第2話 去年の夏と秋

シナ子さんに初めて会ったのは一年前の夏休みで、私は高校二年生だった。


とくべつ夏を謳歌したと言う記憶はない。私の通う高校は私立の進学校だったので毎日のように課外授業があり、一応難関有名私立大を志望していた私は毎日のように学校に通っていた。時々友達とカラオケに行ったり買い物に行ったりして、それなりに遊んだ気もする。


それから、週に三回のペースで、篠田と海に泳ぎに行った。学校は海のすぐそばにあった。炎天下、はしゃぐカップルの群れを尻目に私たちはひたすらに泳いだ。二人とも真っ黒に日焼けし、私の短い髪は日に褪せて金色に傷んだ。二時間くらい黙々と泳ぎ、お互いのフォームにダメ出しをし合ったのち、アイスを食べながら篠田の家に帰った。決まって私はガリガリ君で、篠田はパピコ。海に入った後、ろくすっぽ体を洗わず帰っていたし、海の近くは舌で味わえそうな潮風が吹いていたから、私の肌や髪や、ひび割れた唇や、乾いた舌先でなぶるアイスキャンディーまで、しおからい気がした。もっともそれは私だけで、隣で無心にちゅうちゅうとパピコを吸う篠田は違ったかもしれないが。


家ではだらだらとテレビゲームをした。色々やったけれど、対戦物がほとんどだった。篠田は夏休みが始まってすぐ彼女にふられ、私は付き合っていた受験生の先輩に放置されていて、どちらもくさくさしていた。今考えるとなんとも非生産的な夏休みだった。


その八月の最後の日に、花火大会があった。城跡のお濠のある公園で、二十号の打ち上げ花火やしだれ柳が盛大に上がり、毎年けっこうな人手を記録している。これを機に恋人と仲直りしようという私のもくろみは、きっぱりふられるという形で破れ、雨でも槍でも降って花火なんか中止になればいいと思っていた。その花火大会の二日前に、父が夕飯の席で私に尋ねた。

「明後日の夜、空いてるか?」

ドラえもんを見ながら威勢良くそうめんをすすっていた私は、急に気分を害された。

「暇だけど、別に」

「何、怒ってんの?」

「怒ってないけど、何」

「え、え、もしかして、篠田くんと別れたの?」

「ちがうよ、うるさいなあ」

我が家では、私は篠田とお付き合いをしていることになっている。篠田との関係を説明するのは面倒だし、私は誤解をそのままほったらかしにしていた。

「それで、明後日がなんなの」

私が不機嫌に尋ねると父もそれ以上突っ込むのをやめ、その日に会社の屋上で花火の鑑賞会があるんだけど、と説明し始めた。父の会社は公園の近くにあり、そのビルの屋上からは花火がよく見えるため、社員の交歓もかねて家族ぐるみの大掛かりな宴会が企画されているらしい。会社が今の建物に移ったのはその年の春で、初めての試みに社長でありながら幹事を買って出たと、父は張りきっている。

「でも、知らない人ばっかりでしょ?」

「いいじゃん、来いよ。社長の家族が来なかったら、面子が立たないだろ」

 父と同じ会社に勤めている兄も、トランクス一丁でそうめんを掬いながら言う。

「暇って言っただろ」

「でもなあ」

私が迷っているかたわらで、父が母に、お前も行かない?と尋ねていた。母は、私は、パス、と言って、冷えた麦茶を飲みながらテレビから目も逸らさなかった。父は、そっか、と言って、改めて私の方を見た。さすがに、社長の家族が皆欠席と言うわけにはいかない。そうして私は、父の会社の花火大会鑑賞会に行くことになった。




花火大会当日の夕方、別れた恋人に見せるべく用意していた真っ白なワンピースを着て、私は出かけた。駅は花火を見物しに出掛ける人々でごった返していた。浴衣のカップルが七割を占めている。地下鉄のホームへ下るエスカレーターでは、恋人たちに前も後ろも挟まれて、今から自分が身内の会社のしょぼい宴会に出掛ける途中であると言う事実がどうにもみじめったらしく、泣きそうになった。おろしたてのワンピースも、紺や朱色の浴衣の前ではひとたまりもない。父の会社につく頃には、私はすっかり悲しくなっていた。ビルの下まで私を迎えに来た兄が、どうした?と私の顔を覗き込んだ。心配されているのはわかっているけれど、それはまたそれでみじめであると、一度曲がった私のへそは、なかなかどうして直くならないのだった。


学校のプールくらいの広さがある屋上には、もうだいぶ人が集まり賑わっていた。空はまだいちばん星が見え始めた頃合いだったが、一発目の花火がもう打ち上げられた。私の顔を見て、父がおーっとむやみにでかい声を出し、大げさな身振りで手招きした。もう酒が入っているらしかった。あまりアルコールに強くない父は、すでに丸い顔を赤く染めている。一瞬、そのゆだった蛸のような頭を張り飛ばしたくなった。しかし私はその発作に耐え、父を無視するだけにとどめて屋上の端に歩いていった。


いじけている私に途中まで父も兄も付き合ってくれていたが、それさえ邪険にする私の態度に愛想を尽かし、二人ともそれぞれに、あちらこちらに囲まれた宴の輪に加わりに行ってしまった。花火がばんばんばんばん、途切れなく打ち上げられる。私はいたずらに孤独で、同時に唐突な自己嫌悪に陥っていた。味のなくなったガムを噛み続ける時のように、なかなかその感情を切り上げきらなかった。


私はときどき、とてもひねた子どもに戻り、幼児が眠くてむずかる時のように突発的に不機嫌になる。きっかけは瑣末なことでも、癇が高ぶって、からだ中の血液が流れを無視してもんどり打ち、末梢神経がピリピリ波打って絡まりそうになる。そんな時私を気遣って優しくしてくれる人たちに対しては、殺意すら抱く。この凶暴な情動は一瞬間の後に去るけれど、苦い後味を残してゆき私は深々と恥じ入る。からだのどこかの、自分の成長について行けてない部分が、こうした発作を起こさせるのだと思う。肉離れの一種かもしれない。


自分が嫌いだなあ、と思った。普段はあんまりそんなこと思わないたちなのだが、その時は、とても、思った。兄がもらって来てくれたさきイカをひたすら噛んだ。さきイカのくせに、酸い味ばかりが舌にしみるようだった。


やがてすっかり陽も落ちて、暗くなった屋上のそこここでキャンプ用のスタンドライトが点灯された。私はさきイカをしゃぶりながら立ち上がって、フェンスにもたれて屋上を見渡した。花火が打ち上がるたび指をさして大げさに喜び合う家族連れや、しんみりとカップ酒をかたむけるおじさん連中、若い社員たちが合コンのノリで盛り上がっていたりと、色々だった。知らない人ばかりで、だんだん心細さが募り、私の癇癪はしぼんでいった。機嫌を直して兄の隣にでも行こうかと思い、姿を捜した。兄のいる若い人たちのグループは、騒がしかったのですぐ見つかった。


その時、ふいに、目があった。その人は、兄たちの会話に加わっているように見せながら、輪を外れて、私と同じようにフェンスにもたれて立っていた。私のように拗ねているわけでもなく、輪からはみ出してしまったわけでもなく、ただなんとなくつまらなさそうに、缶ビールを手放しで口にくわえて、ぷらぷらさせている。


たっぷり三十秒は見つめあった後、私は吸い寄せられるように彼女の元へ近づいていった。私に気付いた兄が、おっ、と言って手招きをし、同僚らしい人たちに私を紹介した。私は素直に挨拶して、話に加わり、そうした後でそれとなく離れ、フェンスにもたれている人の隣に場所を占めた。

「くちびる、切れそう」

私は、彼女のくわえている缶ビールを人差し指ではじいて、そう言った。彼女はきょとんとしたが、すぐに缶を手に取って私に応じた。

「だいじょうぶ、ぶあついから」

そう言ってくちびるをめくって見せて笑った。私も笑った。やっと、花火大会にふさわしい気分になってきた。

「何食べてるの」

彼女に尋ねられて、私はさっきからしゃぶっていたさきイカを見せた。

「これ」

「ちょうだい」

彼女は私の手からさきイカをひょいと奪って、唾液に濡れているほうのはじから半分に裂いて、片方を返し、片方をくわえた。数年来の友だちみたいなふるまいにすこし戸惑ったけれど、イカをくちゃくちゃと噛みながら、おいしーね、と笑いかける彼女の自然さにすぐに巻き込まれた。

「なんかもっと、食べたいね」

そういって彼女は私の腕をひっぱった。私たちは屋上を徘徊して、あちこちでお酒とツマミを物色した。父の側へ行くと、彼はもうぐでんぐでんに酔っぱらっていて、私も何度か会ったことのあるおじさん仲間と歌なんぞ歌っていた。千花も座りなー、と誘う父の手からワインの壜を取り上げて、もうおしまいにしなさい、と身内らしく怒って見せた。おじさんたちは、千花ちゃんも大きくなったねえ、ほれ、これも持って行きな、といろいろ上等なおつまみを紙皿に盛ってくれた。子ども扱いされてばつが悪く、隣の彼女の方をちらりと窺うと、彼女はにこにこ笑い返して、大漁大漁、と再び私の手を引いていった。


もとの場所に戻ると私たちは戦利品を広げ、今度は屋上の外を向いて座り込んだ。花火はまだ上がっている。さっきよりも、鮮やかにきらきらして見える。私たちの足もとからからしゅんしゅん吹き上がっては、濃紺の夏の夜空に溶けていく。

「ちかちゃんって言うの?」

彼女が紙コップにワインをつぎながら尋ねた。もうだいぶ飲んでいるらしく、手もとがぶれて、ワインが屋上のコンクリートにしたたった。

「そう。こういう字で」

私は赤い水たまりに指をひたして、ライトが当たって白光りするコンクリートに、千花、と書いた。

「かわいいね」

「ありがとう」

「私のはね、」

彼女も私にならい、ワインで指を湿した。姿子、と、字が滲まないよう苦労して大きく書き出した。私はちょっと考えてから、言った。

「シナ子、さん」

 彼女はちょっと驚いた顔をした。

「あれ、なんで分かったの?」

「いや、なんとなく。違った?」

「ううん、違わない」

シナ子さんはにっこり笑った。よく笑う人だな、と思った。

「字を見ただけで読み方が分かった人、初めてよ」

学生の頃は、クラスが変わるたびに先生に呼び間違えられて、疎ましい思いをしてきたものだと彼女は語った。

「うれしいなあ」

本当に、彼女はなぜだか、心底うれしそうな顔をしている。それはもう、こっちの胸が熱くなるくらいに。私は、たまたま同じ名前の友人がいたので読めたのだけれど、なんとなくその事実は言わずにおいた。

「千花ちゃんは、社員じゃないよね?」

シナ子さんが、くすねてきたスモークチーズを齧りながら尋ねた。

「うん、いちおう、社長の娘」

「あれ、さっきの人、社長?」

「そう、いちおうね」

「社長令嬢」

「そうそう」

二人でふわふわと笑った。それであの人が兄貴、と、なんだか脱ぎ始めている兄を指差した。シナ子さんが、りっぱな胸筋ね、と褒めた。見苦しいものをお見せして、と私は恐縮した。

「シナ子さんも、社員じゃないよね?」

なんせ、こんな小さい会社の社長の顔を覚えていないくらいだから。シナ子さんは、兄の隣に座っている眼鏡をかけた男の人を指差した。その人は兄と同じくらいの若さで、兄の方を見ながら静かに笑っている。しかしそのうす笑いには、盛り上がる周囲の人たちに気づかれない程度のかすかな嘲りが含まれているように見えた。おい、ひかれているぞ、兄よ。

一瞬気の逸れた私に、シナ子さんが告げた。

「いちおう、社員の妻」

「え、」

 驚いて、間抜けな声が洩れた。

「あの人、私が結婚してる人」

ダメ押しのように、シナ子さんは言った。スっと酔いが醒めたような目で、その人を見ている。


私はまじまじとシナ子さんの容姿に見入った。シナ子さんは、明るいピンクのタンクトップに、細身のジーンズという出で立ちだった。ラメで輝く蝶々の飾りがついたサンダルは脇に脱ぎ捨てられ、きゃしゃな足首が放り出されている。長い明るい色の髪はゆるゆると波打って、目のぱっちりした可愛らしい顔の横を流れ、目が釘付けになるほどふくよかな胸の上に垂れていた。よく見ると、第一印象ほどやせていないことが分かる。剥きだしになった少し太めの二の腕は白く柔らかそうで、触れてみたいと思わせた。肉感的、とは、こういうことを言うのだろう。甘く、おもい香りが、彼女がかすかにからだを動かすたびに流れた。


私の隣にいる人は、女、だ。人間とか大人とか社会人とかではなく、女、という生き物。ましてや、妻だなんて。所帯じみた匂いなど欠片も感じられない。結婚、て、なんだ。連想できない。

「どうしたの?」

 黙りこんだ私の顔を、不思議そうに彼女が覗き込んだ。

「結婚とか、してる風に見えない」

「ほんと?」

シナ子さんは、照れくさそうに笑った。いやあ、もう二十六歳とかなんだけどね、落ち着いてないってことかなあ、などと言いながら、嬉しそうにしている。

「千花ちゃんは高校生?」

「うん、二年」

「わあっ。どうしよう、若いねえっ」

シナ子さんはあわてた。うー、年なんて言うんじゃなかったー、と、ひざを抱え込んでいる。私はようやくさっきの衝撃から立ち直り、笑って、シナ子さんも若い若い、と、彼女の頭を撫でた。


私たちはそれから、ずいぶん長くお喋りをした。宴会がお開きになるまで、ずっと喋り通しだった。そしてたくさん笑った。たいした話はしなかったけれど、さえない夏休みが帳消しになるくらい、楽しかった。慣れないアルコールも手伝ってか、ふわふわした、軽やかな心持ちになって、体の中がすっかり風通しよくなった。


やがて花火大会はおわり、父ががらがらになった声で一同に清聴を乞い、一本締めで宴の席をしめた。私とシナ子さんも、立ち上がって拍手をした。その後で兄に名前を呼ばれ、ちょっと席を外すつもりでそっちへ寄って行ったら、帰り始めた人ごみに紛れてシナ子さんがどこにいるのか分からなくなってしまった。私は必死に目を凝らして彼女を捜したけれど、どうしても見つけられなかった。手品師が布の中にピンポン玉を消してしまうように、シナ子さんは消えた。ぐずぐずと彼女の姿を捜す私に、俺と父さんは片付けがあるから、おまえは先に帰ってろ、と兄が命じ、私はしぶしぶ屋上から降りた。


未練を残しつつも、帰り道はとても満ちたりた気分だった。上等のチョコレートを食べた後で、おいしかったなあ、もっと食べたかったなあ、とため息をつく時みたいに。行きと同じく、道路も駅も恋人たちで溢れていたけれど、もうそれほど寂しくはなかった。むしろ、ほほ笑ましいくらいだった。




家に帰り着いた時には、もう十一時をまわっていた。鍵がかかっていた。母はもう、寝ているのだろうか。音を立てないよう静かにドアを開けた。

家の中は真っ暗だった。窓が開けっ放しになっているらしく、風がすうっと吹き抜けて、汗ばんでいた肌を乾かした。


のどが渇いていたので、台所へ直行した。目が慣れてくれば、カーテンの引かれていない家の中は、外が晴れているせいか仄明るかった。麦茶を飲もうと思い冷蔵庫を開いたけれど、いつもたくさん作り置きして冷やしてある水差しがからっぽだった。仕方がないので、水道の蛇口をいっぱいにひねった。流しにかがみこみ顔を横にして、ほとばしる水の棒に噛み付くように、直接口をつけた。受けきれない水が顎を洗った。生ぬるい水はそのまま首をつたい、ワンピースを濡らした。シンクを囲む青いタイルが、ぼんやり浮き上がって見える。のどが潤っても、しばらくそうして口に水を受けていた。風がやんで、はだしの足の裏がじっとりと汗をかき始めた。

「おかえり」

 はっとして振り返ると、台所の入り口に、母が立っていた。

「…ただいま」

私はおどおどと腕で口をぬぐった。そんな私の姿に、叱るでもなく、笑うでもなく、母はぼんやりした目を向けている。一体いつからそうしていたのだろう。

母は白い寝巻きを着ており、明りのない薄青い闇の中に浮き上がっている。

眠ってはいなかったのだろうか。起こしてしまったのかもしれない。

「早く寝なさい」

特にそうも思っていなさそうな、投げ遣りな口調で告げて、母は足音もたてずに台所を出て行った。つめたい汗が一筋、背中をつたって落ちていった。夜だから、少し冷えたのかもしれない。なんとなく寒気がするように思われた。私は身震いした。


それから、台所と廊下と洗面所の電気を次々に点けてまわり、閉じまりをしてカーテンをしめた。家の中が寒色から暖色に変わり、私は安心して、シャワーを浴びてベッドに横になった。花火大会は楽しかったな、と、ベッドの中でシナ子さんとの会話を反芻した。しかし、先ほどのざらついた心地は、なんとなくぬぐえずじまいだった。その晩は、明りをつけたまま眠った。




次の日、始業式を終えて早々に帰宅した私は、居間でカルピスを作っていた。家には私一人で、外が明るいせいで居間は薄暗かった。窓際の革張りのソファは差し込む陽光で白光りしており、焦げたように熱くなっていて座れたものではなかった。お中元でもらったカルピスの壜と汗をかいた水差しを床に並べ、私はソファの足もとにぺたりと座り込んでいた。氷を山盛りにした背の高いグラスに白い原液をとろりとろりとついで、水を多めにそそいだ。マドラーでかき混ぜるかたわら、足を開き上半身を折り曲げてストレッチをした。


そこへ、母が帰ってきた。お茶の日だったらしくまだまだ暑いというのにかっちり着物を着込んでいた。母はあまり家にいない。お稽古事とそのお付き合いとで忙しいのだと思う。

「お帰りなさい」

「…ええ」

 母は私のみっともない格好を一瞥し、すぐ目を離した。私は伸ばしていた足をたたんでスカートの裾を引っ張った。郵便受けに入っていたのだろう、溜まっていた何枚かの葉書を私の前のテーブルに置くと、着物を脱ぐために母は自室へ消えた。


足元の壜などを今さらながらごそごそとテーブルにあげていると、葉書の中の一枚が目にとまった。


―残暑お見舞い申し上げます。


父と兄に宛てたその葉書は、だいぶ前に来たものらしくはじがよれていた。うちの家人は皆気まぐれにしか郵便受けを覗かないので、そういうことはよくあった。葉書には当たり障りのない文章と適当なスイカの絵が載っていた。しかし、問題なのは差出人だった。


―立石 忠志/姿子


姿子。私はその葉書を取り上げて、まじまじと見いった。住所も印刷されていた。どうやら、うちの近所である。あー、わー、と一人で声を上げながら立ち上がって、カルピスをぐびぐび飲んだ。いてもたってもいられない、とはこういう時のことを言うのだろう。そっかー、えー、と呟きながら家の中をうろうろした。誰かにこの楽しい偶然を聞いてほしくなり、私は篠田の家に行くことにした。ばたばたと片づけをして、廊下に出た。


母の寝室の扉が少し開いていて、ふと中が覗けた。


帯をすっかりほどいた母は、下着姿のまま、鏡台の前に腰かけていた。母はレースで飾られたり、リボンのついていたりする下着を一枚も持っていない。スポーツ用の無地のものばかりで、私は小学四年生の時に兄の部屋で週刊誌を盗み見するまで、下着とはおしなべてそういうものだと思っていた。その時も、地味なベージュの上下を、細身であるのに豊かな胸と尻に着けていた。


母の細い背中はピンと伸びており、うなじは白かった。何をするでもなく鏡を見ているふうだが、顔は見えない。しばらく、母はそのように鏡に向き合っていた。それからおもむろに手をのばし、結い上げていた髪に触れた。べっ甲のかんざしが、す、と引き抜かれて、根元から染められた黒髪がばさりと肩に落ちた。


私は目を離し、家を出た。




その日から、私の近隣徘徊の九月が始まった。葉書は父か兄がしまい込んでしまったようで、かといって見せろとせがむことも出来ず、正確な住所は分からなくなってしまった。私は学校がひけると、近所を自転車でふらふらうろついてまわった。だいたいの住所は覚えているけれど、番地までは分からない。しかしそれで不都合と言うこともなかった。二学期が始まってすぐに篠田が本命の彼女を作ってしまったので、暇を持て余していたというのもある。しかしそうでなくても、それまで入ったことのなかった路地に入ってみたり、住宅地の中に可愛らしい雑貨屋を見つけたり、スプライトとかチェリオとかの懐かしい缶ジュースを売っているぼろの自動販売機を発見したりと、この徘徊はなかなか有意義なものだった。


夕方、私の住む町は普段よりよそよそしかった。いつもと違う道を通っているからかもしれないが、時々、ずっと遠いところへ来てしまった感覚が襲ってきた。道行くすれ違う人たち。畑仕事をしているお婆さんや、走りまわる小学生の一群。彼らは強い西日に背中を焼かれ、陰になった顔が塗りつぶされたようにべったりと黒かった。時おり聞こえてくる人の声もはっきり聞き取るにはおぼろげで、道の両わきに広がった、稲の肥えて金に色づいた田んぼが、顔がない夕方の人間たちの声を吸い込んでいるように思われた。


私は、偶然、シナ子さんに会いたかった。捜し出したいのではなく、見知らぬ人ばかりの見知らぬ町のような夕方の中、ばったりと、また目を合わせたかった。




そして、九月最後の日の涼しい朝だった。私はたまたま普段より十分早く目が醒め、十分早く家を出た。


いつもの通学路だった。弓なりの高架を風を切って走りおりて行った先、道路に面した古いアパートの庭に人影が見えた。その人影は洗濯ものを干していた。こんな早い時間に、と感心して目をむけていたら、相手と、ばったり、目があった。

私は急ブレーキをかけた。自転車は相手のいる庭の前でぴったり止まった。相手は私のいる垣根のそばまで駆け寄った。


あっれー、久しぶり、覚えてる?と、はしゃいだ声をあげて、シナ子さんが偶然、私の前にいた。私はといえば、なぜだか緊張して、自分が何を話したか記憶がない。そもそも夕方あれほどあちこち徘徊していたのに、まさか通学途中に会えるとは。そのことを思うと可笑しい。


シナ子さんとと真正面から向き合っているのが気恥ずかしく思われて視線を落とすと、彼女の右手が目に留まった。シナ子さんは干しかけていたショーツを右手に持ったままだった。透けたレースで飾られた、桃色の、小さな下着だった。私は少し慌てて再び視線を逸らした。けれども会話に気取られている内に、なんとはなしに彼女の右手に目がいくのだった。シナ子さんはあの時、へんに思わなかっただろうか。


早起きしたぶんの十分が経ち、そろそろ行かなくちゃ、と私が自転車にまたがると、シナ子さんが言った。

「またすぐ、遊びに来てね」

「うん」

「ほんとにすぐよ。明日でもいいわ」

「うん、わかった」


そして、その朝は別れた。学校に着くなり、私はシナ子さんに出会ったことを篠田にまくしたてた。夕方の徘徊を知っていた篠田は、私の興奮しきった様子を可笑しがっていた。

「なんだよ、千花。それじゃ恋じゃんか」

私も自分でおかしくなって、ほんとだあ、恋だ、恋、と、その時は、笑っていた。しかし次の日から、私はそれまでより十分早く起きるようになったのだった。

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