来の確固たる展望もなかった。
九月の模試を返され、第一志望校合格率C判定という私の結果を覗き込んだ篠田は、まずいんじゃないの、と眉をしかめて言った。私の第一志望校は、生まれ育った土地から海を隔て山を越えたところの、東京にある有名私大だった。
「うん、でも今、第二志望校を第一志望校に変えようかなあ、と思ってて」
私は模試の結果を細かく検分しながら言った。総合偏差値62、国語が68、英語が64、世界史が57。第二志望校である地元の大学はA判定である。
篠田は驚いた顔をした。この話をしたのは初めてだった。
「なんで、今頃変えるの」
「東京に行ったら、シナ子さんに会えない」
ばか!と篠田が大きな声を出した。
「そんなことで変えるのかよ!」
「そんなことって、何。大事じゃん」
「他人のために進路曲げんなよ」
「他人のためとかじゃないよ」
実際、恋人と遠く離れてまで実現したい目標とか、勉強したい事柄があるわけではなかった。というより、それなりにやりたいことはあるけれども、シナ子さんのほうが重要度で上回ったというだけの話なのだ。
「信じられねえ。幼稚すぎ」
軽蔑、と言って篠田は私の机を離れた。そりゃ、あんたにとってはそうだろうけど。私は抗議の言葉を飲み込んだ。篠田は本気で宇宙飛行士を目指す高校生男子である。彼の唯一の志望校は、東京の、鼻血が出そうに難しい理系の国立大学で、今のところ判定はBだ。そんな相手に理解を求めるのも無理と言うものだろう。
志望校を変えようという考えがだんだんはっきりしていくにつれ、私の勉強時間は若干減ってきた。学力の向上でなく維持が目標となり、根を詰めて勉強することもなくなった。最近はめっきり篠田の家にも行っていない。学校がひけるとシナ子さんのうちへ行き、日が暮れると帰宅し、勉強した。最近では、ほとんど毎日のように彼女に会っていた。それはそれで規則正しい生活で、私はとりたててまずいと焦ることもなかった。
ある日、二人でリビングで寝ころがってテレビを見ていたら、シナ子さんが急に、デートしよう、と言い出した。ちょうど山の紅葉を伝える番組をやっている時で、紅葉狩りがしたい、とシナ子さんは提案した。シナ子さんは普段あまり外出しない。私と遊んでいるだけのようで、実は家事全般を完璧にこなした上、中国語の翻訳アルバイトなどもしている、在宅ながら多忙な彼女だった。中国語を大学で専攻していたシナ子さんは、教授から下請けのような翻訳の仕事をうけており、それがいまだに続いているのだと言う。
「今度の土曜日が見ごろだって。天気も晴れだって」
シナ子さんが大きな目をぱちぱちさせながら言った。そういえば、二人で出掛けたことはなかった。私たちの予定がぴたりと合うことはなかなかなかったし、第一、人目を憚らず、二人きりでいられればそれでもうよかったからだ。しかし考えてみれば、家に二人こもりきりと言うのも不自然である。不健康である。それに、受験勉強にも息抜きが必要だし。
「じゃあ、行こっか」
私は言った。シナ子さんはやったーと万歳し、そのまま私に抱きついた。
土曜日は本当に良く晴れて、デート日和となった。玄関で私を待っていたシナ子さんは、ジーンズの上に淡い緑のシャツをボタンを多めに外して羽織っていた。私の方は膝丈のデニムのスカートとTシャツにパーカーというぱっとしない出で立ちだったのだけれど、シナ子さんは、なんか新鮮、と言って褒めてくれた。制服のブレザーでなくシナ子さんと会うのは、思えば去年の夏の花火大会以来だった。
シナ子さんの運転する小さいかわいい青い車に乗って、私たちはでかけた。
彼女の車に乗るのは初めてだった。ドアを閉めるなり、窓を開けて、とシナ子さんが言った。車には煙草の匂いがこもっていた。
「あの人が吸うの。気管支弱いとか言うくせに」
シナ子さんは淡々と、しかしガムをぺっと吐き出す調子で言った。私、煙草嫌いだから家では絶対吸わせないの。だから吸う時はあの人、家じゃなくて車の中で吸うの。
開けっ放しの灰皿入れは吸殻がはみ出しそうになっていた。シナ子さんは心底いやそうに、人差し指でぎゅうっとそれを押して閉めた。
シナ子さんがお気入りのCDをかけた。あやしい英語で不安定に、でもすこぶる機嫌よく歌っている。私はと言えば、地図帳をけんめいに睨みながら、極度の方向音痴であることが今日発覚したかわいい彼女をナビゲイションするのに必死だった。
目的地にはお昼ごろ着いた。地元に古くからある大きな神社で、公園や小さな遊園地なども併設されており、多くの人でにぎわっていた。適当にお参りをすまして、私たちはお守りを物色した。
「お姉さんが一つ、願掛けに買ってあげましょう」
とシナ子さんが言った。神社は学問の神様が祀られていることで有名だった。私は既に一つ父にそこのお守りを持たされていたけれど、シナ子さんの申し出を素直に喜んだ。
シナ子さんは薄桃色の可愛らしい学業お守りを買ってくれた。包んでもらわずに、そのまま私に手渡した。シナ子さんの整った爪も同じようにきれいな桃色にぬられていた。
「ありがとう。あたしもお礼に、一つあげる」
何がいい?と尋ねる。シナ子さんはえー、と言って、極彩色の色々なお守りの上に目をさまよわせた。しかし安産祈願のコーナーの前でふと足をとめ、突然顔がこわばらせ、いや、あたしはいいや、と言った。なんでなのか尋ねる前に私の手をぎゅっ握って、お腹がへったよ!と出店の並びのある方へひっぱった。
焼きそばとたこ焼きとじゃがバタとお茶と、名物である餡子の入った焼き餅を二つ買って、公園にある池のふちのベンチに腰かけた。おだやかな緑色に濁った池を囲み、紅葉が深く色づいていた。池には鯉か何かがいるようで、たまに黒い影がすいと浮き上がっては、浮き草を揺らして底のほうへ沈んでいった。
買い込んだものをぱくぱく食べながら、やっぱり花火大会のことを二人とも思い出していた。あの時も二人してさんざん食べて飲んだのだった。
「あの時、うれしかったな」
シナ子さんが池のほうに目をやりながら言った。
「何が?」
照れながら、私は尋ねた。
「私の名前の読み方、当てたでしょう?」
「うん」
「目があったときも、うれしかった」
「うん」
「でも帰るとき、また遊ぼうねって言おうと思ったのに、いなくなってて、悲しかったな
あ」
「あたしも捜したんだよ」
「また偶然会えて、よかった、ほんと」
「ね」
シナ子さんはうふふと柔和に微笑んで、足もとの小石を蹴って池にぽちゃんと落としたりしている。あんまり幸せそうで、でもそのぶん、悲しそうにも見えた。つよい風が吹いて、ざざざあっと頭上の枝葉が揺らいだ。紅葉の葉がいくらか散った。風は少し冷たく、冬が近いことを教えていた。私はシナ子さんの手に手を絡めた。彼女もぎゅっと握り返して、恋人つなぎ、と言って、にっこりした。
夕方、シナ子さんは私の家の前まで送ってくれた。マンションの駐車場で私は車を降り、体をかがめて、全開にした窓越しにシナ子さんと向かい合った。彼女の肩に、紅葉の葉が一枚くっついていた。私はそれを手をのばしてつまみ、そののばした手をシナ子さんが捕らえ、口づけた。私は人影のないのを確認して、さよならのキスをした。
紅葉はそのまま持ち帰って、英語の辞書に挟んだ。
夕食の時、私は家族に、やっぱり地元の大学に進もうかと思う、と話した。一番喜んだのは父で、本当はよそへやりたくなかったんだよ、と胸を撫で下ろしていた。まあ、そのほうが安心だよな、と、兄も言った。父が、お前もそう思うよな、と、母に聞くと、ええ、そうね、と母は答えた。きゅうりの漬物を齧りながら、でも本当のところはどうなのだろう、と、私は彼女の顔色を今さら窺っていた。
その二日後の月曜日、シナ子さんを放課後訪ねたが不在だった。残念だったけれど、まあそんな日もあるかな、と思っていたら、夜になって、珍しく携帯に彼女から電話があった。
「にんしんしてた」
くぐもった声で、シナ子さんは告げた。どうしよう、あたし、と言って、唐突に電話は切れた。
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