第2話 血(ち)

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 あたしにとっての幸福は、ママチャリのサドルの形をしてる。

 あたしたちが高校に通ってた頃、あたしは自転車置き場に放課後、授業が終わると走っていって、毎日そこに、紺色のママチャリを見つけた。そのママチャリは、何年も何年も見続けてるから、剥げかけの学校から支給されたシールとか、傷とか(けっこう前にスーパーコイケの塀でガッてこすった)の位置形状を、覚えてるっていうか記憶してる自覚も特になく記憶に刷り込まれてる、自分の体のホクロの位置みたいな感じで、っていう、そんなようなチャリである。凡庸以下のそのママチャリは、がちゃがちゃ並ぶ他の生徒の自転車に、埋没していた。たいそう、ダサい。でも私の目には、きらきら光って見えた、比喩とかじゃなくてリアルに。

 なぜなら、その紺色のママチャリのサドルには、片手が置かれていて、ママチャリ本体と同じくあたしの体のホクロの位置みたいな感じであたしはその手のことをいつも見ていてたくさん触ったことがあって、太くて短くて深爪の指が、トトントンとリズムを刻みながらサドルの上で踊っていて、イヤホンで、たぶんすごい昔の洋楽を(ジャズ? とからしいけどよく知らない)聞きながら、何本も何本も生えてる銀杏の木のてっぺんを見るともなく見ている人が、待っていたから。学校のある日は毎日。

 あたしたちが高校に通ってた短い期間、踊る指先の舞台だったサドル。見るたびに心臓が、ぎゅ・ぐじゅ、となった。まるで、レモン絞り器に押し付けられたみたいに。※ただしこの比喩に思い至ったのは大学の新歓で生レモンサワーを初めて飲んだ時で、その時やっと、あ、あれはこの感じ、とピンと来た。

 それからあたしたちは、ふたり乗りをして帰宅した。「漕ぐよ今日は」と毎日のように言ったけど、「いいよ漕がなくて、お前が漕ぐとか怖いし」と言い返されるから、大人しくチャリの後ろに横座りで乗って、背中に頬を押し付けた。思いっきり。そのたびに、あたしの高くも低くもない鼻は潰れた。

 チャリはゆっくりと発進して、校門を出て、田んぼ田んぼ田んぼ田んぼまた田んぼ、の、通学路を走った。帰りつくまで23分間、あたしたちは堂々と、外で、体温をわけあうことができた。

 23分後、チャリをガレージに停めて、あたしたちはふたりで、ただ今と言って帰宅した。

 ドアを閉めたらもう、触れ合ったりはしなかった。見つめ合うことも、名前を呼びあうことさえ。

 翔、というのが、彼の名前だ。しょう、と読む。しょうとか、しょうちゃんとか、彼を呼ぶお母さんがうらやましかった。二つ年上の彼のことをあたしは、兄ちゃんとか、兄貴とか、呼ぶしかなかった。ふたりきりの時以外は。


 あたしたちは用心深かった。ずっともう、長いこと。


 恋に落ちた日を今でも覚えてる。よくある話だ。

 幼稚園で、暴力を振るう男子がいた。長くのばしていたあたしの髪に油粘土を練りこまれたり、長い時間かけて描きあげた象の絵を鼻のところだけちぎり取られたり、あとはまあよく、叩かれたりした。ある時、頬をつねられたから、「つぎやったらせんせいにいいつける」と言いながら泣いたらグーパンが顔面に飛んできて、しぬ、と本気で思ったけど次の瞬間、水色のスモッグがあたしの視界いっぱいに広がった。翔が、かばってくれていた。暴力を振るった最低野郎に「女子泣かすなって」と翔が言い、それを聞いて、あたしは翔が大好きだと思っのだった。女の子として扱われる気持ちよさを、幼稚園年少のあたしに、幼稚園年長の翔が教えたのだ。

 本当によくある話だ。恋に落ちた相手と、両親が同じであるという点以外は。

 

 翔がいつあたしのことを好きになったのかは知らない。聞いたけど、「忘れた」とか言って教えてくれなかった。嘘だってわかってるけど、それでもよかった。翔があたしを好きだということは、確かなので。こういうのも、とてもよくある話だと思う。


 「三親等内の血族の結婚は日本の法律上認められない(よその国でもだいたい同じ)」という知識を、兄は早々に持ち合わせていたから、あたしたちは、あたしたち以外のすべての人から“特に仲が良くも悪くもない兄妹”に見えるように、細心の注意を払って、生きてきた。あたしが小学生になるかならないかの頃から。

 

 単なる恋の苦しみ以外、あたしは知らない。翔も同じだと思う。禁忌を犯している罪悪感、なんていうものは、特にない。そういう倫理観? みたいのを学習する前に、始まってしまっていたから。おおやけにできない恋愛、というのは、かなりの種類、存在するし、「ああ、あたしたちもその部類の一種っぽいねー困ったね、でもまあしょうがないからどうにか頑張って隠していこうね」と、ざっくりそういう感じの話し合いをした。当時、あたしたちは小学生だったけど、今考えても賢い判断をしたと思う。


 あたしたちは、普通に恋をしただけだ。だから、普通じゃないことを理由に、やめたりは、しなかった。

 あたしたちは一緒に暮らした。大学入学であたしが上京してからだから、12年間。

 大学を卒業して、就職して、働いて働いて時々ふたりで旅行して、喧嘩して仲直りして、毎日同じ布団で眠った。


 最近よく、サドルのことを思い出す。恋のテンションがピークだったあの頃。

 自転車置き場で、サドルに片手を置いて、銀杏の木のてっぺんを、翔はぼーっと見つめていた。翔の短い髪が、そよそよ、風に揺れているのを見ただけで、あたしはなんか、泣きそうになった。幸いなことにあたしと似てない、細くてキツネっぽい目を細めて、翔はいつも、春夏秋冬、銀杏の木のてっぺんをみていた。名前を呼ぶと、翔の視線はゆっくりとあたしに向けられた。あ、やっと来た、と言いたげなその仕草が、ポーズだってことは、あたしにはわかっていた。翔が、銀杏の木のてっぺんをぼーっと見て、イヤフォンから流れてくる音楽に聞き入ってるっぽく振る舞いながら、制服から露出してる肌の全面であたしを、感知していたことを。


 思い出すだけでまた、レモン絞り器があたしの心臓を絞り潰す。

 これが、恋じゃなくて、ほかの何だというのだろう。


「伶奈?」

 翔に呼ばれて、あたしは靴箱を閉めた。

「なに?」

「ほんとに、出てくのか」

「うん。結婚するんだから、結婚する人と、住まなきゃだし」

 一足しかないフォーマルなハイヒールをビニル袋に包んで、引っ越し用のダンボールの中へ、仕舞う。

 翔と12年間暮らした部屋を、今日、あたしは出ていく。ほかの男と、結婚するからだ。


「行くなよ。……行くな」

「ごめん」


 翔が泣いている。腕を伸ばし、抱きしめて、たくさんたくさんキスをして、キスをしていたら引っ越し業者がチャイムを鳴らしたので、離れた。


 ダンボールの積み込みが終わり、あたしはひとり、新居へ向かった。道すがら、あたしは泣いた。


 三十にもなって兄妹で暮らすなんておかしくない?/翔もそろそろお嫁さんを/いつまでも若くないんだから伶奈もフラフラしてないで/仲良くもない兄妹はルームシェアはしないよ/やっぱりあんたたち兄妹ちょっとおかしくない?


 あたしたちは細心の注意を払って生きてきたけれど、12年間の間にいろんな言葉を言われて、降り積もっていった。あたしたち以外の人の倫理が、あたしたちの中へ知識として、降り積もっていった。


 あたしが翔を愛してるのに出ていくのは、あたしがあたしたちのしたことを「過ち」だと自覚したからじゃない。あたしたち以外の人の倫理が、あたしたちの「普通である」という体感を、侵食することなど、できない。


 あたしたちの恋は、どこまでも普通で、ありふれた、ありきたりの、よくある話だ。恋に落ちたきっかけも、キスをした時の気恥ずかしさも、ちょっとうまくいかなかった初めてのセックスも、全部、ありふれていた。

 これは普通の恋なのだ。だから。

 これが普通の恋なのだと、証明するために、普通の恋らしく、終わりを作ろうと思った。

 春は別れの季節だから、恋人と別れ、条件のよさそうな別の男と結婚する。よくある話だ。

 だから。いつかあたしが、普通の女がやったほうがいいことをだいたいこなし終えたら、翔の元に帰ろう。これも、とても、よくある話。元サヤって、いい言葉だと思う。ほんとに。




 駅に着き、電車に乗った。ドアが閉まる間際、春風が吹いて、髪が舞い上がった。

 まだ、涙が溢れ続けていて、止まらないでいる。

 心臓は絞り尽くされてたぶんもう、ぐずぐずの血の塊になっている。リアルに、痛い。胸が、張り裂ける。

 あたしの恋は今、狂おしいほどに、普通だ。



終わり

2016.5.15 ほぼ朝   作:ムール貝

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後記

この短編の第一にして唯一の読者であるBの感想。「昼ドラっぽいね!!!」

私の返信。「意外とそういうの好きなんだねー」


Bは、私がなにがしか書いていることがとにかく嬉しいと、メールに書いてきた。「まあ前回も今回も、内容が若干不健全だけどさ、何もしないで引きこもってるよりは全然いいよー。よかった、安心した。ま、あんたが一人っ子だからってのもあるけどさ。これが実録物だったら手に負えないしw」と。


私はこれを読んで、安心したというBに、苛立っている。

この小説は、読み手を無理やり当事者にする装置でなければならない。なのに。

他人事かよおいー。


ちなみに、私自身の幸福の形は、



何だろう、特にない。



Bのメールに腹が立ったので、次はなにがしかの形で復讐したいと思う。

書き手が読み手に抱かせようと目論む感情の種類が、プラスのものばかりだと思ったら、大間違いだ。




明日の夜は何を書こう。

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